哀愁日記
底に哀はあるの。

西紀1999年11月分

Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクトは関与しておりません。
また、守秘義務の関係上、伏せ字が多くなっています。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

1999年11月1日(月曜日)
 全国的に雨。私の気分も憂鬱。何が一番憂鬱かって、そりゃあんた、昨日買ってきたビデオデッキが不良品だったから(核爆)。朝一番で某社のテクニカルインフォメーションセンターに電話をかけたら、新品と交換してくれるということだった。この辺の対応は流石と言うべきか……。しかし折角買ったダブルデッキのうちの片方が使い物にならないだなんて、虚し過ぎる。
 それにしても、どーしてこうもまあ、うちという家は家電製品の故障が多いかな。電波を飛ばすものは何も使っていないというのに。
 どっかから重粒子線でも貫通してんのかね?

1999年11月3日(水曜日・文化の日)
 明治節こと文化の日は晴れの特異日というわけで、今年も見事な秋晴れ。長野の紅葉は見事でした。この辺で「どれもこれも明治大帝のご威光の……」とか書いたら、きちんと冗談だと笑ってくれる人はどのくらいかな?

 実は月曜日から帰省していた。主目的は車のタイヤ。冬用のスタッドレスタイヤが四本、実家の方の都合で余分が出たので、頂いてきたのだ。殆ど新品。
 常磐道→外環道→関越道→上信越道→北陸道のルートで約6時間。一日は、睡眠時間3時間の上に、雨の中を突っ切って行ったので、実家に着いた頃にはへろへろだった(相変わらず無茶苦茶な……)
 一年振りくらいの魚津は、また街並みが変わっていた。私が故郷と呼ぶべき街は、私の記憶の中だけの存在となりつつあるようだった。

 実家からはタイヤの他に、古い古いMIDI音源(GS……らしいが添付ソフトがPC-9801用)、TA(うちISDNやないんやけど……)、ハードカバーの本を二冊、資料本を一冊。
 しかし最大の收穫物は『大言海』。実家の本棚の奧深くで、埃を被っていたのを讓り受けてきた。明治6年、当時文部官僚だった大槻文彦29歳の年に、国語辞書編纂を命じられてより18年の歳月を費やした『言海』。そしてその『言海』の後継辞書を編纂するためにとうとう役所を辞め、終生を賭し、そして果たせずに没した。1928年、数えで82歳であった。彼の没後、助手が作業を引き継ぎ完成させたのが『大言海』である。
 辞令一つで人生を賭ける羽目になった大槻博士……。どういうわけか、他人事とは思えないのだ。どうしてだろう。


1999年11月4日(木曜日)
 本日の衝撃的な一言。「カソード・レイ・チューブ? なんですか、それ?」

 ビデオデッキの交換が、本日行われた。やってきたデッキは、流石に完動品だった。(これで不良品だったら目も当てられない)
 ゲーム機を置くための台を作る。キャスター付きなので、不要なときは玄関にでも放置できる。きっと一年の殆どを、そういうところで暮らすことになるのだろう。

 ああ、いい加減スクリプト組まなきゃ。Bクラの原稿も書かなきゃ。同人誌の原稿も書かなきゃ。積読も消費しなきゃ。撮り溜めたビデオも消化しないと……。


1999年11月5日(金曜日)
 ここ数日の間に、某ゆうりすオタク一番の日記に、私のことがさんざんに書かれていた。自分こそが一番のデンパ発信源で、自分の院生室ではカーテンウォールで隔離されているくせに、人のことをとやかく言わないで欲しいものである。そのくせ、竹居さんのWeb Pageで100番を踏んだと喜んでいた。
 昼前にビデオデッキを讓り渡し、その足で茎崎のソニーサービスセンターへデッキを持ち込む。

 三年次編入で同期だった都築くんからPCケース(電源つき)を貰う。どういうわけか彼は今日、卒論の中間発表だったらしい。見学に行くことにする。卒業後の進路は知らないが、彼のことだ。パチプロかなにかで食って行くだろう。心配ない。
 とりあえずケースは手に入ったので、あとはM/Bがあればなんとかなる。と思ってPC Depotへ出向いたが、残念ながらよいボードはなかった。まあ、二世代ほど前のものが欲しいというのだから、無茶といえば無茶なのであるが。
 ま、秋葉で中古でも搜すさ。


