哀愁日記
底に哀はあるの。

もしくは、

「常識日記 文科系的日常」


西紀2007年8月分

Caution!

このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクト、パーソナルメディア社、並びにYRPユビキタス・ネットワーキング研究所は関与しておりません。
守秘義務の関係上、伏せ字になっている箇所があります。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

2007年8月1日(水曜日)
 関東梅雨明け。

 B.C.E.8年、初代ローマ皇帝アウグストゥスは改暦を行い、それまでSextilisと呼ばれていた月の呼称をAugustusと自分の称号に変更し、おまけに月30日だったのを31日に変更した。自分の誕生月だったからである。増やした分の一日は一年の末月であるFebruarius(2月)から差っ引かれた。
 ちなみに彼の養父のユリウス・カエサルも自分の誕生月をQuintilisからJuliusへと変更してしまっているのだから、血は争えないというところか。

 二人とも碌でもないことしてくれたもんだよね。それまではQuinque(5)、Sex(6)、Septem(7)、Octo(8)、Novem(9)、Decem(10)って綺麗に順番に並んでたのにねぇ。
 ちなみに古代ローマ暦は春分の月が一年の始まりなので現在の3月から始まる。


2007年8月2日(木曜日)
 6月に採り上げた当逃げ動画公開事件の顛末は「ネット動画投稿サイトに映像、当て逃げ男を書類送検と相成ったそうな。
 個人的には東京都公安委員会は本件について竹の塚署が取った行動が適切であったかどうか、審議すべきだと思料する。本来、今回のような自救行為は行なわれてはならないことになっているわけで、にもかかわらず、被害者が動画をネット上に公開するという挙に及んだことは、警察の怠慢を疑わせるに充分だからだ。
 とりわけ本件のように、結果的に被害者の行動が利益を齎した場合に於いては、後続が生まれないとも限らず、もしそうなれば司法制度全体に悪影響を及ぼしかねない。このまま放置して、「警察がアテにできないときはネットで証拠を公開だ!」などという行為が一般化し正当化されることは、法治の上からも避けねばならないはずだ。
 注意深く推移を見守りたい。

2007年8月3日(金曜日)
 あちこちで採り上げられていますが、YouTube/Googleと日本の権利者団体との第2回の会合があったそうで(日経BP,Impress Watch,IT Media,WIRED VISION)。
 特に興味深いのがWIREDの記事ですが、それ以外についても、権利者団体側に好意的な記事が少ないように見受けられます。
 WIREDの記事の最後で触れられているBBCの挑戦は数年前から始まっており、それについては隨時recommuniの日記で採り上げていました。最近recommuniの日記は更新停止しているのですが(^^;
 BBCのここ数年の取組みで話題になったものといえば、CCライクなライセンスで放送素材を利用できる「Creative Archive」や、YouTubeとの提携、今般βテストが始まった“過去7日間の番組が自由に見れる”「iPlayer」などが挙げられますが、総じて、権利の保護より利用の促進を念頭に置いていることが見て取れます。
 これらの方針について、2004年の段階でDirector of New Media & TechnologyであるAshley Highfield氏が「もし私たちがこの市場に参入しなかった場合、音楽産業に起こったことが私たちにも同じように起きるでしょう。私たちが無視した場所で私たちを無視して誰もが番組をリッピングし、送信しはじめるのです」と語っています。全く慧眼と言えましょう。
 BBCは公共放送であって営利団体とは違いますが、日本の公共放送は権利者団体の一員としてYouTubeにイチャモン付けているので、同じ公共放送と言っても考えることが隨分違うものだと感心します。

 しかし……権利者側団体って、そろそろ気を付けないといけない季節になってきていると思うのだけどな。コピー・ワンス問題でも大きく讓歩を迫られて、彼らとしては隨分不利益を被ったように感じているだろうけど、実際には多くの消費者側ウォッチャーはあれを解決だとは認めていない。YouTubeの問題についても、不利益を被っている人間よりも、それによって利便を享受している人間の方が遙かに多い。著作権という権利が自然権ではなく、法で定められた権益である以上、その範囲や強弱は国民の総意に基づくわけで、最大多数の最大幸福の原理を突き詰めていけば、基本的にYouTubeは肯定されてしまう。
 斯様な状況に於いては、国民全体を敵に回すような行動・言動は慎まなければならないのだけれども、どうもその辺についての理解が足りないのではないかと危惧される。


