哀愁日記
底に哀はあるの。

西紀2001年12月分

Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクト、並びにパーソナルメディア社は関与しておりません。
守秘義務の関係上、伏せ字になっている箇所があります。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

2001年12月1日(土曜日)
 近所の商店街に買い物に出かけたら、「内親王殿下誕生おめでとうございます」とか貼ってあったりして、おやおや、と思う。手書きならまだしも、ちゃんとした印刷物だったんですよ。前々から用意してたんでしょうけど……両方作ってたんでしょうかね?

2001年12月2日(日曜日)
 何もしなかった日曜日……?

 DeCSS裁判は、連邦控訴裁で、DeCSSはデジタルミレニアム著作権法に反するとして配布が禁止された。ついでにAdobeのPDFの暗号を破ったロシア人技術者も有罪になっているようです。
 まだまだ著作権関係の問題は混沌が続くようです。


2001年12月3日(月曜日)
 時代は『ロケットガール』(野尻抱介著/富士見書房刊/1995年/ISBN4-8291-2618-3)!
 民間資本がクリスマス島でロケット打ち上げっすよ。なんか、人生放り出して移住してしまいたくなりますね(爆)。

 内親王殿下誕生に絡んで、皇室典範の改正の話題が持ち上がっているらしい。要するに、女帝を認めようという話。その是非はともかく、歴史の講義をば(笑)。
 日本の歴代天皇の中で、女性の天皇は推古、皇極、斉明(皇極重祚)、持統、元明、元正、孝謙、称徳(孝謙重祚)、明正の延べ9代7人だけである。本当かどうかはともかく、125代の間で9代というのは非常に少ない。
 推古天皇は敏達天皇の皇后で、厩戸皇子(聖徳太子)の摂政政権時代の天皇。
 皇極天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の母で、最初は夫である舒明天皇の後釜として中継ぎ登板した。この間に山背大兄皇子(厩戸皇子の子)が蘇我入鹿に討ち果たされたのを見て「次は俺か! やられるくらいなら先にヤっちまえ!」と一念発起した中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼしたりと波乱があった。実権を握った中大兄皇子は孝徳天皇を傀儡に立てたが、9年で崩御。まだ皇太子でいたかった中大兄皇子は母親を再び担ぎ出した。これが斉明天皇。
 天智天皇没後、天智の子の大友皇子と、天智の弟の大海人皇子の間で跡目争い(壬申の乱)が勃発し、叔父が甥を討ち果たして天皇になる。これが天武天皇。天武天皇は即位したはよかったが、いろいろあって息子が全部絶えてしまった。で、天武の後に奧さんだった持統天皇が中継ぎで踐祚。孫の文武までを務めはたす。15歳で天皇になった文武くんだったが、在位10年で没。文武には息子がいたが当時6歳ではいかんともし難く、文武の母親、持統の息子の嫁が即位する。これが元明天皇。
 元明天皇の跡を娘(つまり文武天皇の姉)である元正天皇が引き継ぎ、なんとか女達の執念で聖武天皇へバトンが渡る。よかったよかった。
 しかしなんと聖武天皇は男児に恵まれず、女児が二人いたばかり。しょうがないので聖武は娘に讓位して出家してしまう。これが孝謙天皇。ここでなぜこれまでのように皇后が天皇にならなかったかというと、聖武天皇の皇后は藤原氏出身で皇族ではなかったから。ここまでの皇后は皇族ではなければならないというルールがあったのだ。不比等の娘・光明子は、皇后にはなれたが流石に天皇にはなれなかった。
 ともあれ、孝謙天皇はあとを淳仁天皇に任せて隠遁……した筈だったのだが、怪僧・道鏡の登場により話がややこしくなる。孝謙の病気を祈禱で平癒した道鏡はそのまま孝謙とイイ仲になって、政治にあれこれ口を出すようになった。淳仁と一緒に政治を壟斷していた(おい)藤原仲麻呂は、邪魔者を消すべく立ち上がるも返り討ちに遭ってしまう。これが恵美押勝の乱。淳仁は引責辞任の上遠流。哀れ流刑の地で没する。
 淳仁の後に孝謙が重祚したのが称徳天皇。道鏡は太政大臣禪師から法王になってやりたい放題。とうとう天皇にならんとしたが、流石に貴族が反発して宇佐八幡宮の神託という形でそれは阻止された。称徳天皇が亡くなると、道鏡はとっとと下野に流された。
 ついでに天武帝の血統も途絶え、皇統は天智統へと戻っていくのであった……。
 とまあ、この辺は日本史で詳しく教えてもらえるところなので、私が改めて書く必要もないような気がする。
 これでお分かりの通り、7人の女帝のうち6人までが、古代に集中している。
 残る明正女帝であるが、これはぐっと時代が下がって寛永6(1629)年に即位している。当時6歳。父・後水尾天皇は紫衣事件やら何やらで、徳川幕府にあれこれ指図される生活に嫌気がさしたらしく、天皇位を放り出してしまう。で、後水尾天皇と東福門院(徳川秀忠の娘=徳川家康の孫)の娘である明正天皇が誕生する。要するに、徳川家光の従妹ってことになる。これを境に、徳川幕府と天皇家・公家の力関係は決定的なものになり、江戸時代を通じて一体何人の天皇がいたやらいなかったやら、歴史の教科書では殆ど触れられなくなるのである。哀れ。
 天皇家も五摂家も小大名扱いで、下級貴族ともなると扶持米も殆ど貰えず、貧乏旗本よりももっと貧乏な暮らしをしていたらしい。無官の下級貴族などは内職で生計を立てていたという。娘を茶屋へ売るという話も珍しくなかったとか。これが幕末期における公家の執拗なまでの徳川追討へと繫がったのかもしれないと思うと、人の恨みというのはげに恐ろしきものかなと思わなくもない。
後日追記
 女帝は7人じゃなくて8人でした。明正天皇の後にもう一人、後桜町天皇がおりました。後桜町天皇は桃園天皇の姉で、若くして没した桜町天皇の後に踐祚した。桃園天皇の息子(後桃園天皇)にバトンを渡すためで、中継ぎ天皇である。即位は宝暦13(1763)年、退位は明和7(1770)年。
 もう一点。明正天皇の即位は寛永6(1629)年ではなくて寛永7(1630)年が正解。後水尾天皇の退位が寛永6(1629)年。

