哀愁日記
底に哀はあるの。

西紀1999年10月分

Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクトは関与しておりません。
また、守秘義務の関係上、伏せ字が多くなっています。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

1999年10月1日(金曜日)
 朝からニュースを見る。倒壞……もとい、東海村の事故は、予想以上の影響が出ている。半径10km圏内で外出を控えるよう指示がでたりして、JRのダイヤは乱れまくり、竹之内くんは学校へ来ることができなくなった(笑)。茨城産の農作物はサンプル調査結果が出るまで市場出荷が止まり、電話回線は輻輳を起こす。
 これら事故によって引き起こされた経済的損害を、事故を起こしたジェー・シー・オー社が賠償することになるのであろうか。電源三法によって、原発は事故に対して免責がある(つまり、原発には事故を起こしても賠償責任がない)。しかし今回の事故は原発ではなく、燃料加工工場。法律上どうなるのだろうか?
 もし賠償責任アリという話になれば、親会社に至るまで傾きかねない大騷ぎになるだろうな。免責となれば免責となったで、大騷ぎになるだろう。ただ一つ言えることがあるとすれば、これは天災ではなく、人災であるということ。

 昔、『風が吹くとき(原題:When the wind blows)』というイギリスのアニメーション映画が日本で上映されたことがあったが、覚えておいでだろうか。イギリスの片田舎に暮らす老夫婦が、否応なく巻き込まれた核戦争のなかで、無知と無理解をさらけ出しながら死んでいく……今思い出してもぞっとする作品だった。
 唯の昔話だ。

 夕刻、『Oh,スーパージャンプ』誌を9冊も購入した男がやって来て宣うに、スキャナを買うことに決めたという。小熊もスキャナの購入を考えているのだが、余りの廉さに隔世の感に浸っている。
 同時にページプリンタも欲しいと思っているのだが、こっちはあまり値段が下がらない。やはり色々やることを考えるとPostScriptプリンタが欲しいのだが、PSプリンタと言うだけで、値段は20万を下回らなくなる。フォントだって一種で3万円はするしね。
 ……なんて話をしたら、なぜそんなにフォントが高いと糸野が理解を示さなかったので、その場で500ポイントの「永」の字をリュウミンL-KL(モリサワ)とMS明朝(リコー)で出力して見せ、その美しさの違いを納得させる。ついでにFont HouseのFC明朝とJust SystemのJS明朝、今昔文字鏡のMO明朝に東大のGT明朝まで比較出力して見せる。
 私には一つの不満がある。
 それは、B-right/Vの標準フォントが平成明朝であることだ。そもそも平成明朝の見た目の悪さに関しては……(大幅に略)……BTRONに相応しくないと私は考えるわけだ。


1999年10月3日(日曜日)
 2日はBTRON Clubだったので、昼から東京へ出て、秋葉原、神田神保町などをうろつき本を買い漁る。最大の收穫は、文語訳の聖書(笑)。もちろん、趣味の世界。
 BTRON Clubでは坂村先生がまた吠えていた。まあ、いつものことだけど。
 私の発表はつつがなく終わる。しかしこのままだと、一生をTRONの多言語処理に捧げねばならなくなってしまう。早いとこ後継者を見出して逃げ出さねば。坂村先生は「名前刻んであげるから」とか言っていたが、死んだ後のことなんかどうでもいいよ。金日成よりでかい金色の像でもなんでも作ってくれ。やっぱ人間現世利益だよな。
 TOTTOさんUGSFさんなどの新顏を迎えて、BTRON Clubにもまた新しい風が入ってくるといいな。最後にゃ茨木さんから振る舞い酒『大吟釀 斗論道』『大吟釀 超漢字』(笑)。
 その後、時間が遅かったが飲み屋に移動して食ったり飲んだり。
 そして定番のカラオケに……。
 夜が明けて、東京駅の銀の鈴でnyちゃんと語らい、別れた後、長濱さんと秋葉原巡り。狙ったものはなかったが、思わぬ別の收穫をして帰る。
 帰宅後、寢る。起きたら日曜日はほぼ終わっていた。