2007年8月4日(土曜日)
 今日は岩波ホールで「ヒロシマナガサキ」(原題:White Light/Black Rain)を観賞。作品は興味深かったが、先日の「特攻」(英題:Wings of Defeat)以上に、日本側のプロデュース姿勢に疑問が湧いた。
 この作品はドキュメンタリー映像作家のスティーヴン・オカザキ監督によるもので、ナレーションを含まず、多くの人々のインタビューをモザイクに配している。この作品の第一の目的は、原爆とはどの様なものかを基本的知識が薄い人たちに向かって発信することにあると感じた。その上でこの問題について考えることを希求している。私にはそう感じられた。
 それ故にインタビューの中には原爆製造に関わった科学者や、エノラ・ゲイの搭乗員、グレート・アーティスト(観測機)の搭乗員が登場し、それぞれの意見を述べている。
 正直言えば、私はむしろ米国側の主張にこそ、共感を感じた。「世界はこれから核戦争の可能性と共に生きていくしかない」「知識と金さえあれば誰でも作るだろうね。核兵器を欲しいと思う国が持つことになるのは間違いない」といった意見は、私の世界認識と一致する。
 祈ったり歌ったり踊ったり“写九”したりして平和がやってくるなら、いくらでも歌舞音曲に励めば宜しいと思うわけだが、現実にはインド、パキスタンに続いて北朝鮮が核武装を果たした。次はイランだろうか。そういった“現実”に対して、平和運動というものがどの程度効果を持っているのか、私は疑わしく思っている。エネルギーを費やすなら効果のある方法に費やすべきであって、徒にエントロピーを増大させる行為には、賛同しかねる。
 この作品には、多くの人がこの作品を見ることによって結果的に原爆の使用を著しく困難にするだろうと、素直に感じさせるものがある。たとえ戦時下に置かれ、手元に核兵器があったとしても、使用を躊躇わせる力が、この作品にはある。この映画は実に效果的な反核映画だ。
 だが、反戦映画ではない。もっと極端に言えば、核廃絶映画でもない。捉え方を観客に預けた映画ではあるが、その様な単純な作品ではない。
 例えば、映画の冒頭で渋谷の風景が映し出され、「1945年の8月6日に何があったか知っていますか?」という質問に答えられない若者が次々に登場するが、これは勿論誘導である。間違いなく答えられなかった人だけを拔き出したものだ。
 しかしその受け止め方は色々あって然るべきだ。
 古の日にHenry W. Beecherは「I can forgive, but I cannot forget, is only another way of saying, I will not forgive. Forgiveness ought to be like a cancelled note - torn in two, and burned up, so that it never can be shown against one.」と言ったわけだが、この考え方に立てば忘却とは許しであり、否定すべきものでもない。
 私はこの作品を反戦映画として受け止めさせようとする日本配給元の姿勢に疑問を抱く。先の「特攻」もそうだが、この両作品は、結果として観客に反戦の心を懐かせるかも知れないが、必ずしもそれだけの映画ではない。その人のバックボーンによって受け止め方が千変万化する種類の作品であると感じる。なのに両映画の日本配給元はこの作品を反戦映画として売り込もうとしている。もっと豊かな感じ方があっても良い筈なのに、プログラムを読むと解釈を強要されているかのような錯覚に陥る。
 そもそも邦題の付け方に異論がある。
 「特攻」は「Wings of Defeat」であり、直訳すれば「敗北の翼」であり「特攻」とは隨分印象が異なる。しかし故に作中で元米兵が言ったように「米軍にだって特攻するくらい根性あるやつはいた」「ドイツや日本に追い詰められれば、米軍だって特攻をやったかもしれない」という言葉が生きてくる。つまり、立場が逆であればどうなったかわからない、という監督の訴えが效いてくる。
 「ヒロシマナガサキ」にしたところで、原題はあくまで「White Light/Black Rain」…「白い光/黒い雨」であり、それが何を意味するのか(日本人の多くには予想がつくにしろ)、見終わった後に理解できるような仕掛けになっている。
 それをなんでまたあんな固定されたイメージを持つ名詞に置き換えたのか。そこに作為がないと言われても、私には俄には信じがたい。
 個人的にこれらの邦題は、作品を捻曲げかねない印象操作だと感じた。

2007年8月5日(日曜日)
 広島原爆記念日を明日に控え、時事通信が変な記事を流していた。
 「原爆投下必要なかった?=「使用せずとも終戦」と分析−米軍神話覆す機密資料という記事なんですが、何の意味もない記事だと私は思いました。
 「原爆を投下せずとも日本はいずれ降伏した」「原爆はポツダム宣言受諾の決定的要因ではなかった」というのは歴史学的にはほぼ確定している解釈で今更目新しい点はありません。しかしその両者と「原爆投下は必要がなかった」とは結びつきません。全く、一切、これっぽっちも。
 「原爆投下には米国が意図したほどの効果はなかった」と解釈するのが妥当であり、「原爆投下は必要がなかった」というのは論理が飛躍というより捻転しています。
 報告書は1946年4月に於いて、米軍が日本の資料を入手し分析した所も踏まえられているため、1945年8月の段階で同じ判断ができたと言っているわけではありません。むしろ、「戦後になってわかったことだが、原爆はそれほど大きな要因にはならなかったらしい」、というだけの話です。
 この種の結論は日米のみならず多くの国の歴史学界で認められているところであり、原爆のみならず、実は「戦略爆撃には、かかった費用程の効果がなかった」との結論まで導かれていたりします。費用対效果の高い爆撃とは、特に石油備蓄施設など物資集積場への攻撃であり、また輸送網への攻撃であったことが、戦後の調査でも明らかだったりします。
 では戦時中に戦略爆撃、引いては原爆投下の判断を下したことは不必要なことだったのでしょうか?
 後世に判明した事実に基づいて当時の判断や事象を断罪するのは、歴史学が厳に戒めるところであり、私も全く肯んずるところです。そのような断罪には益が無いどころか、物事の過程を軽視するため有害ですらあります。
 起きてしまったことは取り返しがつきません。咎を責め立てても死者が生き返るわけでもありません。歴史学的教訓を得るとすれば、このような全面戦争においても、原爆一発が齎す影響はそれほど大きくないのだ、ということでしょうかね。再び同じ境遇に置かれたときに、違った判断を下せるように。

2007年8月6日(月曜日)
 対テロ特措法の期限切れを前に、日米両政府から微妙な発言が相次いでますな。
 外交的には、これは継続したほうが良い法律なのですが、何分参院第一党となった民主党がこれに反対しているわけで、参院否決となれば衆院2/3を以って再可決とする伝家の宝刀を拔くや拔かざるや、といった話に発展していきます。法の期限切れという時間制限があるため、再可決する間もなく法が失效する可能性もあるのですが、もしそうなれば日本としては外交的な痛手を蒙ることになります。
 特にまずいのが、負の循環に陥りかけている日米関係を決定的に悪化させかねない点です。
 何が始まりだったわけではないのですが、日米の外交関係は非常に微妙な局面におかれてしまっており、日本も米国も、互いに不信の目を向けつつあります。特措法が満了となれば、負のスパイラルは決定的なものになりかねません。
 とはいえ、頑張って法を延長したからといって、事態はいいとこ現状維持で、好転するわけでもないんですけどね。痛し痒しですな。

2007年8月7日(火曜日)
 とりあえずCD殆ど持ってるよ>それ
 というか、Genesisさんともあろうお方がMOSAIC.WAVを知らなかったことに驚いた。
 今年も新譜はコミケ初売りかよ……。あの企業ブースの中に買いに行かされるのはやめて欲しいぞ……。