 一部で話題沸騰の「騎士(ないと)」君であるが、ナイトである以上は彼はニュートラルである。ローフルならパラディンだし、カオティックならアベンジャーになっている筈だからだ。ファイターコンバットオプションとしてはマルチアタックやらスマッシュ、パリーにディザームがあるが、マルチアタックが一番凶悪であることは言うまでもない。しかし習得Lvである12Lvに到達しているかどうかはいささか怪しいと言わざるを得ないだろう。
 しかし齡七歳にしてコンパニオン級とは豪気な少年ではある。
 目指すはイモータルか?
 なお、この話題についての質問は受け付けない(炸裂)。

 「ハリー・ポッター、ラテン語と古代ギリシャ語版出版へ」。
 対抗して漢文版を出すべきなのでしょうかね?(爆)


2001年12月4日(火曜日)
 これからTRONSHOWまで暫く忙しい日々が続きます……。参加できなくなるのは嫌なので、がむばって仕事します。
 年末進行の馬鹿野郎〜。

2001年12月5日(水曜日)
 はい、正式アナウンス出ました。次回BTRON Clubは会員でない人もスポット参加が可能です。TRONSHOWに併せてご参加下さい。PMCの皆様、お忙しいところ、御迷惑おかけします(微笑)。しかし最近すっかり黒幕仕掛け人ですね、私……(^^;
 あとは……発表原稿作らにゃぁ……(爆死)。

2001年12月6日(木曜日)
 できたよ、発表原稿……。
 ああ、しんど……。

 医療制度改革といって、サラリーマンの自己負担率を増やすらしい。確かに目前に迫った破綻をとりあえずでも回避するためには、そうせざるをえないのかも知れない。しかし、一方で、日本の厚生・衛生・医療制度全般が抱えている様々な問題について、きちんとした分析が行われていないことも実感する。
 保險制度について言えば、極めて数学的な問題だと思うのだが。


2001年12月7日(金曜日)
 絶滅危懼動物や絶滅種などの絶滅の過程を追っていくと、面白いことに、固体総数が一定数を割り込んだ途端、まるで加速するかのように数が減っていく現象に出くわす。
 つがいの数が激減し、出生率が低下し、その上雌雄比率が狂い……あっというま、それこそ人間が気付いたときには手後れになる。
 ある種が存続し続けるためには、棲息圏の広さと遺伝子の搖らぎがある一定以上必要なのだろう。かくして絶滅危懼種の保護のためには、動物園ではなく、棲息圏の保護が必要になるという話。