1999年11月6日(土曜日)
 海の向こうから、MicrosoftがNetscape潰しのために独占市場力を行使したと認定されたとのニュースが飛び込んできた。妥当な判斷だと私は考えるが、これによって不利益を被る関係者も少なくあるまい。宿り木は宿主が死ねば枯れてしまうからな。
 私個人としては、これで少しでも良いソフトウェアに恵まれるようになればいいと思っている。
 SIST形式で論文を書くのにいいエディタなんかないかなぁ。(え? TeXで書くんスか?)
1999年11月7日(日曜日)
 今日はコミティアだった。50回記念だからなのか、会場もいつものTRCではなく、ビッグサイト。そこかしこで原画展をやっていた。文芸サークルには縁がないけどね(^^;
 疲労は溜まっているのだが、なかなか寢付けない日々に苛つく。修論も、前処理というか、事前準備というか、そういうものに手間取ってしまっている。そして次の同人誌の〆切は迫ってきているのに、目の前の原稿が気に入らなくて全没にしたくてたまらない。
 しかたないから、唐突に赤ワインなんか買ってくる。末期的だなぁ。

1999年11月8日(月曜日)
 アルコールなどを使って眠ったせいか、熟睡してしまう。それでも午前7時半に起きてBS2で『あすか』なんぞ見てしまうあたり、日々の習慣というのは恐ろしい。そのあとまた寢る。昼前に宅急便が来たりはしたが、午後3時頃まで寢倒す。
 起きた後、あちこち用事を足して回る。

 今日は立冬。もう、冬ですね。


1999年11月9日(火曜日)
 枕許に堆く積みあがった未読書のかさを、メートルという単位でカウントしなければならない事態に直面し、どーしたもんかと思案する。もちろん、妙案はない。更に困ったことに、読み終えたら読み終えたで、今度はそれらを書棚のどこかに收納しなければならないわけで、一体どこをどーやったらそんなスペースを生み出せるものか、最適化問題の解を求め続けなければならない。
 四次元ポケットとか実用化しないものだろうか。(ちょっと切実)

 最近、家でマイクロスクリプトと格鬪することが多く、学校へ行かない日々が続いていた。しかし、[ピー]MCのK元くん辺りにお願いすれば25分(推定)で完成するであろうスクリプトに数日かかる自分を省みて、「ああ、私は常人だなぁ」と感慨に浸る。
 とりあえずスクリプトの目処はついたので、一息を吐く。

 11月9日は、1989年にベルリンの壁が崩壞した日である。あの時は私は高校一年生で、これをネタに新聞部で最初の論説を担当したことを今でも覚えている。そういう意味では、私が道を誤る最初の一歩の引鉄を引いた事件でもあったと言えるかもしれない。
 魚津高校新聞の縮刷版を手元に引き寄せて145号を見てみると、当時15歳の私が、大層格調高い文章で大言壮語を吐いていた。
 ……当時の私の方が、今より文章が巧い!(愕然)


1999年11月10日(水曜日)
 毎日ディスプレイを見つめて仕事をしていると、なにやら目が乾くような感じがする。ついでに言えば、小さい活字を目を凝らして見ていたりもするから、余計悪い。
 とりあえず今日はゼミも終わったし、明日はBTRON Clubの原稿を仕上げて発送して、授業を受けて、日曜日にはまた東京へ行く。
 この多忙な日々よ! 「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とかいう格言があったが、個人的には売るほど苦労があるのも問題だ。はてさて、この労苦が報われるほどの長生きを私はするのであろうか? それよりその前に日本が破産してしまって、欧州大戦後の独逸のような有り様になっている可能性が高いようにも思うが。

 一部で有名だったドリームキャストに対する値引き禁止令について、とうとう公取委の手がSEGAに入ったらしい。
 日栄に対しては、金融監督庁がどんどん踏み込んでいっている。そおいえば日栄の社長は元々北陸銀行の行員だったそうな。ほくぎんといえば、700億だかの赤字を出して公的資金が入ったのではなかったか……?
 なんともコメントのしようがない。(一応出身地経済のことなもので、ローカルな話ですいません)