 朝のNHK「おはよう日本」内「まちかど情報室」のコーナーで自動返し機能付たこやき器“たこ焼き工場 トントン”が紹介されていた。
 関東圏じゃ関係ない話題だなぁ思いつつも、大阪民国ではどのように受け止められるのだろうかと多少気にもなった。私の周囲の阪国人というとはくほー氏が真っ先に思いつくわけだが、恐らく彼辺りに言わせると「タコ焼きがひっくり返せない関西人は存在しない!」というところになるのではないだろうかと推測。最近とみに阪在者としての言行が目立つようになってきたイトノ氏の家には備わっているのだろうか。

 反戦映画として観ることに、別に異論はありません。>小形さん
 ただ、反戦映画として観せられること異論があるのです(臍曲がりとも言う(^^;)。
 あと、気を付けないといけないのは、作中にニュース映画の映像だけではなく、当時作られた映画のシーン(つまり、戦中のプロパガンダ映画のフィクションシーン)が含まれていることでしょうかね。7月31日のティーチインでプロデューサのリンダ・ホーグランド女史はその件について「考証よりも雰囲気を伝えることを重視したため」というように言っていました。まあ、その程度の加工は許容範囲だとは思いますけども。
 あの二つの映画を観ていて、私はとかく、日本も米国も今も昔も大して変わんねぇやな、と思ったものでした。戦争の愚かさに古今東西の差はない、と。
 「ヒロシマナガサキ」の方だったと思うのだけど、女子勤労動員のポスターや映像が使われていたのだけど、これを見る側に「Rosie the Riveter」の知識があるかどうかで受け止め方は大分変わるでしょうし、寧ろ監督が米国人であることを考えれば、見る側にそれらの知識があることが前提なんではないか、と思ったりもしたわけです。
 まあ、そういったところも含めて、観る人によって受け止め方が大きく変わる映画だろう、本来は、と思った次第です。

 職場で哲学教育と称してが一人一冊配られたわけだが、『葉隠』を与えられた鍋島藩士はこんな気分だったのかもしれない、と思った。


2007年8月8日(水曜日)
 私の好みの選手じゃないけど、バリー・ボンズの新記録には素直に賞賛と祝福を。

 「中越沖地震における原子力施設に関する調査・対策委員会」の宮健三委員が辞任したらしい
 今ひとつ、私には、辞任に至る理由が見えてこない。
 この手の委員なんてのは能力最優先、人格なんざ二の次だと思うのだが。原発が過去に例のない地震を食らったら、小躍りして歪みゲージを確認して回るくらいのイカレっぷりの方が、個人的には信用できる。胸を張って「今回の地震の結果には満足してます。次の原発にご期待下さい」とか言い放っていたら、私はファンになるね(爆)。
 原子力保全工学第一人者としての宮氏の発言についてはこれまでも関係者からも疑問を呈されていたようだが、能力に疑問を附さねばならないような点は探し出せなかった。伊達や粋狂で日本保全学会会長は任されまい。
 長らく原子力保全工学を研究していた第一人者として、原発が680Galもの加速度を受けるというのは、得難い機会だと思ったとしても不思議はない。なにせ原子炉の隔壁強度を確認するために、本当に飛行機をぶつけて実験したことのある研究分野なんだもの。
 発言が不穏当だったことは確かだが、辞めなければならないほどだとは思わないのだけどな。人格か能力か、と問われたら、そんなもん能力に決まってるんだから。


2007年8月9日(木曜日)
 長崎原爆記念日。

 米国での「White Light/Black Rain」の感想やらレビューやらをちらちら斜め読みすると、原爆投下の是非について棚上げしている点に、よく言及しているように感じられる。アメリカ側としてみれば、原爆投下の判断を悪し様に言われれば気分も悪かろうし、私としても益のない行為だと思う。
 それ故に、監督のバランス感覚が映える作品だな、と思う。
 別の言葉を敢えて使えば、日本の反戦・反核兵器運動のやり方って、本当に相手の理解を得られているの?ってことにもなるのですけども。相手に伝わらない運動なら、地下室で壁に向かって演ってればいいんだ。

 Impress Watchに『「DRM普及でも補償金制度は必要」権利者側がメーカーに利益還元求める』という記事があった。
 私の理解では、個別許諾・個別課金が困難であるからこその補償金であった筈で、DRMとそれに連動した課金システムが整備され普及すれば、自然と補償金制度はなくなっていくのではないだろうか。もちろん、複写使用料のようにアナログなものはどうしようもなく利権として残っていくのだろうけども。
 とまれ、デジタルオーディオ/ヴィジュアルについては、良くも悪くも将来的に超流通型のシステムが生まれる可能性はある。もしそうなれば、補償金制度は意味を失う。
 しかしCPRA椎名和夫氏はそれに反対した上で、私的複製の問題は、メーカーが高度な複製技術を一般に普及させたことから生じているとメーカからの利益還元を求めたんだそうな。正確なところは議事録が出るまで保留だけど、自分たちの存在を否定するような発言だな、と思った。
 著作権という概念の発生は、印刷技術の発達に拠るものなのは論を俟たない。文字の著作物が印刷技術によって普及した後も、音楽著作は暫く無視され続けており、実演家に至っては何をか況やだった。それが劇的に変化するのはレコードの発明によるものであり、その後もラジオ、テレビ、カセットテープ、コピー機、と新たな技術が生まれ、普及するたびに芸術は新たな技術に進出し、結果として著作権は変化してきた。
 それは技術の進歩によって生まれた著作権という概念が持つ根源的な性質であって、「技術が進歩したから著作権が守られなくなった」というのは著作権の成立背景を無視した殿様発言に感じられる。それが嫌なら、印刷を利用せずに手書きで本を書写し、音盤を使わずに辻で歌って投げ銭を得ていれば良いということになる。
 技術の進歩の恩恵を一方で受けながら、しかしその技術の進歩による不利益は蒙りたくないというのは、人間としては実に正直な意見であると思うが、もし著作権者側がそのような我が儘を主張し妥協を拒否するのであれば、行き着く先には民主主義という名の“数の暴力”による解決が待っているのではなかろうか。私はそのことこそを危惧するが。
 文藝家協会の三田氏も然程この手の摺り合わせが巧いほうだとは思わないが、椎名氏は輪をかけて下手なように見受けられる。引くところ、妥協するところ、讓れないところをもう一度整理したほうが良いように思うが。