 の調査によると、日本の原子力事故は無限責任らしい。但し、事業者に支払い能力がない時は政府が救済するらしい。
 ……。


1999年10月4日(月曜日)
 学校へ行くと、どこの誰かは知らないが、「小熊善之の伝説」なるものを捏造して張り出していた。暇なことである。
 やらなければいけないことが山積しているはずなのに、なんというか、プライマーの拔けたカートリッジがロードされてて、ハンマーは落ちてもファイアリング・ピンは何も叩けずに終わっているような感じ。そのくせパウダーだけはホット・ロードだったりして、危險極まりない。
 秋だからねぇ。(他人に理解されるのを拒否しているような文章だな)
1999年10月5日(火曜日)
 東海村での事故は、徐々に犯罪の様相を帯びてきている。
 しかしこれも所詮技術の原事故に過ぎない。
 原事故というのは、人間の原罪に準えて、技術は生まれながらにして事故の可能性を孕んでいるという考え方である。船を造れば沈没が、飛行機を作れば墜落が、原事故である。原発を作れば炉心融解が、燃料工場を作れば臨界事故が、即ち原事故である。
 原事故は、技術が持つ本質的なものであるため、回避できない。回避できないからこそ、事故が起こったときの被害を最小限に押さえられるように設計段階から考えなければならない。
 さて。こういった、まともっちゅーか、常識的な考え方が、なぜかこの世の中では通用しないことが多い。
 PCの世界でも、なんとなくそういう傾向があるように思う。
 速さばかり追求して未だにメモリ保護もないOSにマルチタスク紛いのことをやらせていたり(笑)、セキュリティホールだらけのOSを業務システム用途に売り込みつつもしっかり契約で免責してたり(笑)
1999年10月6日(水曜日)
 なんか隨分久しぶりのゼミだったような気がする。中間発表を三週間後に控え、既に崖っぷちからロープなしバンジーといった感じ。

 明日から、グリコ・森永事件の時効がばたばたと成立するそうな。もう15年も経つのですね。15年前、江崎グリコの社員達は、総出で自社製品を売ってまわった。現在だったらどうなるだろうか。
 犯人達は、今何を思い、何をしているのか。
 興味は尽きないが、彼らの罪は、時間と共に消える。

 東海村での臨界事故は、警察の手入れが入り、犯罪に対するメスが入った。一方で被爆し重体となっている患者の救命治療は続いている。被害を受けた各種団体は、会社に対し損害賠償請求に乗り出し始めている。
 流転。


1999年10月7日(木曜日)
 大阪地裁で、中古ゲームソフト販売に対して、今度は違法の判決が下った。おいおい、五月の判決と全く逆じゃないか! どうやら今度はゲームが映画の著作物と認定されたために頒布権が認められたということらしいが、東京地裁の判決との捻れ現象は誰がどう解決するのであろうか。当然、控訴審(そしてその先……)がそれを担うことになるんだろうなぁ。
 先の長い裁判になりそうだ(嘆息)。
 ちなみに私は中古販売に賛成派。

 悪友からメールボム級の分割メールが届く。何事かと思えば、WindowsNTでの補助漢字のページの表示結果をjpgで送ってきたんだが、そのサイズが1024×739を2枚ってゆーんだから、これで相手が見ず知らずの人間だったら絶対にメールボムだと判斷しただろう。
 なお、結果はWindowsNT上のIE、NN共に文字化けだったが、Windows95と同じプログラムなんだから同じ結果が出るはずだわな。Unicode実裝OSのはずのNTやBeの上で補助漢字が読めないというのも、不可思議な話ではある。
 まあ、bbbにも実はEUC-JPエンコードされた補助漢字がデコードできないっていう強烈なバグがあったりするが……。え? これ秘密、もしかして?

