2006年に港区で起きたシンドラー製エレベータの事故に関する消費者庁の事故調査報告書が、10年の歳月を経てようやく完成した模様。一審判決も去年だったのですが、10年は長い……。
消費者庁の意見としては、本質安全(フェールセイフ)100%の達成を国土交通省に要望ということですが、難しいでしょうなぁ……。特に古いエレベータを取り替えるとなると金も時間もかかりますし、あの辺は既存不適格が基本ですからして。
それにしても10年ですよ。これは適切なんでしょうかね? 事故調査に10年なんてかけてたら駄目だと思います。例えばこれが2年であれば、有権者の記憶が風化しないうちに対策が立案できたと思います。
やはり事故調査に関しては、司法の介入を抑制して、事故調査と再発防止を優先させるような法的枠組みが必要であろうかと思います。
久しぶりに科博へ。
考えてみるとこの本館の建物も実は関東大震災で壊れた湯島の東京教育博物館を上野に移転再建したもので、見た目のネオ・ルネッサンス様式を裏切る鉄筋コンクリート建築だったりします。一見煉瓦に見える表面もスクラッチタイルです。
古い建物だけにバリアフリー化には苦労していますが、末永く保存して欲しいものです。
そういえばこの9月から、土曜日も20時まで開館になったんだね。まあ、土曜日は人多そうだから避けたいところだけど……。
9月1日付けでファミリーマートがユニーグループを吸収して、コンビニのサークルKサンクスがファミマになることになったわけですが、コンビニの多様性の減少が残念極まりない。コンビニグループの大手3社のうち、特にファミマは多様性を殺すことで成長してきただけに、サークルKサンクスの良さが失われることを悼む気持ちが強いですね。
かつてam/pmがファミマに吸収された時に、am/pmの良質な弁当類は軒並み失われたわけですが、恐らく今回もまた、良質なスープ類や店内製作食品は失われるんだろうなー、と。
この辺、本来的にコンビニはマスの勝負だけに、已む方ない所はあるのですが、そうなると逆に企業内で多様性を模索しているLawsonって多少異質ですよね。
個人的にはもっと多様性が欲しいところですが、ポプラにでも期待するしかないんですかね……。(無理筋)
中国の杭州で開かれているG20サミットで、米国大統領に対する失礼があったそうな。
外国元首を迎えるのに適切な外交儀礼ってものはあるわけでして、守ってればそれだけで済むレベルの話のものではあります。
それを敢えて欠礼して見せる、というのは、外交的意思表示と看做されますし、大抵の場合、碌な結果には結びつきません。相手に冷や飯を食わせれば、外交の相互主義の原則が自分に降り掛かってくるだけなんですよね。
大物ぶりたいのであれば、むしろ完璧に儀礼をこなすべきでしょうが、それができない辺りが中国なんでしょうな。
最近、「Widnows 10 Anniversary Update適用後にKindleを接続するとOSがクラッシュする問題」に悩まされているのですが、スリープ状態でKindleを接続後、OSを起動/復帰すれば従来通り使用できる
というので試してみたんですが、やっぱりBSoDが出ました……。起動前なら大丈夫みたいなんですが。あと、取り外しも大丈夫みたいなんで、結局のところ、OSを再起動して繋ぐという運用に。
kindleのためだけに……。
早く直してくれねぇかなぁ。
民主党代表選で先頭を走っている蓮舫氏が、なんか二重国籍疑惑で搖れてるらしい。
何か問題あるんですかね?
国籍法によれば、選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。
(16条)とありまして、二重国籍状態の解消を促していますが、実は強制ではありません。何分、他国の国籍は他国の管轄であり、日本の法が及ぶ範囲ではありませんので。
ただし、便益を得るための二重国籍と認められる場合は、日本国籍を喪失させられることがあり得ますので注意です。外国で公務員になるとか、ね。
というわけで、日本は単一国籍主義ではあるのですが、他国との関係上、二重国籍状態に陥るケースを想定しており、悪質性がなければ不問に付すことになっています。むしろ蓮舫氏の場合、日本で国会議員になっていますので、中華民国籍を失っている可能性がありますが、その辺確認するのは大変でしょうね。
日本の議員になるのには日本国籍があれば良いのであって、国民であればすべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
のが原則です。
原則を忘れてる方が多いようですね。
「JR東日本、横浜線町田駅に大開口で低コストな新形式のホームドアを試行導入」とあるんですが、これ、ホームドアとしての機能を十全に果たすんですかね?