2007年8月10日(金曜日)
 梅雨が明けて改めて自転車に乗り始めると、腿がぱんぱんです。
 ぐあ……。

 韓国が北朝鮮との首脳外交に漕ぎ着けたようだ。
 まあ、なんだ。
 日本側にはもう外交的に有效な手札が殆どないので、推移を見守るしかないですな。とりあえず現段階では拉致問題を前面に出しつつ、膠着状態の打開を模索するしかないわけで、韓国のアクションと北のリアクションを見て次の一手を出すしかないわなー。
 しかし平壌詣でとは、韓国も何を考えてるのかな。


2007年8月11日(土曜日)
 麻生さんを幹事長にしちゃったら、外相どうすんのよ?とか思ってしまう。塩崎さんか?
 今この難局にある日本の外交を、誰に任せるのか、非常に気になる。

 そういえば先の選挙の争点の一つだったらしい事務所費問題ですが、一円から領收証を取れと言っている人達がいるようなんですけど、いくら何でもそりゃ酷い。一円の領收証のために何円かかると思ってるんだ。せめて1,000円くらいからにしとかないと、領收書切る側も面倒だろうよ。
 どうも民主党の意見を聞いていると、現実を無視した耳障りの良い発言であることが多いように思う。

 「米、ミサイル防衛ソフト対日供給を一時停止」という記事に、むべなるかな、と。米国側から見れば、当然とも言える措置で、日本としては何も言えない。それに日本側からは、日本製の兵器について何の情報も出ていかないのだからねぇ。
 武器輸出三原則は結構なんだけど、外交的に見たときに、一歩間違えれば「日本は世界有数の軍事技術を独占している」とも取られかねないことに思い致すべきかと。


2007年8月12日(日曜日)
 日航123便墜落事故から22年。
 思えば、あれも戦後日本の軍事史を語る上で、不可欠な出来事であった……。

 なんか画伯のblogで触れられていたんだけど、小沢一郎民主党代表の秘書に、正体怪しからぬ人物がいるという。
 別に国会議員の秘書に外国籍の人間がいることは否定しませんし、怪しい人物であれば日本国籍の方が多いでしょう。
 ですのでこの問題はあくまで個別事例ということなのですが、世界韓民族女性ネットワークに出入りしているような人物ってのは、ちょっとね……。そのネットワークって、確かドイツかどっかで反日デモかましてた集団でしょ?
 日本の国家から給与貰っておいて、一方で反日組織に身を置くってのは、些か不見識ではないかと……。


2007年8月13日(月曜日)
 朝、小雨がぱらついていた。地下鉄の中は、隨分空いていて、お蔭で冷房が效きまくっていて寒かった。

 昨年二月に発表された何もない空中に立体映像を描く技術ですが、順調に進歩しているそうな。
 そのうちカラー表示が可能になったりするのだろうか。
 SFなんだか現実なんだかわかんなくなってくるな(笑)。

 読売On Lineに「大阪・お好み焼き定食 具多くふわり、ご飯にマッチ」という記事が載っていた。
 大阪の食文化について、私は特に否定するものではないが、それが日本のマジョリティだなどという意見には反対せねばならないと固く心に誓っている。どんな料理にも八丁味噌、という風習が日本のスタンダードではないように、うどんの茹で汁による環境破壊が局所事象であるように、お好み焼きライスも日本の一部習俗でしかないと主張せねばならないと思うのです。
 もしここで引いてしまえば、連中は瞬く間に日本文化を蚕食し、「道頓堀ダイブは日本の固有文化」などと言い出しかねません。
 私は“鬪魂込めて”を力一杯合唱する正しい日本文化を……(略)。


2007年8月14日(火曜日)
 先月出たばかりの ひのきいでろう新刊回收になっているらしい
 出版社の都合って言うけど、それってもしかして倒産
 ひのきいでろうの作品好きなんだけどなー。
 当時まだTRCサンシャインで開催されていたコミティアで出会った檜出郎「同人誌即売会禁止令」(1993年)からもう15年近い歳月が流れたのか……(嘆息)。

 昨年11月に豪洲近海で発見された甲標的の洋上慰霊式典が、豪洲政府によって営まれた由。(参考:特殊潜航艇によるシドニー港攻撃/Wikipedia)
 全く、豪洲政府の心遣いに痛み入るばかり。


2007年8月15日(水曜日)
 敗戦記念日。

 なんか南北首脳会談を開催することになった隣の半島両国ですが、南の首領様が「南北経済共同体」とか言い始めている。
 大丈夫か?
 いや、大丈夫じゃないんだろうけど。
 意図はともかく、実現すれば北の経済を南が支えることになるわけで、それだけの地力が韓国にあればいいが、一歩間違えばもろとも沈沒と言うことになりはしないか。と言うか、その公算の方が大のような気がしてならないが。

 平和主義者を集めて討論させた結果、「こりゃ戦争なくなんないわ」と思わせる結果を出すというのは、どういうアイロニーなんでしょうね?>NHK


2007年8月16日(木曜日)
 山形失陥の日。
 埼玉と岐阜でこれまで山形が持っていた記録を0.1℃上回る40.9℃を記録。

 桑田パイレーツ退団。
 今は素直に、お疲れ様と言ってあげたい。

 「甲子園で学ラン“封印” 宇治山田商応援団「戦争想起」に過剰反応?という記事を読んで思うのですが、この投書した人間は精神病院で治療を受けるべきでしょうよ。
 学ランが戦争を想起させるなら、セーラー服は言うに及ばず、ブレザーだって戦争を想起させるでしょう。旭日旗に似ている某新聞社の社旗は大東亜戦争を煽りまくった負の記憶に充ち満ちていますね。
 恐らく右を見ては戦争の残滓を見つけ、左を見ては軍国主義の名残を感じられる、過敏な感覚の持ち主なのでしょうから。