 敬宮愛子内親王……としのみや、なんて読めないよ、先生っ!(謎爆)


2001年12月8日(土曜日)
 疲れた〜。平日よりよっぽど疲れたよ。
 あまりにも重労働だったので、コミケカタログを購入するのを諦めてしまうくらい。
 色々考えることも多かった土曜日だが、しかし考えることが多すぎる気がする。

2001年12月9日(日曜日)
 一日ゆっくりと読書。仕事のことなど一切忘れて、文字と戯れる。

2001年12月10日(月曜日)
 朝方、風が吹いていた。巻き上げられた銀杏の葉が、オフィス(7階)の高さまで吹き上げられて、光が降っているような、ある種幻想的な光景だった。

 夜、弟から電話。
弟「降下作戦がどうしてもクリアできんのやけど」
兄「ガンパレかい……」


2001年12月11日(火曜日)
 夜、弟から電話。
弟「昨日のうちに降下作戦勝ったわ。熊本城も終わった」
兄「……(実はこいつヒマなんか?)」

 あー。やっと出てきましたね、Mozilla for 超漢字。でも個人的にはなんだかなぁと思わなくもないトコロ。超漢字のGUI系の中にアレがぶち込まれるのは、あまり美しいとは思えないもので。
 しかしまあ、よくもやったものだわ。(半ば冗談だと思っていた)


2001年12月12日(水曜日)
 明日からTRONSHOWですねぇ……。
 お仕事があるから、明日は行けないんですけど。
 っていうか、明後日の有給が無くならないように、必至こいて明日は入稿ですよ〜。年末進行の馬鹿〜。

2001年12月13日(木曜日)
 明日の有給は生き残りました(笑)。
 かなり死んでます。

2001年12月14日(金曜日)
 死んでる状態を引きずっての金曜日。
 朝から大寢坊。
 起きたら11時。坂村先生の講演なんぞ終わってるし、既に。
 重役出勤が決定した時点で慌てることを止め、ゆっくりと午後から出かける。
 TRONSHOWの会場に着いて、関西組と合流して、だべる。きさらちゃんとも、とうとう見える。ある種感動的な出会いであった。会場内を追われて(笑)、喫茶店へ河岸を移してだべる。

 BTRON Clubは進行上の都合で私の発表は次回に回されることになった。まあ、私の発表は、読めば解る世界なので。

 BTRON Clubが終わった後、集団は飲み系と食べる系の二つに別れ、食べる系は新宿へ出て飲み屋で食べる。自己紹介とワケのわからん話をたくさんして、ネットには書けない話などもしつつ、時間を過ごす。
 そして私は飲み屋に超漢字4を忘れてきてしまったのであった……。

 結論。駄目な一日でした。


2001年12月16日(日曜日)
 15日。TRONSHOW最終日は異様に密度の濃い一日だった。
 開場10分前に到着すると、デンパ大阪の姿が。冬聖戦の打ち合わせのために上京して来ていたもの。会場内では「これがデンパ大阪です」の紹介で済んでしまった。本人はいたくなにやら主張していたが、朝のセッションからTEPSまでこなしていた。
 私はというと、飲み屋に置き忘れてしまった超漢字4を保管していたnyちゃんからブツを受け取ると、昼に一度家に戻り、インストールを実行。ちょっとだけいじって再び会場に舞い戻る。

 17時に閉会になったあと、FTRONの忘年会。恵比須の焼肉屋にて大いに飲み食い喋る。総勢30人近く居たらしい。上京できなかった超蔵元からの杉勇での乾杯が終われば、会場はカオスへ一直線。
 ぐりさんと喋ってはお互い大いに驚いたりとか(笑)。世界は狹いと。他は多言語のことやらアニメのことやらコミックのことやら……。結論として、きしもとくんは修行が足りないことになった。だが茄子ちゃんが僕を同類だと呼ぶのは、明らかに間違いだと思うのであった。

 忘年会で喋り足りなかった20人弱は新宿へ移動し、ルノアールでダベリング。逆転写RNAさんと「人体運動シミュレータ」などというネタで意見の一致を見る。10歳若かったら、私はその道へ突っ走っていたであろう。