1999年11月11日(木曜日)
 BTRON Clubの原稿を書いて過ごす。途中、何度も「俺は一体何を考えてこんなタイトルで発表を申請したんだろう?」と思うことしきり。五時までに仕上げるつもりが仕上がらず、結局金曜必着の〆切には間に合わなかった。あとでM為さんに一言メールを出しておこう……とか考えつつ、次に進む。

 17時半頃から学食で、ただ飯。今年の夏以降立て続けだった図書館情報大学開学20周年記念行事が一通り終わったので、関係者他を招いての慰労会だった。間違いなく私はただ飯を食う資格があるはずである。
 職員の方々から色々労いの言葉をかけてもらったりした。しかし、中には苦笑するしかないものも……。
「会社行ったら連絡先教えて下さいね」
 ……って、他の人材育てんかい(苦笑)

 本日は平成11年11月11日の一並びの日だとかで、全国で色んなイベントをやっていたらしい。まあ、お祭でもせんとあかんような景気ではあるが。さらに追加の経済対策が全部赤字国債で賄われるなどと聞いてしまっては、げんなりしてしまう。「若者が未来に展望を抱けなくなってきている」とかいうありがちな雑誌記事に石を投げたい。見ろ。我々に科せられた「やらなきゃならない宿題」は、溢れんばかりだ(爆)

 先日の大言海の話題について、じゅりちゃんが変なコメントをしていた。きっとまた彼のことだ、妙な勘違いをしているに違いない。


1999年11月12日(金曜日)
 今日は『超漢字』の発売日。というわけで、予約していたソフトを引き取って来ました。一部では前日に入手した方も居られるようですが、まあ、私もβテスターだったわけで、そういう意味ではかなり早い段階からこいつに触っていたとも言えますな。
 しかし……B-right/V R1……笑)から始まって、なんでか分からんがB-right/VのCDが6枚もあるぞ。
 さて。多文字環境が整備された。この先が、ヒマラヤ登頂よりも厳しい多言語への道だ。
 あ〜、逃げてぇ。

1999年11月13日(土曜日)
 先日のエレショーで見てきたMD DISCAMって、中にJBlendが入ってたんだねぇ。全然気付かなかった。
 個人的には、動画記録媒体はそのうちテープからディスクになっていくだろうと考えているのだが、はてさてこれは第一歩になるのだろうか。なんとなく時代の徒花になって終わりそうな気がするのはやはりSONYだからだろうか……(笑)
 最後の本命は、MPEG4 + ディスクメディアか? (小熊はMPEG2がイマイチ好きになれないのであった)

1999年11月14日(日曜日)
 前夜、niftyのchatで夜更かししたというのに、朝早くから東京行き。秋葉原でM/B探を搜す。だが思ったようなものがなく、妥協を強いられる。うーん……。あと一万円くらいの出費になる予定。
 それよりも掘り出し物だったのが、キーボード。メカニカルの106キーボードを見つけてきたので、現在使用中のものの予備として確保する。
 午後からはFTRONの面々と合流して、作業。私の分担は本日完了。あとはTRONSHOW前日を待つばかり。
 東京からの帰り道、眠りそうになるのを必死に堪えながら走る。事故らないで帰ってこれて良かった……。

1999年11月15日(月曜日)
 朝起きると、ブレーカーが落ちていた。
 なぜ?!
 どっか配線がショートでもしてるんかいな……?

 土曜日の段階で気がついていたことなのだが、超漢字は、フォントを追加すると起動に時間がかかるようになる。私など調子こいてかなりどかどかとフォントを追加したので、あれほど輕快だった起動が、ドライバを入れまくったDOSと同じくらいかかるようになってしまった。
 昨日、[ピー]MCのK元くんからその辺の細かい事情は聞いたので、今度は使わないフォントをアンインストールせねばなるまい。
 マルチフォントは程々に(爆)
 フォントと言えば、TrueTypeだけじゃなくて、ATMが是非とも欲しい所だ。今後は美しい出力に向けて邁進してほしいとか思うぞ。
 モリサワあたりのフォントが載ると、目眩がするほどイイ感じになると思うのだが。(昨日K元くんからは、「上級者用100万円ですか?」とか言われたが(笑))