2007年8月17日(金曜日)
 コミケ初日。
 11時頃に行けば流石に行列は捌けているだろう、なんて思って行ったら、30分待ちの行列。参加者が増えているのか、単位時間当たりの入場量が減っているのか、その両方なのか。以前はもの凄い勢いで行列が無くなっていったものだけど……。フリー入場の放送があったのは12時過ぎていた。
 とりあえず本日は知り合いのサークルに挨拶して回ったり、企業ブースで音楽CDをGetしたりして過ごす。
 なんか発売中止になってたのもあったけど……。
 並んだ中で一番長い行列はMaple Leafだったり。

 『「稀星(きらら)ちゃん」立山町駄目でも富山市OK 出生届の判断分かれるというニュースについて、感想二点。
 第一点。本来的に戸籍には「読み」はないので、読みを理由に不受理とすることは、適切ではないと考える。
 第二点。「稀星(きらら)」なんて名前を付けられた娘が将来その名前で不自由するかも知れない、と想像できない親がいることは、まことに遺憾である。
 せめて将来においては、国民総背番号制と共に、改名の自由を法で保証しませう。


2007年8月18日(土曜日)
 そういうこともあろうかと! 密かに「ヲタMac」を一部余計に買ってあるので明日持って行きます。

 ベネズエラチャベスたんが、また憲法改正をするそうな。今度は再選規制を撤廢するらしい。確か前回は任期を伸ばしたのではなかったか。野党ボイコットの国会でやりたい放題、反政府系放送局の放送免許を更新させずに停波させて、同一チャンネルで政府系プロパガンダ放送局を作ったりと、隨分香ばしいですな。
 革新系左翼が政権を獲ったときの典型例のような腐りっぷりに、ある種の感動すら覚えそうです。

 ここんとこの群発地震について、Hi-Net情報を確認。
 しかしこの国の地震觀測網は素晴らしいなぁ。


2007年8月19日(日曜日)
 旧暦七夕。コミケ三日目最終日。サークル参加。
 三日で9時間くらいしか寢てない状態で参戦したため、何分睡眠不足。座ると寢落ちしそうな状態。

 しかし……コミケ襲撃(世界の中心で左右をヲチするノケモノ,週刊オブイェクト)って、何考えてるんだか。


2007年8月20日(月曜日)
 CRTディスプレイの調子が加速度的に悪くなってきている。
 新しいものと入れ替えたいと何年も前から思っているのだが、なぜか私の要求を満たす常識的製品が無くて困っている。
 120ppi以上で17〜19inchというだけなのに。

 「中国、太平洋の東西分割提案か 米軍は拒否」ですか。隨分19世紀的な発想ですね。
 こんな考え方を持った国が隣にあり、かつ現在毎年10%以上の軍拡を繰り広げている、というのが日本が置かれた状況なのですね。
 九条教も大概にしとかんと、本当に事が進んでからでは二進も三進も行かなくなるがな。今日本が取り得る責めて有效な対策は、外交と軍拡でしょうね。今以上に人的な国際貢献を行いそれをアピールし、世界における日本の地位を高めておかないといけない。
 アフリカのどこかの国のように、忘れ去られた国家にはなりたくないからね。


2007年8月21日(火曜日)
 個人的にはもう勝負あった、と思っていたBlu-ray DiscHD DVDの戦いなのですが、ソフト屋による戦いは今が佳境だそうで、パラマウントがBlu-rayから撤退しHD DVD専売に、20世紀FOXは逆にHD DVDをやめてBlu-rayに絞るそうな。
 先日、Blu-rayソフトの売上はHD DVDソフトの売上の約二倍なんて報道が出ていたことを思うと、パラマウントの判断には疑問があるな。何かその判断を裏付ける情報があるのか。HD DVD搭載X BOX 360が廉価で登場する、とか?

 昨日那覇空港で着陸後に炎上した中華航空所属B737-800の事故は、隨分と奇妙な事故だったみたいですね。
 着陸後タキシング中に地上整備士が左の第1エンジンからの燃料漏れを確認。機長へ脱出を要請。これにより乗員乗客の緊急脱出が行われ、その最中、右側の第2エンジンが炎上。燃え広がった炎は第1エンジンにも引火し、機体は全焼。幸い、乗員乗客に死者はなかった。
 地上に降りてから見つかった燃料漏れ、炎上したのは燃料漏れと反対側のエンジン、そもそもエンジンはアイドリング中という、一体どこに火災原因があるのか一目では分からない、不可解な事故ですな。
 今後の事故調査が待たれるところです。


2007年8月22日(水曜日)
 当日はそれどころじゃなかったのですが、17日は「Compact Disc」誕生25周年だったそうで。
 四半世紀を過ぎても現役で使われるコンシューマデジタルメディアという点で注目すべきものなのですが、果たして今後何年使われるのか、多少ならず興味があります。DVDが登場し、SACDやDVD-AudioがポストCDとして名乗りを上げ(DSD Discってのもあるが)、映像メディアがBlu-rayとHD DVDで激しく火花を散らす中、我関せずとばかりに売られ続けています。流石に売上は落ちているようですが、このまま音楽配信に押されて消えていくのか、それともアナログレコードのように趣味的な存在として生き残るのか、興味は尽きません。
 話は変わりますが、公共図書館に音楽CDが收蔵されるようになって久しいわけですが、10年もののCDを借りたりすると、読み取り面が傷だらけで再生できないことがあるんですよね。恐らくDVDも似たような状況でしょう。Blu-rayは当初ケース入りで、個人的には歓迎していたのですが、なぜかソフト屋はシェルなしを強く主張し、現在に至るようです。
 殼があったほうが扱いが楽でいいと思うのだけれどもねぇ。

 新潟県中越沖地震により柏原刈羽原発が停まってしまっている東京電力ですが、いよいよ随時調整契約顧客を対象とした電力使用制限に踏み切ったようです。
 2002年の原発トラブル隠し発覚による翌2003年の夏のことを思い出します(過去日記1,2)。あの夏は偶然にも冷夏で需給が逼迫する事態にはならなかったのですが、一層の省エネに努める必要はありそうですな。
 とはいえ、自転車で走っていると水を燃料にしてるような気候だからなー。


2007年8月23日(木曜日)
 未明から朝にかけて、雨。風もあって、久方振りに涼感。

 全通甲板と右舷側艦橋を持つ16DDHが進水し、「ひゅうが」と命名されたらしい。では同型艦の18DDHは「いせ」になるのか?

