哀愁日記
底に哀はあるの。

西紀2002年1月分

Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクト、並びにパーソナルメディア社は関与しておりません。
守秘義務の関係上、伏せ字になっている箇所があります。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

2002年1月2日(水曜日)
 30日の夜に郡山まで移動し、弟の家に一泊。31日、弟の車で帰省。
 帰るなり、くしゃみと鼻水という、猫アレルギーが出てひどい有り様となり、1日の夜行で東京へ逃げ帰ってきた。
 まあ、甥っ子に会えたからよしとしよう。

 自宅に帰りついて、先延べになっていた緊急用CD-ROMの製作の実験に入る。
 緊急用途ならDOSに限るよね、という発想だが、やはり色々デバイスドライバを入れると、1.44MBは手狹だ。それならHDイメージブートで……という発想である。
 ここでちょっと欲張って、FAT32区画も見れた方が良いなと思い、DOS6ではなく、Windowsの起動フロッピーを流用する。
 ブートイメージ用HDD区画にSYSコマンドでシステムを転送し、繫ぎ変えて起動……してみるも起動せず。どうやらこのDOSはフロッピーからしか起動しないように細工されているらしい。
 セコい。


2002年1月3日(木曜日)
 秋葉原でウィンドウショッピング(笑)。
 しかし……AthlonでSMPやってもさほど高くならない現実って奴が恐ろしい。
 まあ、B-right/Vは今んとこSMPに対応する予定はない(と思う)ので、SMPにしても無駄といえば無駄なんだけど……。
 しかしある種の「夢」であることも確かなわけで……。

2002年1月4日(金曜日)
 書店で、パソコン関連書籍売り場をうろつく。親父が私用のDBをAccessに乗り換えるらしいのだが、実家にはなんだかよくわからん入門書ばかりが並ぶばかりで、ちゃんとしたRDBの入門解説書もリファレンスもなかったので、適当に見繕ってきた。多少足りないので、もう一日くらい探すことになるだろう。

 Sony、東芝、IBMでOSを共同開発……というニュース。うーん、蒸気の香りがぷんぷんする(笑)。だってSonyの独自OS構想って、これが何度目よ?