 最近とみに言行が怪しくなってきている男から、K6-2を貰う。昨日買ってきたM/Bに載せる予定。

 NASDAのH2が打ち上げに失敗してしまった。残念なことだ。軍事的側面を全く持たずにここまでやっている宇宙開発に暗雲が立ち込めることにならなければ良いが。
 大学に、TRONSHOW 2000のポスターを貼るべく申請書を書く。


1999年11月16日(火曜日)
 一部では有名な私のジャンパーだが、そろそろ寿命を迎えつつある。これまで散々役に立ってくれたものだから、それなりの愛着もあるのだが、ボロボロになってまで着続けるほどの執着はないので、代替品を搜すことにする。
 要求としては二点で、これまで同様の「リトマス試験紙能力」を持つこと(笑)と、それなりに目立つこと。第一点については、現用品はかなり強力だった。背中の代紋を見てどういう反応を見せるかで、相手の度合(なんの?)をかなり正確に測ることができた。第二点についても、唐草鉢巻きとならんで、ともすると集団に埋没しかねない私を引き立てるグッドアイテムであった。
 果たして適当な代替品は見つかるのであろうか?

 現実って奴は、常に想像を上回る。
 ライフスペースが瀕死の患者を病院から連れ出して監禁の挙げ句、少なくとも私は死体と呼ぶもの(苦笑)を「生きている」と主張して二ヶ月にわたって観察し続けたとかいうことを、もし小説で書いていたら、ただのホラー小説だね。まちがってもドキュメンタリ風小説にはならないだろう。
 ところが裁判にその記録が証拠として提出されているとか言われては、クラクラしちゃって、なにも信じられなくなっちゃうよ(笑)
 オウム事件以来、現実ってやつは、こくごとく私を裏切ってくれる。よくも悪くも、だ。


1999年11月17日(水曜日)
 今朝も起きたときにブレーカーが落ちていた。
 毎朝のようにビデオタやらセットトップボックスやらの時計を設定するのは恐ろしく手間だ。それだけならまだしも、このようにいつ落ちるか分からない状況ではおちおちパソコンも使っていられない。一体何が原因か分からないので、とりあえず東京電力に電話をかけて検査してもらう。ブレーカーには問題はなかった。ということは、どこかで漏電というのが考えられる最大の原因だが……?
 火事の原因にもなりかねないものだ。徹底究明せねばなるまい。

 NHKのBS22というニュース番組で、電子書籍の特集を組んでいた。現在のところ、モニター試験の結果は上々といったところのようだ。明日はオンデマンド印刷についてらしい。

 [ピー]MCのK元くん辺りにお願いすれば25分(推定)で完成するであろうスクリプトに半日かかる自分を省みて、「おい、所要時間が減ってきてるぞ……」。道を踏み外しつつある証拠だろうか?


1999年11月18日(木曜日)
 今日から連日、日曜日まで、東京へ。手帳を見ながら、一体何をどうしたらこういう予定が立つのだろうかと、訝しむ。
 疲労だけは確実に蓄積されてきていると感じる。

 超漢字の基本文書エディタは非常にまっとうになっている。なにしろ禁則付箋がサポートされている(笑)。しかし、ダンプして見ると、その禁則付箋の大きさにちと頰がひきつらないでもない。
 特にワードラッピング時の禁則付箋には……。


1999年11月19日(金曜日)
 高速バスに乗ったら、すぐに眠りの世界へ……。
 夢の中で、私は高速バスに乗って東京へ向かっていた(核爆)夢の中でバスは東京駅へ到着し、八重洲コンコースを疾走する小熊。八重洲北改札から飛び込んで、一目散に京浜東北線6番ホームを目指す。
 目が覚めたら、バスはまだ浅草だった。
 もう駄目かもしれん……。