 ロシアが戦略爆撃機によるパトロールを再開し、英国がスクランブルをかけていたそうな。プーチン先生の“強いロシア”も大概無視できなくなりつつあるよね。

 本日のBGM:「RYDEEN 79/07


2007年8月24日(金曜日)
 お家から一歩も出ずに家の中で作業作業。
 しんどいー。
 時々なんでこんな苦しいことしてるのかって、真剣に悩むことあるよね(爆)。
 昨日自転車で30km近く走ったら、今日になって膝が痛くなってくるし。
 作業中に溜め込んでいたビデオを多少消化できたのが、せめてもの幸いか。

2007年8月25日(土曜日)
 昨日、平日の裡に外に出ておくべきだったな、とか反省しつつ、所用を片付ける。

 『『グランツーリスモ5プロローグ』コンセプトムービー (Type C)』の720p版をダウンロードして眺めて驚く。何じゃこの怪物染みたリアリティは?
 去年の『『グランツーリスモHDコンセプト』ダイジェストムービー』も大概トンデモなかったけど、遙かに上回るデタラメさだな。一体何台同時に描画してるんだか。
 コンピュータとしては面白そうなんだよなー>PS3

 なんぞニュースで飮酒運転が取り上げられることが増えた気がする。どうも昨年8月福岡で起きた事故からの流れ(一周年)ということらしい。
 個人的には飮酒運転撲滅活動はマス・ヒステリーの類だと思っているので、できるだけ自分に影響がないところで吹き荒れていて欲しいなぁと思っています。だって、効果があるもんじゃないんだもの。
 にも書いたように、日本の飮酒運転事故は減少傾向にあり、ここで今一層の罰則の強化が効果を持つとは考えにくいのですよ。東京のように公共交通機関が整備されているならまだしも、そうではない地方では呑み屋に駐車場が完備されていたりするわけで、飮酒運転を減らすにも限度があるように思います。即效性のある方法は、恐らく市民運動家の皆様はお気に召すまいしねぇ。


2007年8月26日(日曜日)
 コミティア81。
 しかし毎年思うのだが、8月のコミティアは客層が違う……。

 ちょっと疲労がキツいので、今日は早々に寢ることにする。


2007年8月27日(月曜日)
 川端康成の翻訳などで知られる、日本文学研究者のエドワード・サイデンステッカー氏が亡くなられた由。
 米海軍の日本語学校においてスパルタ方式で日本語を叩き込まれた通訳士官としてそのキャリアをスタートさせ、戦後日本文学の研究に改めて邁進された、この道の先駆者であった方。
 個人の業績に深く敬意を表すると同時に、その死を心の奧底から悼む。

 改造内閣の防相は高村さんか。外務畑という印象が強いが、防衛にもその手腕を発揮するや否や。できれば防相がころころ交代するようなことは避けて欲しいところ。
 舛添さんが厚労相ってのは適任でもあり、この局面でババ引かされた面もあるかな。個人的には期待しておくけど、問題が噴出する予感。
 まあ何にせよ、これからがある意味正念場。頑張って下さいな、と。


2007年8月28日(火曜日)
 職業柄漢字にまつわるニュースは目を通すようにしているのだが、本日見つけたのは「外国人に中華料理をどう説明? 北京市当局が英訳発表なんて記事。これ、意外と日本人にも関係ありそうだな、と。
 一汎的に日本人は漢字が読めると考えられているし、日本人自身そう考えているが、現実問題として現代中国語の簡化字を普通話で読み上げられる人はそういない。簡化字が読める人もそもそも少なかろう。
 それでもまあ大体分かるから菜譜を指差して注文すれば良いと言われればそこまでだが、日本人の平均的英語力から考えれば、英語名を読み上げるという選択肢も充分合理的だろう。
 で、じゃあ何処にその英訳名一覧があるのよと北京市旅游局のサイトへ赴いてみたが、それらしい記事はない。さんざん探し回った結果、北京市民講外語活動という官製の英語普及運動サイトでそれらしいものが見つかったが、ファイル名が中国語のためか、ダウンロードできず仕舞いだった。
 中国における英語普及運動の道はまだまだ遠そうである。

 日本における英語のムーブメントは幕末から現代まで、何派にも分けて訪れているわけだが、本格的に公共交通機関の案内などに英語が取り入れられ始めたのは、昭和39年の東京オリンピックの頃であると思われる。
 その後昭和45年の大阪万博など、国際的な催事が日本で開催される毎に、国道の標識にローマ字表記が追加されたり(国道の青看板にローマ字表記が義務付けられたのが昭和61年)なんたりと進行し、先の2002年のワールドカップではハングルと簡体字表記がJRの各駅に附されました。個人的には加えてスペイン語とフランス語の表記があったほうが親切ではないかと思いますが、それはさておき。
 戦後一貫して流入し続けた英語系外来語の侵食は止まる所を知らず……と言った感があるのですが、実際には2000年代以降減少しているのではないか、という面白い記事がありました。「時代はまわる?みゆき、ユーミン「日本語回帰」」というのがそれで、あくまで中島みゆき松任谷由実を調べた範囲の話なので、単に年齢の問題である可能性もあるのですが、面白い傾向だと思いました。
 私の関係するクレヨン社の場合は……サンプルが少なすぎますね。90年代丸ごと活動してないし……。

