このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクト、パーソナルメディア社、並びにYRPユビキタス・ネットワーキング研究所は関与しておりません。
守秘義務の関係上、伏せ字になっている箇所があります。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。
「左利きはマイナスじゃない 右手使用 強制しないで」とかいう記事があったんだが、今日日利き手を矯正する親なんているのかね、本当に。
確かに、世の中ユニバーサル・デザインの考え方が浸透して来てはいるものの、相変わらずカメラのシャッターボタンは右側にしかないし、自動改札の読取機も右側にしかない。鋏や包丁、フライ返しといった細かいところでは、左利き用品は探さないとなかなか手に入らない。左利き用摺鉢ってのは見たことがない。実在するのだろうか。
しかしだからといって左利きを矯正するほどのことではなくて、必要に応じて右手も使えるように訓練すれば済む話でしかない。私は生来右利きだが、職場のテンキーは左手で打つし、左手で箸も使えりゃ字も書ける。勿論、そのように訓練したわけ。その方が便利だから。右利きでもホルン奏者は当たり前のように左手でバルブを操る。当然だな。
両利きというほどではないにしろ、必要に応じて適宜逆腕も使えるように適当な訓練をしておくことは、悪いことではないと思う。特に社会が右利き前提にできてしまっている以上、生来左利きの人にとっては。
ただ、それは別に子供の頃にやらなきゃいけないことだとは思わない。ある程度大きくなってからでも遅くはないと思うけどね。
もっとも、社会全体としてはもう少し利き手に依存しないデザインを推奨して欲しいと、マウスを選びながら思ったりする。週末に「DESIGN for LEFTY」でも観に行くか。
そう言えば記事中でスポーツには優れるとか書いてあったけど、一方では「サウスポー、右投げ投手より骨への負担大きい=米研究」なんて話もあって、その手の有利さも一面的なものでしかないんじゃないかと。ちなみにサウスポーが骨への負担が大きい理由はよくわからない。内蔵・骨格配置の問題か、トレーニングが右利き向けになってるのか、野球のルール上逆モーション動作が多くなるためなのか。
ISASの相模原キャンパス特別公開のページがオープン。
でもはやぶさのカプセルについては言及なし。
本当に丸ノ内で一日だけの公開になるのか……?
向きがあるといえば電池には正極と負極があって向きを確認しなければいけないのですが、「電池の+と−を気にせず入れられる技術、Microsoftが発表」とかいう新技術が。
消費者ってのはどこまで馬鹿でも許されるんだろうか……。
個人的には「逆向きには入れられない電池ボックス」とかの方が良いと思いますよ、教育的に。
電池が最初から逆刺し自在という設計で作られていたのならともかく、電池には極性がありそれは回路に到るまで影響を及ぼしている。極性を合わせるという基本を意識させなくなるのは、はっきり言って危険だ。
世界中のすべての電池利用家電がこのシステムを導入するというならともかく、そうでないというのであれば、利便不便ではなく、基本を疎かにするようなものは良くないと私は思うのだ。
「こんにゃくゼリーの窒息、重症率85% 消費者庁分析」なんて記事を読んで、何と誘導的な見出しを付けるのかと。
窒息事故4137件のうちたった7件しかない蒟蒻ゼリーの重症化率なんて、統計的に何の意味があるんだ。
真面目に反論しようかと準備してたら、他所に先を越されたので、リンクしとく。
ちょっと出かけたら見事に雨に降られて濡れてしまい、夏場だからと油断していたら体調がおかしくなってきた……。
「台湾のデジタルアーカイブ計画の全体図(ぽいもの)」を見ながらこれは凄いなぁと感嘆しつつも、中にはこんなのもあることについて多少思うところがないでもない。それでいいのか台湾。
勿論、残すべき文化であることを否定するつもりは毛頭ないのだが。
日本もとっとと国会図書館に漫画分館でも作って大々的な收集とデジタル化に邁進して欲しいと常々思っているけどさ。
これだけ大々的なデジタル化作業の中で、ノウハウの蓄積が進んでいるらしいのは素晴らしいことです。