 今日はCICCで多言語処理の会議だった。なんかみんなから苛められたような気がする。いや、苛められたというよりは……墓場のゾンビに仲間として引きずり込まれたみたいな感じかな。「TRONが多言語っていう超特大の核地雷を踏んでくれるとは有り難いねぇ」って。この会議には地雷を踏んでいる人しかいないので、みんな他人の爆死を喜んでくれるわけだ。Mine Treaderだな。
 片岡先生などは、多言語をやるといかに命の危機を経験できるかということをご自身の体験談を交えて懇切丁寧に教えてくれた。私が逃亡を希望すると、「もう駄目だよ。逃げたら少数民族テロリストの友達に言いつけてやる」とか言い出すし。
 帰りのバスで、一体どこで道を誤ったのか、冷靜に考えてみた。やはり短気が問題だったのだろう。あの文献の海に埋もれて、砂漠の真珠を搜し続ける行為を地道に続けるだけの気力が私に備わっていたならば、このような世界に足を踏み入れることもなかったのだ。ああ、故人は良いことを言っているのだな。「短気は損気」

 よーやくアナウンスが出たね。しかしエンコード方法が全部「参考」扱いってのはもの凄い。Shift-JISエンコードできることを前提にして文字数上限を定めたってのに、その桎梏そのものが参考扱いとあっては、一体この規格の前提は一体何だったんだろうと思わなくもない。
 さて。どうやってTRONに取り込みましょうかねぇ。


1999年11月21日(日曜日)
 昨日はBTRON Clubで東京でした。なんか始まる前にトラブってたけど。しかし[ピー]MCの人達も大変だよね。休日出勤の上に重労働、更に坂村先生には苛められて、発表者からは責められる。他人事で良かった
 坂村先生の話でここでも話せそうなことといえば、総合研究博物館の次回の展示のことでしょうか。年度末で坂村先生は総合研究博物館を離任するそうですが、その前に電子博物館の総決算をやるのだそうです。
 で、繩紋時代が展示品の主菜になるようですが、しかし坂村先生。私の前で繩紋を語るとはいい度胸です(笑)。私は繩紋時代には少々うるさいですよ。なにしろ今でこそこういうヤクザなことをしてはいますが、こう見えても学部の二年次までは考古学を志して演習にまで参加していたのですから(遠い目)
 繩紋時代がなぜ日本史の中で重要かというと、繩紋時代こそが、日本という文化圏の基底となっているからです。繩紋時代は沖繩から北海道まで、現在我々が日本と呼ぶ地理範囲を殆ど網羅していて、朝鮮半島などとは明らかに異なった一つの文化位相(地域差はもちろんあるが)を形成していたわけです。
 なのに今手元にある山川の高校日本史Bの教科書では、4ページしか触れられていない!
(以下止めどもないので省略)

 私の発表そのものは恙なく終わる。しかし坂村先生にはいちゃもんをつけられた。「現在のBTRONでは文字属層が未整備だ」と書いたのだが、「文字属層の整備に頑張ろう」と前向きに書けと。前向きに書いたらといって事実が変わるわけではあるまいに……。
 しかし多言語処理については、いい加減なところで後進に道を讓っておかないと、本業に戻れなくなってしまう。坂村先生に優秀な若人に心当たりはないかと訪ねたら、「君の本業は多言語だろう」とか言われてしまう。非道い人だ。
 自分の発表が終わった後は、会場の外で[ピー]MCのS谷さんと多言語の密談。このままスクリプト層だけの状態が続くと、言語指定があったとしてもスクリプトから文字属層へのコンバートができなくなる。二人して実例を前にして頭を抱える。圧倒的に人的資源が不足しているのだ。現地へ調査隊を派遣するわけにもゆかず、なかなかに困難だ。協力者は一人でも欲しい。
 途中一度坂村先生が顏を出したとき、「もっと人を」と訴えると、「小熊くんがいるじゃない」と、私に非道いことを言っていった。「だって君、多言語以外役に立たないじゃない」。
 絶対に、歴史学の道に戻ってやる。

 BTRON Clubが終わった後は、例によって例の如く酒を飲んだり茶をしばいたりしてカラオケに突入。今朝まで歌い続ける。
 状況が状況であるので、朝一番の高速バスで帰ってくる。そして休息を取った後は、修論に……。