 ルノアール閉店後、ゲーセンに屯し、あれこれ楽しんだ後、最後に残ったπちゃん、里見くん、長濱さん、私の4人は徹夜カラオケに突入。第一興商Cyber DAMを初めてチョイス。さんざん苦労する。悪い意味で特徴なさ過ぎ。J-POP最強宣言がなんだろうが、僕はHyper JOYセガカラの方がいいや。

 自宅に帰りついて泥のように眠り、漸く午後になって、少しばかりMozilla for 超漢字をいじる。第一印象は、「遅いっ」。Athlon乗り換え計画を前倒ししようかと思ってしまうほど。とりあえずファイル構成などはMozillaと同様なようなので、WindowsのNetscape 6.2のブックマークを移植してみた。
 ちなみに、/SYS/$$PROGRAM.BOX/MOZILLA/misc/HOME/.mozilla/default/slmzcduz.slt/bookmarks.htmlがそうです。Netscape or Mozillaのbookmarks.htmlをType 31で持っていって置き換えてやればOKです。
 動いているのはいいんですけど、やっぱ無気味ですよ。

 いやはや、本当に濃ゆ濃ゆのTRONSHOWでした。大阪からいらした皆さん、群馬からいらした皆さん、その他全国各地から参集した皆さま含め、本当にお疲れ様でした。あなたにとって良いTRONSHOWになっておられたなら、幸いです。


2001年12月17日(月曜日)
 一日げほげほやってました。

2001年12月18日(火曜日)
 熱出して寢込みました。土日の疲れですかねぇ。いやはや、歳は取りたくないものです。
 早いとこ隠居しないと駄目ですね。

2001年12月19日(水曜日)
 あるところで、必要メモリ量が160MB以上などと書いてあるソフトを見掛けて、なんとも形容しがたい気分になった。
 クリスマスが近づくと思い出すが、私が最初のMSXに触れたのが1983年のクリスマスだった。SONYのHITBITで、主記憶は16KBだった。
 18年で10,000倍っすよ。
 年平均の伸び率を計算すると、166.81%という、地球の裏側のインフレ率みたいな数値が出た。このデフレの世の中では、まともに買い物する気が失せるというものだ(笑)。
 どっかでデノミしろよ、とか言いたくなったわ。

2001年12月20日(木曜日)
 養老孟司が、日本人の失読には「漢字失読」と「仮名失読」の二種類があり、これは日本人が文字を読むために脳の複数箇所を使っているためだろうと説明していた。
 日本語を母語として育った人以外の、日本語学習者に良く見られる傾向として、漢字(熟語を含む)の読みを執拗に聞いてくることがある。日本人からしてみると、重複を「ちょうふく」と読もうが「じゅうふく」と読もうが大した問題ではない。意味が変わるわけでもない。しかしこのことを気にする人は案外多い。
 このことから連想するに、日本語以外の言語話者にとっては記述言語とは音声言語の延長に存在しているということなのだろう。
 私自身は、これまでずっと「素直に」、音声言語と記述言語を、相互に干渉しあう別位相の問題と考えていたので、ちょっと新鮮だった。
 私にとっては、「読む」ことと「聞く」こと、あるいは「書く」ことと「喋る」ことは明確に違う行為なのだが、国際的にはあまり常識的ではないのかもしれない。

 書店で、呉善花の新刊を見つけて手に入れてくる。同時に、ジョン・ダワーの『人種偏見』(War Without Mercy)が『容赦なき戦争』と改題して平凡社ライブラリーから文庫化されていた。値段も1,500円とお求めやすくなった(註:元は2,796円)。
 ジョン・ダワーは私の尊敬する歴史家の一人だが、近著『敗北を抱きしめて』(岩波書店刊。原題:EMBRACING DEFERT)に、元々日本戦後史を研究していて、その研究をまとめるはずだったのだが、その研究のための戦前・戦中の研究が膨大となりWar Without Mercyとなってしまったと書いていた。勿論、それによって得られた知見は素晴らしいものなのであるが、やはり回り道は程々にしなければいけないな、と思うのである。