日本では70年代からマイクロフィルム化をやっているのに碌でも無いフィルムの作成が続けられたことを考えると……。
ちなみにマイクロ化資料の使えなさで最もありがちなのが、露出の間違い。特に文字資料は可読性を高めるためにコントラストを高めに設定してあるものが多いのだが、戦前戦中の、朱の罫線にブルー系のインクで印刷された資料が経年で滲みを生じたものなどがマイクロ化されて、見事な「黒っぽいなにか」を撮影しているものなどは結構見受けられる。現物を見るとインクの濃淡や活字の凹みなどがあるので文字が判読できるのだが、マイクロではただの染みになっていたりする。
マイクロフィルムにありがちなのは、利用によって付いた傷。特にロール物はスライドする方向に線が入る。酷いものになると読めなくなる。これについては、マイクロフィルムの原本はネガで保管され、そこから閲覧用のポジをデュープして作っているような所では、再度ネガからポジを起こして対処する。そうでない所ではお察し下さい。
「i-MiEV 静かな車はこわい?」で、自転車に気付かれなかったという話。
本件は基本的に自転車側の問題だとは思いますが、事故が起きてしまえば大きく傷つくのは自転車の方ですからねぇ。厄介な話です。
しかし、私自身自転車乗りですが、これまで街でi-MiEVやプリウスと遭遇しても、存在を感知できないほど静かだという実感はないんですよねぇ。それなりに特徴的な音はしてますし……。
やはり社会に電気自動車が増えていけば自然に解決するんじゃないかという気が……。
共同に「中国軍事費は公表の1・5倍 軍幹部、初めて認める」とかあって、なるほど、「国防費」と「軍事費」という別の概念で内部処理していたのか、と。
こういう国が隣にいるということは、忘れないでおきたいですね。
夜、速報を見ている限り、民主大敗と言って良い内容になってるけど、今後の国会運営を考えると頭が痛い。
民主党にまともな国会運営能力がないのは野党時代の戦術からして明らかなんだけど、捻れ国会を前に現実策に転換できるかどうかが、今後の国政の鍵と言うことになってしまいますな。
期待薄だけど。
先月末に富山の小学校のグラウンドから焼夷弾が発掘されて白煙を上げるという事件があって、富山も空襲を受けているので、不発弾が出てくることもあるわな、と思っていたのですが、朝雲新聞では焼夷弾ではなくて発煙弾になってた。
大差ないといえば大差ないんだろうけど、焼夷弾と発煙弾では危険性の度合いが全然違うので、どっちの記事が正しいのかやや気になるところ。当初はE48黄燐焼夷弾だと思ってたけど、処理してみたら違ったとかいうことだろうか? でも処理中の写真見ると、焼夷弾相手の格好でもなさそうなので、最初から地元新聞の誤報なんだろうか。
Wiiリモコンに対抗する技術として、Xbox 360がKinect、PS3がPlayStation Moveを投入するらしいのですが、両者のアプローチの違いが興味深いな、と。
PS MoveがWiiリモコン同様に、スティック状の端末を持たせるのに対して、Kinectはカメラで人間のモーションそのものを捉えようとしています。スティックがない方がユーザに取って簡便であろうという発想ではないかと思うのですが、私に言わせるとそれでは具体的な動きしか入力できなくなるだろうな、と。
WiiリモコンやPS Moveコントローラは、確かにそれ自体にセンサを組み込んだ入力機器であるのですが、同時に「見立て」を行うための小道具でもあります。噺家の扇子ですな、要するに。
高座の上で噺家の扇子が千変万化を見せるように、WiiリモコンやPS Moveコントローラはゲームというコンテキストの中で様々な道具に見立てられ、振り回されるわけです。
Kinectは技術的には素晴らしいのでしょうが、残念ながらこの「見立て」による抽象的な入力を得意としません。
逆にダンスのような全身運動の場合は、四肢(特に下半身)の限定的な位置関係しか検出しえないWiiリモコンやPS Moveコントローラには限界があります。ですからダンスゲームやある種の音ゲーなどではKinectが有利な場面が想像できますが、しかしそれ以外の局面においてゲーム内で示されるコンテキストへの介入方法が限定されてしまうように私には思えます。
Wiiスポーツの中のボウリングゲームは、お年寄りが椅子に座ったままでも遊べますが、これをKinectでやったらどうなるでしょうか?