特に下側が大きく開いてるんですが、これ、白杖とかで探りながら歩く人にとっては、あまり好ましくないデザインですよね。乳幼児が潜れそうな程開いてるのは、デザインとして些か困惑します。
低コストで設置難易度が低いことは普及にとっては良いことなのですが、それが十全な機能を果たさないというのでは困るので、テストは念入りに行なって欲しいものです。心配が杞憂なら、それでいいんですが。
今年は颱風の当たり年なのか、次から次へと颱風が接近してきますな。お陰で天気が不順なのと湿度が高いのがやってられない感。
寝苦しいのが困るね。
PlayStation 4 Proですか……。
ゲームコンソールにおけるマイナーバージョンアップは過去にも例があるわけですが、必ずしも成功例ばかりではなく、難しい面があることが伺えるわけですが、果たして上手くいくんでしょうかね。
4K対応が目玉ということで、光学ドライブがUHD BD対応だったらBDプレイヤとして買っても良いかも、と思ってたのですが、どうもドライブの方は非対応っぽい感じ。
北朝鮮が都合5回目となる核実験を実施。
先のSLBM実験と合わせると、いよいよ本格的な核攻撃/報復能力の保持は秒読み段階と言えそうです。
オバマ政権の外交・防衛政策の不安は、最悪の形で日本に置き土産を残していくことになりましたな。
そして次の政権は、どっちになったところで軍事力の行使を行わないでしょう。
日本はほぼ単独で、アレをどうにかしないといけない立場に立たされるわけです。
これが諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと
した戦後日本の末路であると言われると、そこまでですが。
「Windows 10の極意はスタートボタンを押さないことにあり」という記事の中に
Windowsの使い方には2つの流儀がある。1つはアプリを開いてからやることを決める流儀。もう1つは先にファイルを探して、ファイルを開くことでそれに手を加える流儀だ。前者はどのアプリで作業をするか明確に決める必要があるが、後者の場合は、アプリの種類をユーザーが意識する必要はない。リストをWordで作ったのか、Excelで作ったのか、それともPowerPointで作ったのかは覚えていなくても、そこにあるリストファイルを開くだけで、作成したアプリが勝手にそのファイルを開く。
……とあるんですが、BTRONからWindowsに入った者としては後者での使い方がメインです。それと同時に、一つのデータウェア・ファイルを複数のアプリケーションで使い回すのも、一般的な使い方ですが、Microsoft Windowsに欠けているのは、まさにそのデータウェアの考え方だと思うのですよね。
ファイル・タイプが拡張子で判断されるのはまだ許容範囲ですが、ダブルクリックしたときの動作や、コンテキスト・メニューから“通常ではない”アプリケーションでの編集等は、今やWindowsの標準機能ではユーザが自由に設定することは困難になっています。(レジストリエディタで自分で書き換えられる人を除く)
画像ファイルにしたところで、ビュワーで中身を確認するだけの時もあれば、フォトレタッチソフトで編集したい場合もあれば、別種のペイントソフトで弄りたい時もありますし、メタデータだけを操作したい場合だってあります。しかしWindowsはある種類のファイルを、多数のアプリケーションから開くことを“非通常な操作”としています。
結果として、ファイルタイプは特定アプリケーションを起動するトリガー以上の意味を持たせられず、関連付けられた単一のアプリ以外を使いたい場合には、スタートメニューからアプリケーションの起動をせざるを得ません。あるいはレジストリエディタやDefault Program Editorなどで自力で何とかすることが求められます。
Microsoftの問題はMicrosoft自身が操作の単純性を追求したために、ユーザによるデータウェア操作の柔軟性・多様性を排除してきた結果ではないかと思うのですよ。
「東北〜北陸間を直通で走る新幹線、11月運行 大宮乗り換え不要」って、大宮でスイッチバックするのか……。
北陸新幹線を新大阪まで繋げれば、JR東海を経由せずに函館から鹿児島まで行く新幹線が理論上設定できるなぁ。(やらねーだろうけど)
「27型/326ppiの8K IGZOモニター、シャープが開発」とか、326ppiってのが良いなぁ……。これならかなり印刷物に近いWYSIWYGを実現できそうな感じ。
ただ、横から見た時の厚みがまた。
動画用だからか、ケーブルもいっぱい付いてるし、民生化はまだまだ先だな。