 一日が24時間しかないのは仕方ないにしても、せめて24時間フルに活動できるようにはならんものだろうか。睡眠をとらなければならない肉体が恨めしや。


1999年10月8日(金曜日)
 某自称ゆうりすオタク一番エレクトロニクスショーへ行ってきた。とは言っても、私大文系卒の小熊が電子デヴァイスに詳しいわけがなく、もっぱら秋冬のコンシューマー新製品のチェックに時間を費やした。
 どのブースもデジタルデジタルで、デジタルメディアは我が世の春って感じだった。つくば万博の頃にはデジタル転送実験で四苦八苦してたのになぁ。
 新しいビデオデッキが欲しいと思って新製品をチェックしていたのだが、やはり当初の狙い通りの物を手に入れる予定。D-VHSはSONYVictor日立から新製品が出ていたが、どれもイマイチといった感じだった。リアルタイムのMPEGエンコーダを積み込んだVictorと日立のは大した物だと思ったが……現状ではまだDVの方が現実解かな。ハイビジョン記録ができないのでは、威力半減って感じだもんな。DVD-RとかDVD+RWとかDVD-RAMとかも展示されていたが、まずは規格統一やろ。次世代DVDとかも、いい加減にしてくれ。
 面白かったものは、SONYの「メモリスイティックウォークマン」とMD2かな。
 SONYのメモリスティックにコピーガード機能を積み込んで、ATRAC3で圧縮かけた音声を記録し、再生するヘッドホンステレオ。メモリスティック自体は見たときから「よく考えてつくってある」と感心していたが、SONYのこの手の展開には目を見張るものがある。
 MD2については、650MBのMD dataができたという記事は読んでいたが、現物を見たのは初めてだった。展示品はハンディカムコーダだったが、なんとハンディカムのサイズにMPEG2エンコーダを押し込んでいた。
 NECのビデオディスクレコーダ・GigaStationも展示されていた。しかしNECのやることやからなぁ……とか思っていたのは一応秘密。
 仕事に関係ありそうな代物としては、シャープのブースにあった電子書籍コンソーシアムの端末試作機。機械そのものは約B5サイズ。モニターはA5くらいで解像度はXGA、モノクロ8階調。表示されていたのは白土三平の漫画だった。存外綺麗だなと思ったのは確かだが、これが書籍の代わりにはならないだろうなというのが本音。
 もっとも、将来について別に悲観しているわけじゃない。なんらかの住み分けが行われるだろうというだけのことだ。
 全体的には、プラズマディスプレイが一番目立ってたんじゃなかろーか。

1999年10月9日(土曜日)
 JIS X 0212、補助漢字の仕様書を眺めたりして終日暮らす。昨日手に入れてきた物を整理したりもして。
 補助漢字にまで手を出すとすると、どうしても道具をunix系にしなければいけない。しかしその先まで考えるとTRONがいいに決まっている。しかしTRONにゃawkもsedもないときた。
 え? セルフ環境で自分でツールから作るンすか?
 冗談はよしこさん。

 日中、ちょっと用事があってAdobeのサイトへ行ったら、JavaScript + スタイルシートなページになっていた挙げ句、JavaScriptが動かないと姿すら見れぬページになっていた。人を愚弄するにも程があると思った。

 先日の大阪地裁の判決について、ゆうりすオタク一番に詳しい情報がないか訊ねていたのだが、素早く判決文全文の在処を教えてくれた。さすがである。


1999年10月10日(日曜日)
問:電子画像データベースを構築するに際し、RGB各何ビット程度あれば、画像の色情報を完全に再現することが可能か?
答:RGBの混色ではスペクトル単色光は表現できないので、何ビットあっても完全な再現は不可能である。

 「一問即答一撃粉碎」こーなーでした(笑)

 つくば国際会議場で行われていたつくばサイエンスフェスタとやらの後片付けを手伝って、阪口先生に晩飯を奢ってもらう。二人とも風邪気味だった。


1999年10月11日(月曜日)
 今日は振替休日で休みだったらしい。風邪でへばって寢ていたので、休みで良かったといったところか。燃えるゴミを出し忘れてしまったのは痛手だったが。
 今ひとつ体調がすぐれないので、転がって一日を過ごす。

1999年10月12日(火曜日)
 昼から、ずっとスクリプトと格鬪する。数ヶ月前に自分で組んで正常に動いていたはずのスクリプトが正常に動かなくて、しかもバグの場所がわからず、結局全部組み直すハメに……。どっかからお叱りがきそうなほど非生産的な話だ(爆)
 大体、向いていないのだ。
 コメントは入れない、スパゲッティなコードを書く、そしてすぐ忘れる。やってはいけないの三段重ね。流石に今回反省して、コメントを入れておいた。
 そういうレベルの問題じゃないだろうって話もあるが……。

 パキスタンからクーデターの報あり。
 文民統制の難しさを再認識させられる。軍隊は国家の必要悪的存在であるが、それをきちんと文民統制の下に置いている国は少ない。暴力と権力が化学反応を起こすとき、そこには軍事独裁という化合物が出来上がる。
 思慮の足りない人は「だから軍隊なんかない方がいい」などと言い出すが、人類が物事を解決するのに最終的には暴力を用いてきた歴史を学べば、世迷い言に過ぎないことは一目瞭然である。別に暴力による問題解決が良いとか正しいとか言うつもりはない。単なる結果論の話だ。人類は有史以来そうやって問題を解決してきたから、当面私の考えられる未来においても同じようなものだろうというだけだ。悲観論かね?