 近著といえば、先月だがクリフォード・ストールの近著が訳されていた。『コンピュータが子供たちをダメにする』(草思社。原題:HIGH-TECH HERETIC)だが、まだ読了していない。
 クリフォード・ストールといえば、『カッコウはコンピュータに卵を産む』や『インターネットはからっぽの洞窟』などで知られ、一般的にはコンピュータの専門家と目されているが、本人は天文学者であると自称している。まあ、本人の能力と志向が著しく異なることは、不幸ながら現実にはままあることであるので、彼も恐らくその不幸な例の一つなのだろう。
 それはともかく、ストールの考え方は、どういうわけか私と良く似ている。どうやら魔法の世界の住人ではいられない性分らしい。
 非常にありきたりのことを、まともに喋っている。ただし論理的に。
 ただそれだけなのだが、ただそれだけのことができない人があまりにも多すぎる。

 僕は非常に単純な要素で思考を組み立て判斷し行動していると思っているのだが、そういう人間からしてみると、世間にはどうにも理解しがたいことが多い。
 最近、診療報酬が、初めて下げられた。これは要するに医療の値下げである。
 ではこれで国が支払う診療報酬は減るだろうか?
 勿論、一時的には下がるだろうが、長期的には増加傾向に歯止めがかかるとは思えない。
 理由は簡単で、単価が下がれば売り上げを伸ばして利潤を確保しようとするのが営利経済活動(つまるところ人間心理)の自然だからだ。医療とて営利行為である以上、この原則から完全に逃れられるわけではない。
 そもそも、診療報酬制度そのものが、自由経済の仕組みに反するものだ。当たり前のことだが、日本全国、どこで診療を受けても料金が一緒、という仕組みはそもそも不自然なものだ。医療の平等という名目の元、北海道の寒村だろうが南洋の孤島だろうが、医療の料金は均一である。しかしそのために補塡しなければいけない金錢的格差は国(=国民みんな)で負担しましょうという制度なわけだ。そのために、電話帳のような点数表があって、どの医療行為が何点で幾らという料金が国で決められている。保險証を持っている人は、ここで決められた料金の定率を負担するわけだ。残りは健康保險機関から医療機関に支払われる。
 複雑に見えるが、要するに商品の品名と値段が国で決められている個人商店だと思えば良い。ただし、仕入れと販売は自腹でやり売上に応じた金錢が別に貰える。
 ここまで整理すればわかることだが、これは結構厳しい。値上げも値下げもバーゲンもできないから、ひたすら売り上げを伸ばすか、規模を大きくしてインフラに対するスケールメリットを稼ぐとか、そういう方向に走らざるを得ない。仕入れは自腹なので、遠隔地などでは利鞘が減っていく。極端な場合では、定められた売り値が原価を上回る可能性すらある。
 システム全体としてみたときに、このシステムの問題は柔軟性のなさとフィードバックの不全である。
 医療にかかる実際のコストを体系に反映することを考えずに、何%値上げだの値下げだのと議論するのは明らかにオカシイ(実際にこれについての基準はない)。また、標準化されているのが診療行為だけであり、病気に対する対処でないところも不思議。もちろん、いくらなんでもおかしな治療をすれば不審に思われるだろうが、決定権が医療側にあることは事実(濃厚診療は禁止されている、一応)。
 理念は評価しているし、その恩恵にもあずかっている。それ故に、放置して崩壞させたくはない。もっと工学的手法で問題を解決する能力のある人を上に立てて欲しいものだ。


2001年12月21日(金曜日)
 仕事が終わったウィークエンドの夜。定期巡回ルートに乗って神保町‐秋葉原をうろついていた私を呼び止める悪夢の姿! それは某工作者であった……。
 出会った所が祖父地図1号館3F奧って辺りがイヤ過ぎ(炸裂)。
 ちなみに、個人的に気になったソフトはFalcomの『Zwei!!』です。自他共に認めるAction RPG好きとしては、目の離せないところです。
 どーしよーかなー……。

 さて。BLACKにコンテンツを追加。
 って、BLACKばっか増やしてどーする……。

 昼過ぎに、東京初雪。
 とはいえ、綺麗な雪が降ったのではなくて、雨の中に雪が混じっていた……という、霙とも言えないようなもの。しかしこの時期に東京で雪が見られるというのは珍しいのでは……?