昨日、韓国で大きな地震が連続したようで、何やら大きなニュースになっている模様。ただ、現地ニュースの「震度」は日本の気象庁震度ではなくて、メルカリ震度っぽい感じ。
朝鮮半島は、日本と異なり、ユーラシアプレート上に乗っかってる関係で、あまり地震が多くない土地だけに、被害が心配されます。日本では許されていないレンガ造りの建物とかもあるそうなので。
現地マスメディアも沸騰しているようですが、日本と同レベルの観測体制がない国での話なので、日本を引き合いに出しての批判というのは、どうかと思いますな……。
「中国船の侵入で大きな変化! 中国が先に情報を出し始めたのは、実効支配への自信の表れか」と、嫌な傾向を示していますね。
遠からず戦争になるのは致し方ないとしても、できるだけ有利な状況で開戦できるよう、準備を怠らないようにしないといけないわけですが、どうも危機感が足りない感じがしてなりません。
腰痛で倒れておりました……。
朝日に「戦場で心はどうなるか 元米軍教授の「人を殺す」心理学」という記事があって、盛り込まれている情報は非常に興味深く、名著「戦争における「人殺し」の心理学」の著者ということもあって、極めてプラグマティックです。
一方のインタビューアである朝日の記者は……よくもまあこのレベルの記者をインタビューイが相手にしてくれたものだと感嘆するばかりです。最後の「取材を終えての」の部分は、目を覆わんばかりです。これだけの取材をしておきながら、アレ程の文章が書けるとは、一体どのような知性を持っていれば可能なのか、信じがたい思いです。
この取材で明らかになっていることは、戦場における精神的外傷の問題は、“一般的問題”であるということです。つまり、日本でもこの問題は適用され、そして一橋大学特任講師の中村江里氏が言っているように、日本でも過去には研究されていた問題です。即ちこの問題から日本だけが逃れることはできないのです。
にも関わらず、この問題を「米軍の問題」と捉え、米国の行動によって日本の若者が精神的外傷を受けるとばかり想像しています。この想像力の貧困さは、犯罪に等しい。
自衛隊がこの四半世紀に亘る国際貢献の中で、一度たりとも敵に向かって発砲せずに今に至っているのは正しく僥倖ですが、その危機は何度もありましたし、このままならいずれどこかでその時が来るでしょう。自衛隊に限らなければ、海上保安庁が不審船へ発砲し、これを沈めたことがあったように、既に「起こったこと」です。
であれば、私達に求められるのは、米軍や過去の旧日本軍の研究を真摯に学び、現代の日本に適用可能なように手直しするなりして、その時に備えることです。少なくとも、等閑視することは「Si Vis Pacem, Para Bellum」の精神に反します。
ケガレを遠ざけておけば悪いことは起きない、といった古典的祈祷感を朝日の記者が抱いていても、個人的信条である裡は何も申しませんが(何しろ日本には言論表現思想信条の自由がある)、報道として情報を掲載する時にそのような信仰表明をするのは場違いに私は感じます。
それと、記事中の中村氏の弁として「戦争神経症」の症状を示す兵士は日中戦争以降、問題化していました
とあるのですが、私の記憶では既に日露戦争の時点で問題が起こっていて、陸軍病院などで精神科医による「治療」が行われたことがあったと記憶してます。電気ショックを与えたりとか、患者が「戦場に行けばこの苦痛から逃れられるのか」とか言ってたりとか、なんか「治療」というにはかなりアレな感じを受けたのを憶えています。残念ながら出典が思い出せないのですが、ざっと調べた限りでは、少なくとも当時既に認識はされていたことで間違いないようです。
詳しく調べると医学の闇に足を突っ込みそうな感じですね。しかし、知っておくことは必要なんでしょうね……知らずに済ませられる社会が幸せである、というのは事実としても。
今日も腰痛でガタガタ。
真っすぐ立ってる姿勢が一番楽とか……(苦笑)。
コトノハカフェ第3回「難しい医療・看護・介護の言葉をやさしく」に参加。
EPAでやってきた看護師・介護士の日本語教育に携わった遠藤織枝氏を囲んでの座談会。
酷いもんだろうと思ってたけど、思いの外酷かったと言うかなんというか。それでも国家資格が絡む職業だけに、かなり手厚い日本語教育が施されていたと感じました。1990年代に受け入れが始まった日系ブラジル人デカセギなんて、こんな教育して貰えなかったよね、と。
どの業界にもあることなんですが、「業界語」と「日常語」の違いがあって、日本人であれば日常語を習得した状態で業界語の世界に入れるわけですが、来日労働者の場合両方をほぼ同時に習得しなければいけない困難さがある上、医療ではさらに患者対応という難しさがある、と。患者さんが方言を喋るとか……。