1999年10月13日(水曜日)
 久しぶりにsedを使おうと思ったら、すっかりスクリプトの書き方を忘れていた(火暴)。優先度が低いことに対する忘却能力に最近磨きがかかっているような気がする。このままでは本当に多言語と漢字の人になってしまう。
 私は歴史学徒だというのに。
 最近信じてもらえなくなりつつあるようだが。

 修論の中間発表まであと二週間。院生の目つきが徐々に怪しくなってきている。


1999年10月14日(木曜日)
 体調がなかなか好転しない。どこかできちんと栄養を取ってぐっすり眠ればいいのだろうが、なかなかそうはいかないものだから、延々と風邪気味の状態が続いてしまう。今日こそ早く寢ようと思いつつ……。
1999年10月15日(金曜日)
 酒をちょっと飲んでぐっすり寢たせいか体調は大分恢復したが、頭痛だけは藥で散らすことにする。
 学校へ出て中間発表の原稿書きをするが、なかなかに進まない。困り者、困り者。
1999年10月16日(土曜日)
 昨日くらいまで、風邪の影響か、満腹中樞が少々イカレてしまっていて、大食いしてしまっていた。今日あたりから、なんとか正常に戻ってきた。満腹感があるってのはいいねぇ。
 中間発表の原稿書きはなかなかに進まない。大切なことは「分かるように書く」こと。これが難しい。なにしろ私は悪友に「なんかお前、昔から細かい説明ぶっ飛ばすよな。」とか言われているわけで、既知事項に対する説明不安というものを常に抱えている。順を追って説明するより、要点をまとめて結論だけ喋ることが多い性癖の持ち主なのだ。
 それが良い方に動く時もあれば、悪い方に転ぶこともある。
 両方使えれば越したことはないのだが。
1999年10月17日(日曜日)
 イメージスキャナを石田画伯から讓って貰うために、車で東京へ。常磐道から首都高6号線、中央環状内回りを経由して首都高4号線高井戸で下りる。環八を外回りに北上。
 無事に石田邸でスキャナを貰いうけると、そのままミニコンへ。ミニコンに車を停めさせて貰って、西荻窪から秋葉原へ。CD-Rなんかを買い込む。徹夜明けだったことも手伝って、ミニコンまで帰ってくると疲労困憊してしまっていて、車中で仮眠をとる。
 なんか起きた後、謎の怪しい集団に拉致されて洗脳されて何か安請け合いをしたような気もするが、気のせいだろう。
 午後8時過ぎに散会して、つくばに帰りつくと10時過ぎ。片道2,000円。首都高速を走る度に、「二度と経験したくない」というくらい厳しいシチュエーションを体験する。時速80km以上の速度で75Rに突っ込んだり、大型バスとサイドバイサイドでコーナーを曲がったり……。
 明日はCICCで会議。
1999年10月18日(月曜日)
 本日のお品書き。
  1. CICCにて多言語入出力WGにオブザーバ参加。
  2. 指導教官からの呼び出し。中間発表について。
  3. 内蒙古からの留学生・満都拉さんと蒙古語の処理系について話し合い。(参考)
  4. 竹之内くんにWindowsでのドイツ語の入力の仕方を教える。

 まず1.。ちょっと遅刻して会場に到着。内容についてはまあ、あまり触れられないので御免して。会議の途中で、超漢字について嫌味を言われる。うう。哀れな一兵卒に向かって酷いことを(笑)。まあ、本当のことだったからなーんも言えんわな。所詮超漢字なんて(以下検閲)。

 つくばに帰ってきて汗を流して一休みしたところでメールをチェックしたら、指導教官から呼び出しが掛かっていた。慌てて学校へ参上する。中間発表の目次を用意しろとの仰せに従って泥繩的に目次を作る。
 こういうやっつけ仕事に慣れてはいけないと思いつつ。
 結局話し合いは翌朝9時に持ち越される。