つまり、そういうことなんですよ。
ただ、この「見立て」の考え方は特に日本文化論に於いて言及されることの多いものなのですが、もしそれがWiiリモコンを見た日米両国の開発陣の考え方の違いに繋がっているとしたら面白いですね。
「i-MiEV 回生ブレーキは「ブレーキ」か?」とあって、これはi-MiEVが回生協調ブレーキを搭載していないことに由来する問題だね、と。
通常のガソリン車を改造したi-MiEVのブレーキシステムは基本的にガソリン車のそれを踏襲しており、フットブレーキは回生とは関係のない油圧ブレーキとなっています。
似たような機構としては大型車に積まれている排気ブレーキがあると思いますが、これについてはかつてはブレーキランプが点灯しませんでした。ブレーキランプは飽くまでブレーキペダルを踏んだ時に点灯するものとされていたからです。そう言う意味では、現在の通常車輛のエンジンブレーキも、ブレーキランプは点灯しません。ともあれ、排気ブレーキについては法改正によって現在はブレーキランプを点灯させても良いことになり、昨今排気ブレーキでもブレーキランプが点く車輛が増えております。
ですので、強力な回生ブレーキを掛ける時にブレーキランプが点灯するようにする、というのはアリかも知れません。
ただ、個人的には回生協調ブレーキの導入の方が正道だと思います。
米時間13日を以て、Windows 2000 / XP SP2のサポートが終了。
Windows 2000は困る人も多そうだな。というのも、XP以降の非サーバ向けWindowsはTCPセッションの数が制限されているので、それが問題となってXPへの移行ができないケースがあるから。もっとも、その場合はWindows Serverを使えというのがMSの公式回答となるだろうが、値段見て物を言えと……(苦笑)。
でもその一方で、Windows XPのダウングレード権が2020年まで提供ってのはなぁ……いくら何でもという気がする。
昨年発表されていたヤマハ復活の電動スクータですが、本日正式発表があった模様です。
4月には本田技研も電動スクータを発表しており、二大メーカの揃い踏みですね。そのうち比較記事でも出てくるかな。
しかし、パッソル以来の技術的蓄積があるとはいえ、隨分と軽いなぁ。
昨日発表のヤマハEC-03が新聞各紙の紙面を飾っていましたね(朝日)。
本田技研のEV-neoと比べると、推定車重125kgのEV-neoに対し、EC-03が56kgと、圧倒的な軽さが目に着きます。業務用と個人用という違いがフレーム強度の違いとなって表れているのでしょうか。
電池は18650を112本詰め込んで、容量0.7kWhとのこと。個人的にはバッテリが固定になって取り外せなくなったのが痛い。マンション住まいだと、駐車場に電源がないので、バッテリが取り外せないと厳しいと感じるのだけど、従来モデルのユーザーからは航続距離増加に対する要望が強く
また女性ユーザーが持ち歩けるバッテリー重量は6kgが限界
ということもあって、固定化となったようだ。
あと、回生ブレーキは装備しないそうで、その辺、今後の課題でしょうかねぇ。
「電子書籍端末の自動ワードラップ処理で「作品が台無し」、米有名詩人Billy Collins氏が激怒」とかいう記事があって、苦笑した。
三行詩が4行で表示されたら、そりゃ怒るだろうよ……。技術者はtercetとか知らんのだろうかなぁ。
文芸出版に於いては詩歌の掲載には非常に気を遣っていて、編集側による改行位置の勝手な変更は厳しく戒められるところです。著者が字下げや空行にも意味を与えていることが往々にしてありますし、改行位置など表現の一部であることは論を待ちません。
そういう意味では詩とは二次元的な表現であると言えるかも知れません。
それを、HTML的なリフロー上等なフォーマットで出版すればどうなるか、予想可能だと思うのは私が文芸出版を経験したからなのでしょうか。
BDレコーダが普及している世界の特定地域では、コンシューマ向けも出るかも知れないと言われていたBDXLですが、件の特定地域ではまずレコーダが出ることになったようです。
まだコマーシャル製品もPC用ドライブも出てないっちゅーに……。
しかし100GBって、BS HiがDRモードで520分も記録できるんですけど、何を記録したらいいんでしょうかね。
「露極東で人骨3・5トン、495人分 スターリン期の粛清犠牲者」ですか……。相変わらずロシアは単位が違うのう。