 「チンパンジー投石、女児けが 豊橋市が3万4千円賠償へという記事を読んで、怪我をした女児には可哀想なのだが、寧ろチンパンジーのチンタの方に興味が沸いた。別記事によると助走をつけて石を投げ、しかも命中率も高いそうで、これは京大霊長類研究所辺りへ送り込んで、研究すべきではなかろうか。
 投擲という動作は人類が進化過程に於いて獲得した能力の一つであると考えられており、上腕の稼動域の関係上、特にオーバースローは人類固有であったと記憶している。他の高等霊長類でも木の枝や石を投げるなどの動作は見られるものの、目標を狙って投擲、という動作は言うまでもなく困難度が高い。
 単純な筋力であればチンパンジーの握力は300kgに達するが(注:人類は霊長類の中で重量当たりの筋力が最も低い)、投擲に必用なのはその指に握った物体を丁度よく抛出するタイミング処理であり、肉体能力というよりは脳によるその制馭能力の問題である。さらに目標物との距離を勘案し、抛物曲線を描く軌道を経験から類推して、助走までつけた全身制馭。その能力はHRP-3を遙かに凌駕する!
 ちょっと調べたら「ヒトの進化過程における投擲動作の起源について」なんて論文があるらしい。読んでみたいものだが……。


2007年8月29日(水曜日)
 Lightnovel Wikiの新刊情報を確認していたときに「井上堅ニ」という名前を見て、???と。
 Amazonで「井上堅ニ」で検索したら、本当にヒットする。
 ちょっと信じがたいので本屋まで出向いて実際の奧付を確認したら、当然と言うべきか「井上堅二」だった。
 Googleで検索してみると相当ヒットするので、これはどこか版元あたりから流した情報で間違っちゃったんだろうなーとか想像した。

 ニューヨーク市の高校野球における金属バット使用禁止条例が、いよいよ施行されるらしく。
 ニューヨーク市議会が今年3月に金属バット禁止条例を可決。ブルームバーグ市長が拒否するも議会は再度2/3の賛成を以ってこれを裁決。野球指導者や用具メーカーなどが条例の撤回を求めて連邦地裁で法廷鬪争を繰り広げていたものの、この度敗訴となった、と。
 条例制定の理由は、金属バットによる打球は危険な迄の速度を持っているからということらしいのですが、確かに硬球+金属バットが危険なことは否定できません。でもそれは野球というスポーツが持つ根源的な問題ではなかろうか、と。
 一方で世界的な野球の潮流として、ワールドカップやオリンピックなどが金属バット禁止となり、追隨して日本の社会人野球も木製バットに戻り(大学野球は元から木製バットですが)、AAA大会(サッカーで言うU-18)も木製バット専用となりました(余談ながら高野連がこれを理由に大会をボイコット。2007年AAAアジア大会代表は社会人一年目の18歳以下の選手などから選拔。早く高野連を潰して野球会議下に統一組織作ろうよ……)。総じて金属バットから木製バットへの回帰傾向が見られます。
 今回の制定は危険回避のためということですが、より本質的な野球のために木製バット回帰を歓迎する向きはあるでしょうね。
 ただでさえ高額になりがちな野球用品の値段の中に、消耗品としてのバットが加わることをよしとするべきか否か、という問題は残ってしまいますけれども。
 それこそ技術の粹を凝らして、木製バットと同じ反発特性を持った工業バットも作れそうなもんですけどねぇ。


2007年8月30日(木曜日)
 ちょっと待て! なんだと!?>チャプリンの著作権「まだ有効」 格安DVDを差し止め
 去年の7月にこの裁判が始まったのは確認していたけど、これは思わぬ逆転裁判。
 判決文を確保せねば……。
 何が怖いかって、この理屈が通るなら、「ミッキーマウスはウォルト・ディズニーの個人の著作物だから死後50年保護」とかいう主張もできるようになる点。

 独逸のメルケル首相が来日してますが、注目されてるのは中国共産党の曹剛川中央軍事委員会副主席の方ですかね。政府の方では国防部部長ってことになりますが、やはり系統的には中央軍事委員会副主席という方が正確でしょうね。中国人民解放軍は党の軍隊ですから。
 中国は現在毎年10%増となる軍拡を続けており、それは周辺国にとって脅威となっています。ここ数年来、行政改革の名の下に軍縮を進めている日本との軍事的不均衡は増大する傾向にあり、このまま中国が軍拡を続ける場合、日本も遠からずおつきあいしないといけなくなります。
 勿論そのような事態が招来されれば、待っているのは米ソ冷戦のミニチュア版のような、経済力を軍事力へ転嫁するチキンレース、古の名台詞を借りれば「血を吐きながら続けるマラソン」というやつになります。
 破局の回避には、一定以上の見識を持つ両者の上層部が話し合いの上で合意するしかありません。
 で、当然のことながら中国の軍事部門No.2である曹剛川上将にその期待が集まったところですが、「中国脅威論は根拠なし、核・ミサイルは防衛的な存在という発言を聞いて幻滅しました。夢も希望もない。
 核兵器も弾道ミサイルも防衛的だというのであれば、この世界には攻撃的兵器なんて何一つ無くなってしまいますな。全く同じ論法で日本が核武装を試みたら、彼は何と言うのだろうか。
 立場があるにしても、あまりにも間拔けだ。