 指導教官と同時に満都拉さんからも相談があるとメールが来ていたので、今度は蒙古文字の処理について。蒙古文字は典型的な位置依存性文字なのだが、色々厄介なところがある。モンゴル国では使っていないのに中国内蒙古自治区では使っていたりとか、内蒙古で使っている蒙古文字とウイグル在住の蒙古族が使っている蒙古文字が微妙に異なっていたりとか、母音の数より母音文字の数の方が少なかったりとか(責任者出てこい!)、位置依存性に加えてリガチャがあったりとか、Unicodeに今年の8月に入っていたりとか。
 うちの大学でこの辺のことがある程度以上分かるのは私しかいないのは分かっている。わかっちゃいるんだが……(涙)。関係する先生方に連絡を取って意見調整をすることを約束する。

 そして最後が竹之内くんだ。Windows9xのコンパネからキーボードの設定を呼び出し、言語登録でドイツ語を登録して終わり。この程度のことは自分でできるようになって欲しいものだ。


1999年10月19日(火曜日)
 疲労が溜まっているせいか、今ひとつ仕事が調子に乗らない一日。特に睡眠不足は深刻で、くらくらしてしまった。こんな調子で大丈夫なのかね?

1999年10月20日(水曜日)
問:小熊の専門はなんでしょう?
答:日本現代史。

 ゼミでは漢字の話をする。
 石川先生のところでは、モンゴル語の話をする。
 深夜には片岡先生と電話で話をして、モンゴル語やら多言語処理やら文献電子化の話をする。
 そして徹夜で中間発表の原稿書きに勤しむ。タイトルは「日本語漢字の異形字シソーラスの構築とその応用」……。
 俺は一体誰なんだ?
1999年10月21日(木曜日) part 1
 朝、ふとTVを点けたらたまたまフジテレビで、「めざましテレビ」という番組が「ハヤリ系文字って何!?」とかいう特集を組んでいた。最近の若い娘を中心に流行っているとかいう文字とも記号ともつかない摩訶不思議な文字で書かれた意味不明の文字列。しかもその一部は既に写植になっているというではないか……。朝から絶望的な気分になる。今度東京に行ったとき、その『ハヤリ系文字練習帳』とやらを買ってくることにしよう……。
 やっぱり焚書坑儒しかないのかなぁ。
1999年10月21日(木曜日) part 2
 蒙古語の文法書と、現代チベット語の文法書を買ってくる。
 輕挙? 暴挙? 愚挙?
 約一万円という値段以上の何かを、売り払ってしまったように思う。でも既に、それが何だったのか思い出せないんだ。

1999年10月22日(金曜日)
 朝起きると、昼だった。
 七時に仕掛けられていた目覚まし時計は沈黙していた。止めた記憶もない……。そうとう熟睡していたものと思われる。まあ、その前四日間で十時間も寢てないような生活だったからなぁ。久しぶりに八時間寢てしまった。

 今日は指導教官が中間発表前に日本に居る最後の日……ってことで、がりがり中間発表の原稿を書き続ける。しかしとうとう最期まで完成せずに終わり、明日早朝、出立前に渡すことに……。
 つまり、徹夜。


1999年10月23日(土曜日)
 朝六時。学校へやってきた指導教官に中間発表の原稿を渡す。原稿を鞄に詰め込んだ指導教官をつくばセンターバスターミナルまで車で送っていく。かくして教官は独逸へと旅立った。
 しかし手元に残された宿泊先ホテルのFAX番号は一体なんなのだろう?(爆)
 昼頃に家に帰りつき、布団に潜り込む。
 しかし午後2時頃に宅急便が、午後4時には新型FAXを購入した友人からのFAXが届き、私を寢させてくれない。
 そして深い眠りのあとには、22時起床という事実が私を待っていた。買い物もでけへんがな……。
1999年10月24日(日曜日)
 土曜日を殆ど寢て過ごしてしまったため、頭のカレンダーは土曜日。時々曜日を確認しては、「ああ、明日は月曜日なのか……」と陰鬱な気分に浸る(笑)