ちなみに前の呑み会でネタにしましたが、ロシアはアムネスティ分類によると事実上の死刑廃止国になるそうですが、昨年一年で4,150人が獄死しているそーです。
死刑がないなら獄死させてしまえば良いじゃない、とエカテリーナ様が仰ったかどうかは知りませんが、ロシア的合理主義というのものはこういうものなのかも知れないと思わずにはいられません。
「エコカー戦線激化 トヨタのPHV、300万円以下で発売へ 安価設定で他社EVに対抗」とかいう記事にトヨタはエコカー戦略について、短距離をEV、長距離を燃料電池車と位置付けている
なんて書いてあって、どんなもんなんかのう、と。
実は私は燃料電池車に光明を見いだせていません。燃料電池は技術としてはそれなりに好きなのですが、燃料電池で車を走らせるという形態は、一般的にはならないのではないかと思っているのです。
ぶっちゃけ、液体燃料を使うのなら、シリーズハイブリッドで事足りるんですよ。シリーズハイブリッド化によって内燃機関は最高効率帯での定速運用が可能になりますから、燃料電池の変換效率が馬鹿みたいに高くなるとかいう事情でも起きない限りは燃料電池が互していくのは難しかろう、と。炭化水素系の液体燃料を触媒で改質して水素を得て燃料電池で……という方式に限ると、さらに效率は落ちてしまいますし。
別方面から見ると、炭化水素系液体燃料を使うということは、現在のガソリンインフラを利用できる反面、その問題も引き継いでしまいます。つまり、「燃料を運ぶために燃料を消費する」という、根源的な問題です。燃料を輸送するために消費される燃料は結構馬鹿にならないらしく、全体としての效率を上げにくくしてしまっています。勿論、これは純粋水素などを使うようにし、各ステーションで個別に水素を精製するようにでもすればいいのでしょうが、それでは既存インフラを利用できるという利点が失われてしまいます。そんなことするくらいなら、充電ステーション造って普通の電池車で走った方がマシです。
というわけで、私個人は、炭化水素系燃料による燃料電池車というものに、あまり大きな期待を抱いていないのです……。
サーチナに「中国人が日本に抱く「10の誤解」とその真相」なんて抄訳記事があったので、元記事を探してみたところ「中国十个关于日本的误解」のようだった。
富士重工と日立製作所が開発していた鹿島灘沖の洋上風力発電所が本格稼働開始とか。
そう言えば三菱重工だったかは、更に風車をメガフロートに載せて沖に展開しようとか、暴虎馮河なプランを出していた気が。
飲酒しなくても血中にアルコールが多く存在する人というフレーズにGenesis先生が
それは二日酔いというんじゃないのか、常考とツッコんでいましたが、敢えて個人的には、ロシア人なら常に血中にアルコールが検出されてもおかしくないと思うのであった。
NASAの衛星を使った世界森林地図を見ると、先進国にあるまじき日本の森っぷり。さすが、国土の2/3が森林と言われるだけのことはある……。
しかしこうして見ると、砂漠でもないのに見渡すかぎり森林のない地域というのも世界には各地にあるようで、一体そこはどうなっているのかと多少気にならんでもない。フィリピン北部とか、もう少し緑がありそうなものだけど……。
「中国:武装艦で威嚇「拿捕の漁船解放せよ」 一触即発の海」とかなんとか。
中国はそういうことをする国だ、という理解を広める点では評価できる記事かもしれないが、それに対抗するためには何が必要かを考えていくと頭の痛い記事ではある。
中国の軍事的伸張について他人事ではない我が国だが、選定が遅れている次期戦闘機(F-X)がまた遅れると、読売が「空自FX、調達費計上見送り…有力候補開発遅れ」として報じていた。
一部ではF-2追加調達か?とまで言われている現状、これ以上選定を遅らせるのは得策とは思いにくいのですが空自の人たちにはちゃんと見通しがあるんでしょうかね……。すごく心配。
千葉法相が死刑執行。
特筆すべきは、法相自らがその執行に立ち会ったことでしょう。
千葉法相は人権派弁護士として知られ、国会議員時代には死刑廃止を推進する議員連盟に属し、死刑廃止に尽力してきた人物です。そのような経歴の方が法務大臣に就任し、その後も死刑執行命令書に署名されていなかった件について、過去に国会議員としての主張と、国務大臣としての職責をきちんと別けられないような方は、大臣たる資質に欠けるのではないかと思います。