そもそも受入れが決まった段階では日本語教育の方策が何もなされておらず、実際に人が来てから日本語教育者が駆り出され、しかもその人達自身がまず医療用語を憶えないといけないとか、ウルトラ泥縄で始まったと聞いて、頭痛いなんてもんじゃねーぞ、と。
そのような混乱の中で候補生に日本語教育を施す一方で、看護師・介護士試験の方にテスト学会などと一緒に働きかけ、問題文の平易化(総ルビ、引っ掛け問題の廃止など)を実現した働きは非常に大と言えます。
あと、平易な用語への置換えは、どうしても知識の連続性や蓄積性を断絶する作用があり、医学・看護学との連続性を有する介護の現場としては、限界があろうかと思います。また、社会における言語、言語感の動的変化に対し、文章化・文字化された言語の静的安定性が、違和感や差別感を生じるという、構造的問題もあります。これを逐一PCW的に修正していると、また知の連続性が損なわれることになります。
遠藤氏は社会言語学者として変化する言語への追従を基本としておられるようでしたが、私のような歴史学徒などは知の連続性・蓄積性を強く意識するので、両者のバランスは難しいところだなと感じました。
遠藤氏の話の中で大変危機感を抱いたのは、来年から、EPAではなく、技能実習生制度の中で、介護士が募集されるということでした。技能実習制度は国連から奴隷労働の指摘を受けるような、極めて問題の大きな制度ですが、当然のようにこれまでのような手厚い言語教育は期待できず、日本語能力試験のN4相当の日本語力があれば良いことになっていると聞いて、思わず「えっ!?」と声が出てしまいました。最低でもN3、可能であればN2はないと厳しいと思うのですが……。
先日購入した電子書籍で、長音符号「ー」の代わりに罫線素片「─」を使用している箇所があり、Amazonに報告したんですよ。
そしたらですね、Amazonから当該箇所の位置番号を教えてくれと言われたので、内心「そんなもん書籍データを全文検索すりゃ一発だろうに」と思いながらも、もっかい再読して間違いのある場所の位置番号を確認して報告したんですよ。
そしたらですね、Amazonから問題を再現することができませんでした。
との有り難いお言葉が返って来たんですわ。
文字コードレベルで間違っているものを「再現できない」というのは実に難解な仕儀なわけですが、当該箇所のスクリーンショットを送ってくれというので、幸い前回調べた時に栞データを付けておいたので、当該箇所にジャンプしてスクリーンショットを撮りました。ついでに、どうもAmazon担当者が長音符号と罫線素片の違いを識別できないようなので、正しい例も。kindleのスクリーンショット機能なんて初めて使ったわ(笑)。
特にゴシック体のようなサンセリフ書体では両者の区別は難しいのですが、通常文芸書の場合明朝体系の書体で読まれますから、両者の違いは明確になります。一見して分からない人間はいないと思うのですがね。
これが印刷書籍であれば然程の問題もないと思うのですが、電子書籍では小さくない問題を生じかねません。例えば、音声読上げにおける障碍です。KindleにはAndroidなどの端末で音声読上げに対応していたと記憶していますが、こういった機能に間違ったデータが送り込まれる事による不利益は、容易に想像がつくものと思われます。
電子書籍においては「見た目が正しい」ことも重要ですが、「論理的に正しい」ことも重要であると思う次第です。
ニューヨーク‐ニュージャージー州連続爆破事件の犯人が銃撃戦の果てに逮捕か……。
テロとの戦いは順調に社会コストが増大する方向に向かってるなぁ。
日本も決して人事じゃないんだけど、社会が受容できる“異分子”の限界量に達してないからまだナントカなってるけど、余裕もそんなにない気がするんだよね。
颱風16号が太平洋岸を舐めるように進行して、大雨の一日でしたな。
NHKで「激走!日本アルプス大縦断」って放送されてて、ふとおかしいな?と思って確認したら、これ2012年のレースの番組の再放送だったのね。
今年のレースは24日に放送、と。
日本海・富山湾に面する故郷の魚津市を出発して、静岡市大浜海岸まで日本アルプスを踏破して走るという過酷なレースですが、賞金ナシ、要参加費という、参加する人たちはみんな頭おかしいんじゃないか(褒め言葉)と思わずにはいられません。しかも優勝者の望月選手などは、ほとんど睡眠も取らずに走り続けて8日間のタイムリミットの所を5日間で走るとか……。
とりあえず本放送待っとこう。
しかし、なんで魚津がスタートなんじゃろ?