 かねてよりの懸案だった空間利用効率の向上のために、机の上に棚を作ることにした。キタジマのテクニカアングルで棚を作るのだが、最初は移動式のワゴンにするつもりだったのだが、先日某社に寄ったおり、机の上に片持ち式の棚を作っているのを見て、これを真似することに決めた。
 図面を作って必要なパーツを計数し、単価から製造コストを出すと1万5000円くらいだった。まあいいかということで、材料を買いにジョイフル本田へ。売り場で確認すると、なんと一部の部品が店頭に並んでいなかった。注文することになってしまったので、完成は週末ごろになる予定。
 とりあえずある部品だけ仮組みみたけど、結構いい感じ。
 ちょーし乗って、我が家のお荷物・ゲーム機一式(セガサターン+アップスキャンコンバータ+CRTディスプレイ+スピーカ)を乗っけるキャスター付きの台を作ることにする。

 久しぶりに「技術屋きさらの箱庭」に行ったら、BBSが出来ていた。10,000HITって凄いや。ちなみにうちは現在400HIT/weekペースなので、10,000HITまでには半年近くかかる計算である。しかし一番気になったのは、「風の歌 星の道」というフレーズ。かつてNIFTY/FSFでの「冴木忍を語る」特設会議室で大量の発言をした私としては、何となく心の琴線がぶるぶると震えてるのだが……。
 それはともかく。
 きさらさんとこのBBSで紹介されていた「スカウター」でこのページの戦鬪力を量ったら、攻撃力1786、防御力7595でした(笑)

 この度の黒い企画はなんか反応がいい感じ。なんでこんなことをやったかは、私との付き合いの深い人には「ああ、あのことか……」と説明不要なのであったりする。今の段階で一言いうならば、「意味記述って奴ぁね、」ってところでしょうか。
 別に坂村先生に喧嘩売ってるのではないんですが、何しろアレですから、はい。


1999年10月25日(月曜日)
 まず、ローマ数字で「5,000」をどう書くのか、調べる。調べども調べども、結局は行き着かず、なぜか「1万」が分かったに終わる。ちなみに10,000はXの上にオーバーラインを書くらしい。これならもしかしたら5,000はVの上にラインかも……。

 大学のマシンと自宅のマシンとで、大分辞書の差異が出てきたので、ここらで同期をとろうと思い立つ。家でまずユーザ辞書を吐き出させて、次いでそれを大学で登録して、また大学でユーザ辞書を吐かせる。最後にこれを家で登録すれば終わり。
 その途中で馬鹿なことを思い付く。
 修士論文の都合で作っている異体字一覧から新旧漢字(あるいは本略体)を拔き出して変換するsedスクリプトをでっちあげて、ユーザ辞書のテキストファイルに対して実行する(笑)。出来上がったファイルを見て、一人笑う。
 その作業中に、表の間違いを発見してしまう。
 どこまでやっても間違いが無くならないのはどうしてでしょう……。


1999年10月26日(火曜日)
 夕刻、ジョイフル本田から注文していた部品が届いたと連絡があった。早速部品を受け取って、棚を作る。組んだ当初は結構ぐらついていたが、ボルトを締めるとぐっと安定した。隨分と頑丈なものだな。
 しかしその上にビデオデッキ2台、セットトップボックス、ディスプレイ、プリンタ、サウンドプロセッサなどを載せると、流石にたわんだ(笑)。しかし全ては予想範囲内に收まる。素晴らしい。

 左手の食指にできたささくれから黴菌が入ったらしく化膿して瘭疽になっていたので、針を刺して膿を出して消毒した。

 中間発表を目前に、まだOHPすらできていない。あわわわわ。


1999年10月27日(水曜日)
 見えないものや、概念的なものを説明するのはとても難しい。
 ゼミのある水曜日はいつも悩ましい。

 ちょっと古い話だけど、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』が文庫化されましたね。思わず買いそうになりました。ハードカバー持ってるのに。かつてハードカバーしかなかったころは、「なんで文庫化しないんだ!」と怒りを持っていましたが、今では「なんで今さら文庫化するんだ!」とか思っていたりして。心が狹いとも言う

 糸野くんと晩飯を一緒にする。話題は放送のデジタル化と地方局の生き残りについて。
 BSデジタル放送で、東京キー局の電波が空から降ってくるようになると、これまでキー局の番組の隙間に地方ニュースを流すくらいのことしかしてなかった地方局は、軒並みその存在意義を失ってしまう。ついでに地上波デジタル放送のための投資の問題とかあって、ただでさえ苦しい地方局の財政は圧迫されること必至だ。
 果たして今後の放送業界の中で生き残れる地方局はどのくらいあるのかな?