 産経新聞に『日本の識字率低いとNYタイムズ紙「60%の刊行物が漫画」』という記事が。ちなみに問題の元記事は「A Wizard of Animation Has Japan Under His Spell」で、読めば判るが、日本のアニメ映画(主として宮崎アニメ)に関する話題。確かに「Comic books account for 60 percent of printed publications in Japan, a reflection of low literacy rates due to the difficulty of learning Japanese characters.」とある(下線づけは私)。ざっと訳すと、「日本では、文字学習の困難さによる低い識字率を反映して、コミック本が全印刷出版物の60%を占める」てな感じであろうか。ただし、literacy ratesを識字率と訳すのが適当なのかどうかについては、私には充分な知識がない。
 一般的には読み書き能力のことなのだが、これが一体何を意味するのか。何しろ、日本語の読み書きという奴は複雑怪奇で、ただ漫然と読み書きできるだけでは「社会」ではヤクタタズ扱いされるようなシロモノである。時候の挨拶から形式を踏んだ手紙文と言われると、私ですら「はて、自署と日付と宛名はどの順番で書くのであったろうか?」と考え込むくらいだ。アーネスト・サトウの方が私より巧いに違いない。何も手紙文に限らず、「若者」の文章作成能力に疑問が呈されること、この数十年来というものだ。読解能力の方にも問題があるらしいが、どちらかというと論理的思考能力に問題がある人の方が多いようなので、単純に言語能力の問題とは言えないようにも思う。
 それはともかく、公式には、日本の識字率はここ数十年常に90%を越えており、世界でもトップクラスである、ことになっている。これは、伝統的に教育熱が高いこと、ほぼ単言語国家であること、文化的に均質度が高いことなどが理由であり、同様の理由で韓国も高い数字を保っている。「日本人は日本語を喋るのが当たり前」などと信じ込んでいる連中だけがこの数字を世界に誇るわけである。僕の従弟は日本国籍を持っているが、母語はポルトガル語で、当然日本語の正規教育を受けておらず、会話と仮名の読解くらいはできるようだが、漢字に関しては恐らく全滅だろう。恐らく彼は日本では数%と思われる「文盲」である。ただし、別に読み書きができないわけではない。彼の母語はポルトガル語なので、当然ポルトガル語はできる。世界各国を見渡すと、単言語国家は案外と少ない。多言語国家ではそもそも識字率を定義するのも一苦労だろう。印度映画の「ムトゥ 踊るマハラジャ」で、村を越えたら文字が読めなくて(ついでに言葉も通じない)困るシーンがあったが、そういう地域では一つの言語を読み書きできたからなんじゃいということにもなりかねない(識字教育に対する効果が比較して小さい)。
 さて、識字率という考え方そのものに疑問を呈しておいて、本題に戻る。
 日本の印刷出版物において、現在コミック類が非常に多いことは事実である。コミックと雑誌は現在の出版界における二大收入源であり、これらのお金が回りまわって出版全体を支えていると言っても過言ではない。また、コミック類の購入層も子供だけではなく、大人、それも30代くらいまでが含まれている。このまま世代交代が進めばサブカルチャーなどと言えなくなる。いや、既に現時点でも、コミックやアニメに対する抵抗感は少なかろう。そもそも私自身、文字表現に対してコミックが同一線上で上下間系を持って語られることに違和感を覚える。これらは映画と文字表現が別物である程に違うものだ。
 ではこのコミック文化を低い識字率が支えているのか、と言われると、どうだろうか、と首を傾げざるを得ない。上に述べたとおり、その内容はともかく、日本国民で日本語が読み書きできない人は殆どいない。新聞の人口比発行部数など、驚異を通り越して異常ですらある。
 確かに、文芸書や哲学書などは、かつてに比して売れなくなってきてはいる。読まれなくなってきている。しかしそれを言えば、雑誌の売り上げだって落ちているし、コミック界だって決して順調とは言えない。出版業界全体が市場規模縮小に喘いでいる。
 坂村先生辺りに言わせれば、これは可処分時間の分捕り合いにおいて選択肢が増えたから、ということになる。本を読むかラヂオでも聴くか…という時代ならともかく、現在はそれこそ何でもアリだ。私のように本を読む時間惜しさにテレビを見ない人間の方が少なかろう。本に割り振られる時間が少なくなれば、自然、手輕に読めるものが選ばれるわけで、それが雑誌やコミックという選択に繫がったのではなかろうか。あくまでも憶測ではあるが。
 最期に、日本語の文字は学習が難しい、という点については、「もっと難しい記述体系は存在し、それですらも使用者が存在する」とだけ書いておく(苦笑)。


2002年1月5日(土曜日)
 なんだか良く分からない裡に終わってしまった土曜日。
 靴屋へ行って靴を買う筈が、店へ行ったら閉まっていた。確か5日からじゃなかったか……? あるいは早仕舞したのか。しょうがないので近くのスーパーで食材類を買い物。
 その後、だらだらとPCの前で作業をしているうちに時間が過ぎ、20時になって同人誌の整理を始める。マイクロカードで目録を作り、配架する。4時間経過しても2/3程しか整理し終わらない。いつになったら終わるやら……。
 超漢字にもRDBが欲しい……。

2002年1月6日(日曜日)
 本屋で、『名探偵・巫弓彦 蘭と韋駄天』(原作:北村薫、漫画:南天佑)を買ってきた。原作に魅かれたわけではなくて、漫画の南天佑さんをコミックガイア時代から知っているから……。
 読んでみたら面白かった。
 浮気調査や人探しなどは一切やらずにバイトで生計を立てる“名探偵”が「名探偵はなるものではありません。ある時、自分がそうであることに気づくのです」という台詞が面白い。しかし、そのあとが嫌だった。「気づいたからには、末路哀れは覚悟の上といわねばなりますまい」
 嫌なセリフだなぁ、おい……。
 一生何にも気づかずに、平穏無事に暮らしたいものだ。