NHKクローズアップ現代+の「“破綻国家”衝撃の潜入ルポ 〜混迷するソマリア・南スーダン〜」は久々に良い番組でしたな。
モガディシュとジュバという両国の首都のさらにその一部での取材でしたが、それでもとんでもない状況であることはわかりましたな。
困ったことに、この問題は放置しておくとあちこちに飛び火して、いずれは自分たちの足元にも着火してしまうところです。遠い国の話、と等閑視しておけないのです。
ソマリアの問題は海賊となって日本の海上輸送路を脅かしましたし、発生した難民はヨーロッパを襲っております。日本だけが蚊帳の外でいられる時間は、そう長くないでしょう。
サーチナに「どうして韓国やベトナムは中国式の名字なのに、日本だけは日本式の名字なの?」という記事があったんですが、現代日本の氏について言えばとりあえず不正解という程でもないかな、的な。
遡れば日本に漢字が入ってきた時や、律令を導入した時など、唐風の名称が流行ったことは一度ならずあり(その最たるものは諸国郡郷名著好字令でしょうが)、二文字姓を唐風に一文字に呼び習わすのは、菅原道真を“菅丞相”と呼ぶなど、ありふれていたり。
実のところ日本には一文字姓が約1,300種あるとされていて、中国・韓国に劣らぬ多様さを誇っています。
それでも唐土風の氏が定着しなかったのは、究極的には家族制度が一致しなかったからではないでしょうかねぇ……。
中国などは父系の血縁を極めて重視しますが、日本の場合、氏(うぢ)は父系の血統でも、姓(カバネ)はイエのものだし、名字に至っては同氏の集団の中での区別のために発達したものだし、と、血縁主義がそれ程強固じゃないんですよね。どちらかと言えばイエが惣といった、非血縁集団の繋がりの方が強いのが特徴です。武家社会で石を投げれば源平のどちらかに当たりますし、公家社会で藤原さんと呼んだらほぼ全員藤原さん、とかいう問題もありますしね。
結果として、全部つなげると源朝臣徳川次郎三郎家康さんみたいな名乗りになってしまい、日常的には名字で済ませるようになった結果、現在に至る名字の抬頭を齎すわけですね。
父系を示すことよりも、社会生活における区別性が重視された結果、多様な名字が生まれたと言っても良いかと思います。
なぜ日本がそのような社会なのか、については、また別の話になるかと思います。
「南スーダン、迫る国家崩壊の危機 支援活動も困難に」という、どうしようもない記事。
余りのどうしようもなさに、全てを投げ出してしまいたくなるね。
独立決定の時点で失敗国家化が懸念されていたわけで、「奇跡は起きなかった」とかそういう類の事例ではあるのですが、後始末を考えると頭の痛い問題です。
結局のところ、統治能力のない連中に国家を与えても破綻国家が一つ出来るだけである、というのは、20世紀後半からこっち半世紀以上をかけた教訓ではないかと思います。先進国の住民は、人間には先天的に国家統治能力が備わっていると思っていたのかもしれませんが、実はそれは偉大なる先人たちの積み上げた社会的蓄積による教育の精華であったのですな。合掌。
そういえば最近、「パレスチナ暫定自治政府議長が英国に謝罪要求」とかいうネタがありましたが、気持ちは痛いほどよくわかりますね。バルフォア宣言だけじゃなくて、過去の殖民地政策で引いた国境線の数々について、新興国家の統治コストを不必要に上げている面がどうしてもありますから……。
「ハドソン川の奇跡」(原題:SULLY)を観てきました。
言わずと知れた「USエアウェイズ1549便不時着水事故」を題材に取った映画ですが、僅か5分の出来事をどうやって1時間半に仕立てあげるのかと思ってましたが、主題は事後の事故調査についてでした。
この日記でも何度か取り上げていますが、米国には業務上過失致死傷罪という概念がそもそもないらしく、事故は犯罪ではないとされています。その上で、航空機事故については国家運輸安全委員会(NTSB)が刑事免責の上で事情聴取等を行い、事故原因の究明と再発防止策の提言を行います。乗組員の対処に問題があった場合は、行政処罰も行います。
事故については、当時の報道の過熱ぶりが記憶にあるところですが、その後の事故調査でも乗組員はほぼ無謬であったことが明らかになっており(明確なミスは着水後に浸水防止バルブの操作をしなかったくらい)、バードストライク直後に帰投していれば空港まで間に合ったというシミュレートも、乗員の対処時間を考慮すれば仮定としては問題があるわけで、あれはほぼベストに近い結果だったと思います。