1999年11月22日(月曜日)
 航空自衛隊の練習機が墜落。その際に高圧電線を切ってしまったために、東京と埼玉で大規模な停電が起きた。
 まずは亡くなった二名の自衛官の冥福を祈ると共に、人気のないところへ機体を誘導したことに敬意を表する。
 しかしまあ、真っ昼間のことでもあり、会社によってはとんでもない損害を受けたところもあるだろう。我が身に置き換えてみても、スクリプトでも組んでいる最中に停電などされたら、ディスクアクセスの最中だったら、などと考えると身の毛がよだつ。PC使用中の停電は一度だけ経験したことがあるが、あれは怖い。バチン、と瞬時に切れるのではなくて、すぅっと吸い込まれるように画面が消えていくのだ。その間1秒から2秒。存分に絶望を味わうことができる。
 最近、自宅で修論の作業をすることが多いため、昨今のブレーカー作動に気が気ではなかった。
 結局、ブレーカーの方は、ブレーカーを交換してからは問題無くなってしまったが。

 今日、ここ1年ほどの懸案事項であった電気スタンドを購入した。去年、長年使い込んだ電気スタンドが、とうとうプラスチック部品の破損という形で寿命を迎えてしまってから、なかなか代替品が見つからずに放置していたのだ。別に選り好みをしていたわけではないのだが、なにしろ設置空間やら稼動範囲にかなり制限があるので、自由度が高いものが欲しかったのだ。
 結局松下のものが一番自由度が高かったので、渋々ながら購入した。
 手元に灯がないと、仕様書が読みにくいんだよ。


1999年11月23日(火曜日・勤労感謝の日)
 昨日今日と、二日間、修論に没頭した二日だった。が、一週間分の予定を二日で消化できるわけもなく、作業はまた遅れてしまった。ううっ。反省せんとあかんのう。
(もちろん、反省しても過ぎた時間が戻ってくるわけではないから、とりあえずしておくだけだ)
 しかし……なんでこう漢字って多いかなぁ。
1999年11月24日(水曜日)
 漢和辞典(あるいは漢字字書)にはそれぞれ特色というものがあって、向き不向き・得手不得手がある。道具を用途に応じて選ぶように、辞書類も選ばねばならん訳だ。何が出てきても『大漢和』では、割鷄焉用牛刀ってもんである。
 で、今回必要となった辞書は、『最新JIS漢字辞典』(間違っても『JIS漢字字典』ではない)。一般的な辞書としては何の役にも立たないシロモノが(失礼!)、今回の仕事には必要不可欠なものだ。
 しかし……このままだと、文字通り部屋が辞書だらけになってしまうな。
1999年11月25日(木曜日)
 やらなければいけないことが山積みになっている。おおおおお。とりあえず寢てしまう。最も簡単な逃避行動だな(笑)。単に眠かったのだが。

 あっちで自己啓発団体の被害があれば、こちらでは宗教法人の被害がある。そして向こうでは「心のぶつかりあい」が理由で女児が殺される。平和な日本……。
 先週までは「定説」が流行語だったが、来週辺り「最高ですかー?」が流行語になったりして。
 TRONでもなんかやっかぁ。坂村先生に頭を叩いてもらって100万円とか、足の裏を観てもらって250万円とか(爆)

 ところで、TRONSHOWが近付いてくると、俄に郵便受けが賑やかしくなってくる。なにしろ『超漢字』のダイレクトメールから始まって、TEPS、TRONSHOWの招待葉書、招待状などが、なぜか必ず複数送られてくるのだ。それだけTRON関係の組織団体に重複登録されているってことなんだろうけど……。
 ごく僅かに鬱陶しいと思うところがないわけでもない。
 来ないよりよっぽどいいんだけどね(^^;


1999年11月26日(金曜日)
 今日はHYDLIDE3 Gold Packの発売日! というわけで早速買ってきてサルのようにゲームに浸り……たかったんだけど、やっぱり修論の方が気になって、ゲームはインストールするに止める。
 とりあえず調子の悪いマウスを交換しようとド近所のC-YOUへ出向くと、そこには山田さんが。外部記憶裝置を買いたいとか言うので、MOを勧めておく。しかしGIGAMOも廉くなったねぇ。いつの間にか手が届かない値段じゃなくなっている。今度秋葉原へ出たときに値段を見ておこう。