2001年12月23日(日曜日)天皇誕生日
 22日。以前から考えていた、HDDの増設を実行することにする。
 メインに使っているマシンのHDを2台から1台に減らし、IDEを一つ余らせようと考えた。
 そのためにまずHDDを新たに一台調達してきた。80GB。MBではないという辺りが既に何か間違っているような気がしたが、時代が変わったんだと自分を納得させる。まずはセカンダリ・スレイブに繫ぎ、PartitionMagicを使ってさくさくパーティションごとコピー。次いでサイズの変更……。超漢字の登録。バックアップ小物を使ってのバックアップ。
 ここで1st trouble。ジャンク屋でってきたHDD、但し書きが何も無かったので、勘でジャンパを設定したらケーブルセレクトだったらしく、プライマリ・マスタに繫ぎ変えて起動した直後に、スレイブドライブへの不正アクセスを誘発し、データを一部飛ばす。復旧に一晩がかかった(炸裂)。
 翌朝から、データ領域部分のコピーにかかる。量が量だけに、2〜3時間はかかりそうだと睨んで、床屋に出かけた。流石に帰ってきたら終わっていた。
 今度こそ、と起動するが、コピーしたパーティションのWindowsがイカレポンチになっていた。どーやってもHDDがリアルモードドライバになる。何度か復旧を試みるも如何ともし難く、パーティションのコピーを再び。
 この間、サブマシンのHDDも余ったディスクに換裝しようと作業を開始するが、こちらの方も重症になる。FATテーブルが壞れていた(核爆)。調べてみると、凄まじい状況で、なんでこの状態で動いていたのか、そっちの方が不思議だった。
 しょうがないのでこちらの方はOSからインストールしなおすことにした。どうせCD-Rを焼くだけの機械なので、手間はさほどでもないだろうとタカを括る。
 あちこち開けてケーブルを挿したり拔いたりしているときに、ふと見るとケーブルに血痕が。
 あれ?と自分の左手の指を見ると血まみれだった。よくよく確認すると、親指に切り傷ができていた。どこか部品で切ったらしい。とりあえず水洗いして絆創膏。しかし僅か数分後に右手の親指も負傷した。
 とにもかくにもメインマシンが正常に動き始めたのが本日21時。作業開始から30時間以上が経過していた。
 この後、超漢字の方のセッティングに移りますので、また暫く途絶です(苦笑)。

 追記。超漢字の方は、No Troubleでしたよ……。
 でもカスタマイズ項目が増えた分、環境復元にはやや時間と手間がかかるようになりましたね。このあたりが一発でできると良いのですが。
 って、スーパーIDカード……。


2001年12月24日(月曜日)
 スーパーで「クリスマスセールは本日まで」とかアナウンスされてたのを聞いて思うわけ。
 クリスマスって明日だろ……

 我が家で今の所最も長生きをしている周辺機器であるプリンタだが、いよいよ駄目かも知れない。キヤノンのBJ-220JC。DOS時代から営々と使ってきているのだが(笑)、インクカートリッジの中身が無くなるより早く、ヘッドをどこかにぶつけて壞してしまう。色々調べているのだが、原因は不明。紙送りの不調も慢性的になりつつある。
 一昨年には修論の附録を160pも一晩中印刷したりと、ロートルとは思えないほどの頑張りだったのだが、いよいよ駄目か。6年も使ってるからなぁ……。
 しかし、代わりのプリンタって言ってもなぁ。私の要求水準を満たすものはとても家には置けないし。どーせだから適当に安いの買ってくるか?


2001年12月25日(火曜日)
 暫くまともに料理をする時間はとれないだろうと思って昨日カレーを作ったら、役に立ったやら立たなかったやら。外れた方が本来良い話なんだよね、こういうのって。
 誰かカタログチェックをする時間を下さい。
 私の代わりにカタログチェックをしてくれるエージェントでも可(爆)。

2001年12月26日(水曜日)
 超漢字形式CD-ROMの作り方、ですか……。
 うーん。
 なんとかしてもっと簡便な方向に持っていきたい所だが……。

2001年12月27日(木曜日)
 一応、仮公開。物凄く重いページになってまいました。
2001年12月28日(金曜日)
 あああ、冬コミの準備が何もできていないっ! 加油! 加油! 加油!!
 でも眠いの……(涙)。

 神保町で竹居さんと遭遇。殆ど定例であるため、最早感想すらない。


2001年12月29日(土曜日)
 初日終了。
 やっぱ参加者が増えているのだろうか。一般入場にかかる時間がやはり伸びているように思える。

2001年12月30日(日曜日)
 二日目。
 一般入場の列に並び、4時間ほど。疲れまくった。

 えっと……これから実家帰るんですか?>私