問題があるとすればマスコミ報道の方で、異様なまでの盛り上がり、英雄化などが行われた結果、機長他の心理的ストレスになったことは否めず、議論の余地を残していると思っています。
なお、事故調査に警察が出張ってきて責任者を司法で処罰しようとする某国については論外ということで。
そういえば事故を起こしたのはエアバスのA320なのですが、事故が非常に少ない安全な機体として知られます。同クラスであるボーイングのB737に比べると、単位飛行時間あたりの事故率が1/3位なので、その位は安全です。また、以後のエアバス機は相互乗員資格(Cross Crew Qualification; CCQ)を持たせるべく高い操縦互換性を有しています。
一方でその安全を支えているのがFBW等を中心とした電子制御でして、電力が失われると大変なことになる機体でもあります。映画でも、両エンジン推力喪失した後に客室が停電し、機長が独自判断でAPUを動作させるシーンが重要なシーンとして描写されていましたが、最初に電力を確保したことは不時着水の成功に大きく資したと指摘されるところです。
なお、過去にエアバス機で空中で燃料切れという事故を起こしたことがありまして、さすがに燃料切れたらどうするんだよと思うでしょうが、そういう時のためにラムエア・タービンという風力発電機が旅客機には搭載されております。
一方、そのように事故が少ないエアバス機なのですが、最近の事故を見ていると、2014年のエア・アジア機の事故などですと、機体にトラブルが発生して、そのトラブル対処の中で操作を間違って飛行増強コンピュータ(FAC; Flight Augmentation Computer)を切った挙句、機長と操縦士が逆の操作を行ったため機体が応答せず、最後まで二人が逆操作に気づかずに墜落とか、なんというか、どうしようかという感じですね。
この、機長と操縦士が逆操作を行って墜落、というのは、実は他にも例がありまして、2009年のエールフランス機の事故(A330)でも、ピトー管凍結から自動操縦が解除され、手動操縦で失速状態に陥った際に副操縦士が機首上げ操作をし続けたため、機長が機首を下げて増速しようとしても機体が応答せず、失速を回避することができずに墜落するという事態が生じています。
危機的状態において複数の操縦士が異なる操作を行った時に、それに気づきにくいという不安がエアバス機にはあるんじゃないかと思われます。
ハドソン川の一件では、機長が操縦を担当し、操縦士はQRH(クイック・リファレンス・ハンドブック)を開いて危機対処を行っていたことが、生還の一因ではないかと思われるところです。
中国軍機が退去して宮古海峡を通過したとか。
軍事的プレゼンスを強める中国の政策の一環と看做せると思うのですが、本質的に戦争へ向かう道だという点で、チキンレースですなー。相手側が弱腰である間は效果を見込めるわけですが、一朝、相手が覚悟を決めてしまうと最早止めどが無くなってしまう。
政権末期のオバマ大統領は動けないだろうし、次期米大統領が誰になるにしろ、今より米軍のプレゼンスが後退することを見越しての事なんでしょうけども、米国の退潮に対して我が国が踏ん張らないといけない、というのは、非常に辛いところです。
「古代ローマ帝国の銅貨か 沖縄「勝連城跡」で発見」と、沖縄の勝連城でオスマン帝国のコインと共に発見されたそうな。中世の海上交易を考える上で一つの大きな発見ではあります。
ただ、古代ローマのコインは、ローマ帝国崩壊後もかなり長くの間使われていたので、ローマ帝国と交易をしていた、ということを意味するわけではないので注意です。
それ自体が貴金属的価値を持つ金貨銀貨とは違い、銅貨・銭貨は元より信用貨幣であり、発行母体の信用こそが価値を保証するものである…と思われるのですが、実際には発行母体が倒れようが滅ぼうが、“適当に”使われていたというのが歴史上の事実だったりします。日本だって江戸時代初頭まで宋銭・明銭を使ってたわけで、一体どのような信用があって使っていたのか、実に興味深いところです。