2007年8月31日(金曜日)
 カリーさん@mixi経由、テレビ新潟発の記事。
学力とテレビゲーム 相関関係あった

 テレビゲームをする時間が長い子どもほど学力が低くなる。テレビゲームと学力との関係について、こんな「気になる傾向」が、県の調査で明らかになった。
 これは、県がことし1月に、小学4年から中学2年までの、県内すべての児童と生徒11万人を対象にした学力調査と、同時に行った意識調査の結果、明らかになったもの。それによると、平日にテレビゲームをする時間が長いほど、学力が低下する傾向があることが分かった。ゲームの時間が1時間より少ない子どもは学力が平均を上回っているが、それ以上になると平均を割り込み、特に3時間以上の場合は平均を大きく下回っている。県は、この調査結果を学校に配り、規則正しい生活を送るよう指導に生かすことにしている。

http://www.teny.co.jp/news/2007/08/30-2.html

 ……。
 本当に新潟県がこんな結論を導き出したんだとしたら、担当者を馘にした方がいい。責任者には配置換えを。
 当たり前ですが誰にとっても一日は24時間で、学齢児童生徒であれば課業時間(+部活動)が拘束時間になります。そこから睡眠時間をさっ引けば各々の可処分時間が分かります。この時間の分捕り合いに於いて何か一つの比率が大きくなれば別の何かが小さくなるというだけの話で、要はお勉強時間が短くなっているだけであろうと推測されます。
 私たちが子供の頃は「テレビ」こそが悪玉であり、「長時間テレビを見る子は学力が低い」とかアホな結論が導かれたことでしょう。近い将来には、携帯電話やインターネットが悪玉に取って代わるでしょう。
 まさに目に浮かぶようだ、とはこのことです。
 あまりにもアホらしいのでこれ以上言葉を重ねるのは避けますが、こんな内容を嬉々として報道するテレビ新潟の程度も知れると思います。

 続いて言葉狩りの話題。

2007年8月31日(金)

「障害者」表記を「障がい者」へ

 「障害者」の表記を「障がい者」に見直す動きが、福祉関係者や民間団体の間で広がりをみせている。「害」という字に「害悪」「公害」など良くないイメージがあるため、当事者・家族が不快感を抱かないように−というのが主な理由。全国的な傾向だが、県内でも既に資料の表記を改めたり、事業所名に明記したりするケースが出ている。

 県社会福祉協議会は、昨年十月開催の県社会福祉大会の資料で、初めて「障がい者」と表記した。実行委の議論をふまえた形だが、大会終了後も、社協内で作成する文書はすべて「障がい者」と改めた。また、青森市社会福祉協議会でも「障がい」の表記に統一している。

 二〇〇五年十二月に開所した五所川原市の支援センターは、「障がい児・者支援センター・スタジオ ビータ」と、事業所名に「障がい」と明記した。同センターは「『障害』は当事者と社会の間にある取り除くべき障壁ととらえ、当事者としては『障がい』を使いたい」と説明している。

 県をはじめ、県内十市は従来通り「障害者」の表記のままだが、県外では自治体での取り組みも広がっている。

 山形県は、庁内協議や関係団体の意見聴取を経てことし三月、議会で条例を改正した。当事者の人権を尊重する観点から、可能な限り「障がい者」と表記している。四月から新課名となった障がい福祉課は「好評という意見が半分以上」と言う。

 大分県庁も条例や規則は変更していないものの、昨年二月から「障がいのある人」など「害」を使わないようにしているという。

 その一方で、「表記よりも社会の意識を変えることの方が大切」「『障』の字も変えるべきだ」といった意見もある。障害者の自立活動を進める団体「Pingあおもり」(青森市)の代表で、電動車いすを利用する佐藤広則さんは「『障害者』『障がい者』どちらでもこだわりはない」と語り、県身体障害者福祉団体連合会の前田保会長は「『肢体不自由者』などに言い換えた方が良いという意見もある」と指摘する。

※写真=「障がい者」と表記を改めた青森市社協の情報コーナー

東奥日報http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2007/20070831091514.asp

 文字遣いに関しては過去の繰り返しになってしまうのですが、元々は「障碍者」と書いていたものを「障害者」に改めたところから過ちは発生しているので、『過ちで過ちを彌縫することはできない』という原則通り、「障がい者」へ表記を更に変更しても、何も変わりません。どうせ次は「障」の字が宜しくないと言い出すだけです。
 何が一番腹立たしいかと言えば、何の実效力もない取り組みに予算と人手を取られた挙句、何の成果もないのに満足だけは得られてしまうことです。
 こんな阿呆なことをするくらいなら、県内のエレベータを片っ端から障碍者対応のものに付け替えた方がなんぼかマシです。取り除くのならば文字を狩るよりも物理的障害を排除する方に動くべきでしょうよ。階段にスロープを付けるなり、廊下の段差をなくすなり、やるべき事はもっと現実に沢山あるはずです。そういう細やかな対応はお金も人手も時間もかかりますし、進捗が遅く效果が実感しにくいものですけれど、そういった地道な施策が一番役に立つと私は思います。
 「何も效果がないのに何かやった気になる」っていう施策は、そういった“時間と金のかかる細かい仕事”をないがしろにしがちなので、タチが悪いんですよ。

 “救護室の白い悪魔”ことGenesisさん経由、奈良の妊婦たらい回しの件。概要はGenesisさんの日記にあるとおりなんだけど、そもそも奈良県内に産科医が72人しかいない状態では、どうにもならないんじゃないでしょうか。
 奈良県の総人口は約140万人。統計によれば、20〜39歳の女性はざっと20万人弱。この出産適齡期の人口に対して72人です。この状態で何か施策を、と言っても限度があるというか、有り体に言って無理でしょう。取り敢えず産科医の数を増やすにしても日本全国どこでも産科医不足なわけですから少ないパイの奪い合い。しかも毎年辞める人の方が多い=減少中ときた。その上高給を払おうにも尾鷲の例を見るまでもなく、その必然性を理解しない地域という状態まで生まれてしまっています。(余談ですが、尾鷲総合病院は結局二人目の産科医の確保を諦め、助産師外来を開設したそうな
 正直、この状態で打てる即效性のある対策はありません。あるとしたらヘリコプター搬送くらいですが、これだってあくまで搬送時間の短縮が望めるだけで、根本的な解決ではありません。
 今から産科医を増やすというなら、計画としては10年越しになるでしょうね、当たり前ですけど。でも勿論しなければいけないのですが、現在の医者不足もまた10年越しの問題であると言うことでもあります。医師不足の問題を論じるならば、過去十数年の医療行政を鑑みるべきでしょうなー。