 修論の方の進行状況を一言で説明すると、「賽の河原の石積み」。

 首都機能移転って、本気でやってんのかね? 東京一極集中は確かに問題なんだろうけど、東京の問題点はどっちかというと新旧市街の混在にあるように思う。現在進行形で“都心”が移動し続ける成長都市東京の宿痾と言うべきか。
 行政府や最高裁を動かすことに大きなメリットがあるとは思わないが、国会を動かすことには一定のメリットがあるかも知れない。なにしろ、国会の付属機関である国会図書館のキャパシティは常に不足しているわけで、例えばつくばのように広大な土地が確保できるところへ移転できるとなれば(利用者の不便はあるだろうが)、それなりの意味があるだろう。しかし行政府と国会が遠く離れるのは不便だし、最高裁も動くなら一緒じゃないと困るだろう。
 ではどこかへ……とか思うが、警視庁のような警察機構の問題や、羽田・成田といった国際空港、鉄道・道路の基点となっている要衝であることなどを鑑みても、東京から首都機能を移転するのは難しい。東京はそれだけ条件がいいのだ。長年かけてそういう風に造成したというのもあるのだろうが。
 ここで私は、長年の持論である(笑)、「首都機能都内移転」を主張したい。手狹になってきている官庁などを移転させ、なおかつ東京都区内であれば、交通の問題も殆ど影響がない。
 そう。理想的な土地が、都内にはある。千代田区のど真ん中の、あの土地である。


1999年11月27日(土曜日)
 冬の夜空に轟くレッズサポータの悲鳴。いと哀れなりけり。

 今日も一日、賽の河原の石積み。一体いつになったら終わることやら。やっと全体の1/5程度。
 封印してあるHYDLIDE 3 GPをやりたくてしょーがない。

 旧約聖書に曰。
「去來我等降り彼處にて彼等の言葉を淆し互に言葉を通ずること得ざらしめんと」(創世記第十一章七)
 天まで届けと塔を建てた連中を怨めばいいのか、その程度のことで癇癪を爆発させたヱホバを訴えればいいのか、はたまたこんな逸話ですら恨めしく思う無神論者の自分を哀れめばよいのか。
 いと多言語の悩ましき。


1999年11月28日(日曜日)
 徹夜して朝。東京でSioさんとタオさんとお茶。茶の味が判らない人間には、どれだけ美味しいお店でも、なんとかに小判である。勿体ない(笑)。
 そのあと某社へ出向き、TRONSHOW2000の最後の準備。「出展者」の入構証がおどろおどろしい。
 仕事が終わって焼肉屋へ。食べるのに夢中になって、気がつけば22時半。
「……帰れない」
 かくしてカプセルホテルで一泊し、朝一番で帰って来る羽目になったのであった。

1999年11月29日(月曜日)
〈第一幕〉
ねえ、どうしてぼくのからだはひとつしかないの?
それはね、君が人間だからだよ。
よかったぁ。ぼく人外じゃないんだ。
〈第二幕〉
ねえ、どうしてぼくのいちにちは24時間しかないの?
それはね、君が地球人だからだよ。
よかったぁ。ぼく人外じゃないんだ。

 朝7時過ぎにつくばに帰ってきて、昨日の日記を書いたと思いきや、大量に溜まっているメールを処理せねばならず、次いで今日つくばに来訪する片岡先生関係の調整をする。
 燃えるゴミの日だったこともあり、慌ただしく朝が過ぎ、10時を過ぎて、とうとう前後不覚の状態になり、14時まで仮眠。起きてメールをチェックし、返信を書き、昼食を作り、学校へ行く。16時10分前、片岡先生が来訪。そのまま満都拉さんを引き連れて留学生会館で蒙古語処理の勉強会へ雪崩込む。
 その間、Digital Libraryの準備の方でトラブルが起きていて、必死になって私を搜していたらしい。しかし私のトッペルゲンガーなどは現れなかったらしい。
 勉強会の方は大成功と言うべきか、大失敗と言うべきか。
 蒙古語処理の問題点は、これで関係者全員の共有するところになったはずである。これで満都拉さんが蒙古語処理に人生を投げ出してくれれば大成功だったのだが、残念ながらそうはなりそうにない。私と片岡先生はしきりに輝かしい未来を彼のために捧げようとしたのだが……。
 20時頃に一応勉強会は散会したが、そのまま食事をしにいき、そして21時半過ぎに戻ってきてからは宿舎で片岡先生の研究の解説を受ける。
 かくして私が片岡先生から解放されたのは22時半過ぎ。院生室に戻ると様々なメールが私を出迎えてくれた。必死になって読み、書き、帰ろうと思ったら最後には柳さんに捕まる。
 自宅に帰ってきたのは23時46分。なんとかBS1での「クローズアップ現代」の再放送に間に合った……。