要は払う側と受け取る側の間で信用が成り立っていれば大丈夫、ということなんでしょうが……。あるいは上位の貴金属貨幣との交換がどこかで保証されている、という安心が担保だったのでしょうか。
果たして沖縄で見つかったローマ帝国の銅貨は、誰がその価値を保証していたのでしょうかね。
しょうけい館で企画展「武良茂(水木しげる)の人生」が開かれていると知って、観覧に出かける。かなり昔に「水木しげるのラバウル戦記」を読んだ記憶があるのだが、大分忘れてるなぁ。
展示を見ると、武良茂氏は徴兵検査は乙種合格で第一補充兵だったらしい。昭和18年に招集。もうどんだけ日本の人材が払底していたかわかりますな。
戦前の徴兵制について一定程度の知識がある人なら分かりますが、戦前平時であれば20歳を迎えて徴兵検査を受け、甲種合格となった者の中から、管区聯隊の定数に必要な人数が抽籤で現役兵となったわけで、それ以外の、甲種合格者で籤に外れた者や、乙種合格者などは補充兵役に回されました。
現役兵となると管区の聯隊に入営し、2年間の現役生活を果たし、(通常は)上等兵になって除隊、予備役に編入されます。郷里の在郷軍人会に所属し、いつでも招集がかかっても良いように、日常生活を送りながら待機する人生を15年4ヶ月送ります。つまり20歳から計17年4ヶ月が兵役期間(常備兵役)ということになります。この予備役兵を召集するのが「召集令状」、通称“赤紙”と言うことになります。
では籤で外れた甲種や乙種はどうなるかというと、常備兵役に対して補充兵役に服することになりまして、12年4ヶ月(後17年4ヶ月)の間に120日間の訓練を受けることになっていました。とは言え、2年間みっちり現役をやった人間に比べれば練度は推して知るべしなので、本来戦力として期待されるものではありません。(細かく言うと補充兵役は第一と第二があったり、さらに国民兵役というものがあったりするのですが、ここでは言及しません)
戦争が起こると陸軍は、年度頭に承認された動員計画に基づいて予備役兵を召集し、聯隊・師団を平時編成から戦時編成に切り替えて出征します。召集令状は年度初めの計画に基づいて各聯隊管区で事前に用意され、管区内の警察署に保管されており、動員命令と同時に開封され、市町村役場の兵事係の手によって一軒一軒手交され、受領証に日時と印を記すようになっていました。この手交完了までの時間が短くなるよう、徹底的に準備されていたようです。
当時の日本軍は開戦と軌を一にした高速動員で軍を増強し、準備の整いきっていない敵軍に一気呵成に襲いかかり之を撃破す、という基本戦略だったんですな。
で、戦時が解かれ師団が平時編成に戻ると召集されていた兵が招集解除となり、また予備役に戻って日常生活に戻るのです。
逆説的には、国民の中でも、男子で甲種合格で現役に行った者の中でさらに優秀な者(例えば特技がある者)程優先的に召集されるシステムになっており、昭和6年の満洲事変以後、戦争が長引くにつれ、二度三度と召集される者がいる一方で、全く召集がかからない者もいる、といった具合に奇妙な不平等が蔓延するようになっていました。
また、優秀な常備兵役者から消耗していくことになり、15年戦争も後期に入ると常備兵役者が足りなくなり、補充兵役者を召集するようになります。元々身体的に甲種に及ばないとか、訓練が行き届いていないとか、そういう問題があるにも拘らず……。
水木しげる氏は到底兵隊としては優秀ではなかったわけですが、昭和18年にはこのような乙種合格の補充兵役者を召集する所まで、日本は追い詰められていたわけです。昭和19年には徴兵検査を19歳に繰り下げていたり、朝鮮での徴兵を始めたりと、実に末期になっております。
正直な所、水木しげる氏のような人を召集する時点で負け確定だよな、とか思いました。
あと、兄の宗平氏と一緒の写真を見て気づいたのですが、宗平氏は海軍士官だったんですなー。
常設展も非常に興味深く、一見の価値のある博物館であると思います。
ちょっと思い立って、予科練平和記念館へ。
なんと言ったらいいのかな、展示のビジュアル面についてはかなり手の込んだ展示手法を用いていて、隣接する陸上自衛隊土浦駐屯地敷地内にある雄翔館に比べると、なんというか、お金あるんだなぁ、とか。零戦21型の実物大模型を製作して展示とか、金満な印象。