と私は書きましたが、千葉法相はやや遅ればせながらも、その資質を示したと言えるのではないでしょうか。
私は死刑存置派であり、特別予防論(の一種)を採ります。甦生を期待できない、もしくは甦生に要する労力が得られる利益に見合わないと考えられる場合に、これを社会から排除することによって再犯可能性を排除せしむ、というものです。故に私は終身刑を否定します。
しかしだからといって死刑廃止派を否定しているわけでもなく、議論の上でより良い社会を探れれば良いと思っています。何しろ私は言論表現思想信条の自由をこよなく愛しているもので。
ただし、譲れない点としては民主主義と法治主義の是認です。
この両者において合意できなければ、残念ながら議論の相手とは成り得ません。手続きが民主的でなくても良いというならテロリストかテロリスト予備軍として扱わざるを得ませんし、法治主義を共有できないとなれば死刑を議論する意味が最初からなくなってしまうからです。
「漢詩は俳句に勝てない? 文化バトル敗退の理由」とかいう記事を読んだ。
世界に広まっている「HAIKU」が、日本の「俳句」と同じものと看做し得るかについては議論の余地が大いにありそうな気がするわけだが、俳句が世界に広まっていることだけは確かだな。
では漢詩が世界に広まらないのは何故かと言われても、事実上本国でも滅んだ文化だから仕方ないんじゃね?というくらいか。実際、趣味としてでも漢詩を詠む人が中国に何人いるのかと。
中国人に取って漢詩というのは古典であって、慣れ親しんでいるものとは言い難い。それは詠むだけではなく、読む時点でも色々と制約がある。
近代に成立し、更に制約の緩い川柳などという形で身近にある俳諧とはまた違った位置づけではないかと思った。
漢詩は日本でも知識人の嗜みとされていた時代が確かにあったのだが、大正時代に新聞から漢詩欄が消えてしまったように、漢文教育の衰退とともに漢詩の嗜みも失われて久しい。今では高等学校の国語の授業で、僅かに漢文をやる程度だ。
もっとも、この科学技術隆盛の時代に唐詩選でもあるまいという意見は否定できないところではあるのだが、一方で日本語の特性に基づく問題として、漢文の知識の薄れが問題を生じさせてきているな、と最近実感することが幾度かあった。
同訓異字の書き分けが、なってない文章が散見されるのだ。
例えば「きわめる」と言った場合、「極める」と「究める」では意味が違う。「うかがう」でも「伺う」のか「窺う」のか「覗う」のかで、意味が違う。「はる」と言っても「張る」のか「貼る」のか、それとも「脹る」のか、使い分けが必要なのは言うまでもない。
無論、かな漢字変換ソフトが懇切丁寧に書き分けを例示してくれるものもあるだろうが、基本的には書き手が気を付けねばならない。しかるにこれらを適切に使い分けるためには漢語の知識がどうしても必要になる。その時書きたい単語に対して、同義の漢語を思い浮かべれば、大抵その漢字が訓に当てられるからだ。
これは日本語が、高度な抽象概念の表現を漢字や漢語に任せ、和語にはあまり手を入れてこなかった歴史の上にこうなっているのだが、結果として複雜怪奇で多様性に富んだ表現を手に入れた一方で、使い手の力量が如実に反映される側面も持ってしまったわけだ。
私はこの日本語の曖昧さと混沌さを愛しているけど、これは駆逐されるべき悪弊であると考える人達もいる。かつて戦後に断行された国字改革はそういう考え方に基づいていて、その考え方には一定の利益が確かにあった。しかし余りにも悪影響が大きかったと、私は思う。
しかし、毎朝の「新 漢詩紀行」とか、どのくらいの人が観ているものなのだろうか。
毎日録画している私は極少数派だろうという気はするのだが……。
JAXAより「種子島周辺におけるロケット打上げ期間等の見直しについて」の発表がありました。
日本の軌道ロケット発射基地は種子島と内之浦ですが、歴史的経緯から漁業権問題があり、射上げ可能時期が限られていました。
ロケットはいつでも好きなときに射上げられるわけではなく、積荷である衛星にとって適した軌道要素を得られるよう、時期・時間が決定されます。これが制限されることが射上げにとって良いことの筈がありません。
ここに積年の問題が一つ解決したことは喜ばしいことだと思います。
ただ、これが解決したからと言ってロケットの受注が直ちに増えるとは思いませんけどね。