 ところで私、ここまで数日、完全に修論に手をつけていません。
 ところで私、これから数日、完全に修論に手がつけられません。

 一日24時間じゃ足りないよぉ……(泣)。


1999年11月30日(火曜日)part 1
 時間リソースの不足を補塡すべく、徹夜する。成果は上々。しかしつまるところこれは時間の前借りみたいなものであって、あとで利子を付けて返さねばならず、未来において事態はより悪化することが確定しているわけである。末期症状的自転車操業。

 書き物の方が一段落して、TRON系サイトを経巡っている間に、「技術屋きさらの箱庭」の中の「枕元のノート・独り言倶楽部」に気になる記述を見つけてしまった。
「異なる文字コード体系の間での文書交換規約/フォントを中心とした文書交換/共通語」としてのフォントの部分にある

原則的に一つの文字コード体系内では「文字コードと字形は1:1の関係である」
という記述。
 これが「文字コード」ではなく「字形コード」または「スクリプトコード」なら問題なくこの文章は正しい。しかし文字コードと字形とでは、それらが1:1で対応するものではないのは多言語処理においては常識的事項だ。
 ここ数日蒙古語ばかりなので内蒙古文字(ホド・モンゴル)で説明してみる。蒙古文字はアラビア文字の流れを組む位置依存性文字で単語内での文字位置よって、文字の形が変わってしまう。母音の「a」を表す文字には、語頭形、語中形、語尾形があり、こともあろうに語尾形は四つもあったりする。合計6字形は全部「a」であり、当然同じ「文字」である。
 さらに事態をややこしくしているのは母音の「e」で、こいつの語中形と語尾形は「a」と全く同じだったりする。つまり字形上では、語中・語頭形の「a」と「e」は区別できない。蒙古語が読める人は、文字ではなく、記述言語を解して読むので、区別できるのである(もちろん、文字しか知らない私は区別できない)。しかし、これが文字コード上の話になると、話は混迷を極める。
 字形を仲介させると文字が不明分になり、文字を仲介させると字形が不明分になる。
 位置依存性文字に於いてはこの手の問題はザラにあり、話が更に結合音節文字に至るとややこしいのを通り越してやりきれない話になる。
 別にきさらさんは多言語処理をやっているわけじゃないからあのような発想になっても仕方ないとは思うのだが、啓蒙が全然進んでないんだなぁとか思うと、道の險しさに目眩がしそうだ。
 誰か……(フェードアウト)
1999年11月30日(火曜日)part 2
 「ゆめもぐら」ってなんだよそれ……。お役人様のネーミングセンスって奴ぁ。

 ゆうりすオタク一番が、昨日からTBSでスタートした『デ・ジ・キャラット』のアニメを撮り逃したと、机にガンガン頭を打ちつけて嘆いていた。彼の額と机の強度保持のためにも、ここを見ている人の中で、彼を救ってやれる奇特な方は小熊までご一報頂きたい。(これでいいのか?>糸野)

 多言語という山は、性悪な山である。
 遠くから眺めていると、実に麗しく、登りやすそうに見える。ところが麓まで行ってみると、まずその高さに圧倒される。登りはじめると、その險しさに度肝を拔かれる。僅か数合目まで登ったところで、本格的な登山用具が必要であることを思い知らされる。それでもめげずに登り続けると、岩壁はますますその險しさを増し、先達の残した僅かなルートを手がかりに四肢を駆使せねばならなくなる。気がつくと岩壁はオーバーハングとなり、裝備はヒマラヤ登山級になっている。なのにまだ山頂は見えず、先人のビバークポイントでなんとか息を吐く。雪崩落石吹雪落雷、ありとあらゆる困難が前進を阻む。空気は薄く、支援はなく、先行者の背中はまだ見えぬ……。
 頂は、どこだ……。