あと、展示が全体的に「印象」に偏ってるかなぁ、と。それと、忘れてはいけないのは、この記念館は土浦の元祖予科練だけを対象にしていることですかね。太平洋戦争突入後には、予科練と言っても全国19箇所に開設され、採用総員も万単位になるのですが、本館は基本的に土浦の予科練だけを取り扱っています。
というわけで、「予科練」と一言で言っても時間的にも空間的にも実に多彩で、単一のイメージでは括れないことがお分かりいただけるかと思います。
歌にも歌われ、シンボル的な扱いでもある制服の「七つボタン」も、昭和17年からなので、昭和5年から始まった予科練の歴史の中では後半も後半ということになります。しかし、人数的にはこの間の入隊者数が圧倒的に多いので、予科練生の大部分が七つボタンの制服に袖を通した、というのも事実だったりと、非常に面倒ですね。
で、そういう面倒な所をずぱっと切って捨てて、イメージ展示に徹している、と私には思えました。
ところで、雄翔館の方で特に気になったのが「豫科練」なる表記でして、なぜ「予」を「豫」に直しながら「練」を「練」に直さないのか……。非常にもにょっとしました。
「予」の字は本来的には一人称代名詞や与えるの意味を持つ字ですが、豫の略字としても使われ、戦後当用漢字字体表によって豫の新字として定着しました。
「練」は本来、糸偏に柬ですが、戦後同様にして糸偏に東の新字が作られました。こちらは理由はよく分かりません。東と柬を混同すると音で困ると思うのですが、錬(鍊)の字と共に旁が東へと改められました。
困ったちゃんなのは「煉」で、JIS X 0208:1997では火偏に東なのですが、JIS X 0213:2004では火偏に柬へと正されるという、アレな経緯をたどっております。ええ、83JISのアレであります。
個人的には、形声文字の偏と旁の関係を理解するためにも、このような省略・統合は学習上好ましくないと思いますが、既に歴史上の出来事ですからね……。
戦争関連の展示を見てると、やはり視点の偏りが気になるのが歴史学徒の常というものですが、一方で観覧する側が歴史学徒ではない、という事実もまた「展示」という様態を考えると難しい問題なのですよね。
多方面から多角的に、かつ史料批判を交えて検討することは歴史学の世界では当然ですが、訓練を受けていない人はこのような議論を「まどろっこしい」とか「結論はどっちだ」などと、受け止めることができなかったりするわけです。
そういう意味では観覧者に一定の方向性を持った情報を与えるのは、展示の分かりやすさという点では好ましい面もないわけではないのですが、一方で捨てられた視点については観覧者が自身で補完しなければならなくなります。その人が認知的複雑性に富んだ知性を持っていれば良いのでしょうが、そうでなかった場合、展示会で見たものをそのまま知識としてしまうこともあり得ますからね。難しいものです。
東京大空襲・戦災資料センターの展示は、爆撃・空襲については非常に多面的な視点を提供しているのが特徴の一つで、東京大空襲を中心に据えながら、日本が行った重慶爆撃や欧州でのドレスデン爆撃など、民間人を巻き込んだ航空爆撃全体の中での位置づけを模索している点が、私の中では高評価です。
また、一般に知られる3月10日の大空襲だけではなく、ドゥーリットル空襲から終戦間際まで、時間軸方向にも視野が広いのも好感です。
ただ、どうしても気になるのは戦後の明るい雰囲気で、私個人としては外地での地上戦・抑留や、内地での進駐軍軍人による犯罪の問題などを知っているので、この辺、少々あっけらかんとし過ぎているな、という懸念を持たないでもないです。
もっとも、抑留や引揚げについて知りたければ平和祈念展示資料館へ行くべきだと言われればそこまでなんですが。
なお、占領期における進駐軍の犯罪を特に取り扱った博物館や記念館の類を私は知らない。(国立公文書館に「進駐軍ノ不法行為」とか文書は残ってるけどね)
先日Amazonとやり取りした「長音符号の代わりに罫線素片を使っていた」件ですが、今日見たら電子書籍のアップデートがかかっていた。
で、ダウンロードして当該箇所を確認してみると、きちんと長音符号に修正されていた。こういう修正の速さは、電子書籍ならではといったところ。
それにしても、一体どういう経緯でこんなミスが入り込んだものか。長音符号を入力するより、罫線素片を入力する方が遙かに難しいと思うのだが。