 折りからの低気圧でつくばは大雨。雨が降ると、小熊はいつもつくば研究学園都市を設計した旧・住宅都市整備公団(現・都市基盤整備公団)の連中はきっと無能だったに違いないと確信する。何しろつくばは排水の便が悪く、ちょっとの雨でもすぐに道路が冠水する。何もない所に自由に街を設計したにしてはお粗末な仕儀とは言えないだろうか?


1999年10月28日(木曜日)
 修士論文の中間発表を明くる日に控えて、院生室にはすっかり目つきが悪くなったごろつきどもがたむろしている。一人歌なんか歌っていたりする小熊はすっかり逆恨みの対象となってしまっている。
 逆恨みされてもねぇ。私は先日その分非道い目に遭っているわけで。
 発表に際して緊張する必要がないのは、どーゆーわけか最低二月に一度は発表をしているからだし。
 もしそういう生活がしたいというのであれば、してみればいい(笑)
 さーてOHPも大体できたし、シソーラス本体は印刷中だし、あとはレジュメの最終的なレイアウト調整かな。スクリプトでもういっちょ組むか、それとも?

 余談。
 修羅場ってのはさ、コピーセンターの閉店時刻を八時間後に控えて、なおかつその時点で原稿が全て集まっていないような同人誌の編輯状況を言うのだと思う。


1999年10月29日(金曜日) part 1
 シソーラスを印刷しおわったと思ったら、なんと元データにミスを発見。またまた163ページもあるシソーラスを印刷することに。レジュメの方も誤字脱字やら参照間違いやらを直しているあいだに午前三時を回る。現在はコピー機が頑張ってレジュメを印刷している。
 中途半端な時間に寢て寢過ごすよりは、徹夜した方がよかろう。土曜日は死んでるだろうなぁ。日曜日は…なんだっけ?
 それより今日はBTRON Clubの発表概要提出〆切だったりするんだが。

1999年10月29日(金曜日) part 2
 中間発表終わりました。
 いやぁ、疲れた疲れた。しかしこーゆーたら何だが、日本の学位って……(以下検閲)。
 まあ、貰えるものは有り難く貰えるだけ貰っておくのが人生を面白可笑しく楽しく生きるコツだという説もあるから、私も深くは追求しないで有り難く三猿モードに突入しよう(コラコラ)

 ところでBTRON Clubの発表の申し込み、まだやってないんだよね……。(うー。手輕にできてなおかつそこそこの知見があって、みんなを楽しませられて、できれば坂村先生にイヤミの一つでも言えたら最高なんだが)


1999年10月29日(金曜日) part 3
 ちょっとそこまで行って帰るつもりだったんだ。
 でもそこは「底」だったんだ……。
ある歴史学徒の嘆き

1999年10月30日(土曜日)
 本屋へ行って、本を衝動買いしてしまう。
 そのあと石丸電気のパソコン館で『超漢字』と『HYDLIDE 3』を予約してくる。
 そして、明日は東京へ行く。
1999年10月31日(日曜日)
 東京へ行くたびに思うのだが、首都高って酷いよなぁ。あそこで事故が起きないわけないよ。何が怖いって、自分の運転技術が向上したように錯覚させられるところが怖いよ。
 私は安全に運転したい。

 某社怪しい集団と邂逅し、毒電波を浴びてくる。
 一部では有名な菜々亭で夕食を採ったのだが、会話の内容は恐ろしくディープだった。なんかとんでもない邂逅ををしたよーな気もするが、忘れた。すべて忘れた。
 帰りの車には怪しいパネルが積載され、いつの間にか員数に数えられてしまっている私。
 なぜだ!?
 怪しい集団の一員、[ピー]MCのK元くんがヘブライ語とタイ語の教本を持っていた。このまま彼に多言語を教えめば、私の仕事を全て彼に押し付けられるのであろうか? なにしろ彼は日本語よりアセンブラが得意というような人外なので、彼が多言語処理を身に着ければ、私など出る幕はない(笑)。そうなれば、私は靜かに余生が送れるというもの。

 つくばに帰ってきたら、大角豆(ささぎ)の交差点で事故処理をしていた。右直事故のようだった。
 家に帰りついた頃には、ハッキネンが2年連続のワールドチャンプになっていた。