2002年1月7日(月曜日)
 仕事始め。

 某デンパが日記に、さがのあおいの同人誌を買ってきたのは私に薦められたからだと読めるようなことを書いていた。とんでもない言いがかりだ。
 確かに彼に『天国に涙はいらない』を薦めたのは私でありその結果彼は陷ちて塡って狂ったわけだが、それは要するに「これは絶対デンパの好みだ!」という確信に基づく行動であって、別に私が薦めなくてもいづれ彼はどこかであれに出会って陷ちて塡って狂っていたことは疑いない。
 要するに運命が私の形を取っていただけであって、私が彼をして落とし塡め狂わせたのではない。彼が、陷ちて塡って狂ったのだ。
 大体、彼の場合は「知って幸せ」なのだから、なんら問題ないではないか。
 というわけで、今日5巻がでてました>『天国に涙はいらない』


2002年1月8日(火曜日)
 高等学校に新たにできる科目「情報」の学習指導要領なんぞ買ってきて読んでみた。
 なかなかに凄いことが書いてあった。
 普通教科の「情報」は「情報A」「情報B」「情報C」の三つに別れてて—
  • 情報A
     コンピュータや情報通信ネットワークなどの活用を通して、情報を適切に收集・処理・発信するための基礎的な知識と技能を習得させるとともに、情報を主体的に活用しようとする態度を育てる。
  • 情報B
     コンピュータにおける情報の表し方や処理の仕組み、情報社会を支える情報技術の役割や影響を理解させ、問題解決においてコンピュータを効果的に活用するための科学的な考え方や方法を習得させる。
  • 情報C
     情報のディジタル化や情報通信ネットワークの特性を理解させ、表現やコミュニケーションにおいてコンピュータなどを効果的に活用する能力を養うとともに、情報化の進展が社会に及ぼす影響を理解させ、情報社会に参加する上での望ましい態度を育てる。
……という風になってるんです。高校生はこの三つの中からどれか一教科を選択するわけです。
 これ作った連中って一体何を考えてたのか知らないけど、情報Aは単なるコンピュータ教室だし、逆にBとCについてはかなり高度で教えるのが難しい。特にBにある「コンピュータにおける情報の表し方や処理の仕組み」については、こう言っては何だが情報科の大学生でもまともに説明できる人間がどのくらいいるか怪しい。Cの「情報化の進展が社会に及ぼす影響を理解させ」るのも、電信以来の情報伝達技術の歴史を追わないと難しいだろう。社会学的な部分もあるし……。
 著しくバランスを欠いているように思えるが……。教師の方もこれじゃ大変だよ。一人でAとBとCを満遍なくカバーできる教師なんかいるわけないじゃん。

2002年1月9日(水曜日)
 先日、秋葉原で「水冷ケース」を見た。
 ケースの中に水タンクがあり、ビニールパイプを伝ってヒートシンクへ水が伝えられ、最終的に天板に取り付けられたラジエータで冷却されるというシロモノだった。
 確かに、昨今はCPUのみならず、M/B上のコントローラチップやグラフィックチップにもヒートシンクやファンを取り付ける御時世だ。冷媒が空気では追い付かなくなる日もそう遠くはないのかもしれず。
 これをネタに友人と馬鹿話をしていて出てきたネタなのだが、「将来、PCにはメーターがつくかもしれない」
 回転計(クロック)や電圧・電流計、水温計などの各種計器類(当然アナログメーター)がケース前面に並び、稼動常態と連動して動く……というか、それらを見据えながらPCを操る……。
 馬鹿っぽくて凄くイイかも。

 新年早々ビル・ゲイツさまのお言葉。「どこでもWindows」。
 それはきっと、どこにでもCtrlとAltとDelが必要な生活(笑)。


2002年1月10日(木曜日)
 昨日、神保町の八木書店で井之口有一「明治以後の漢字政策」(日本学術振興会,1982)を発見し、購入してくる。井之口有一氏は国語問題研究で知られる国語学者だが、何しろ本が手に入らない。この本も、図書館情報大学に居た頃は大学図書館にあったので平然と利用していたのだが、いざ在野になってみると参照したくても参照できない本の一つだった。
 注文しようにも、すげなく「絶版」の二文字。
 部分的なコピーは持っていたのだが、つい見掛けた瞬間買ってきてしまった。
 この本の何が凄いかというと、第2編・第3編の資料。第2編「各種漢字表字種の比較並びに各種漢字表」や第3編「明治以後の漢字問題・漢字政策に関する文献目録」は、この種の研究をする上では欠かせないものだ。
 ……別にそういう研究をするわけじゃないけど

2002年1月11日(金曜日)
 
 連休は実験ね(笑)。

 「100分の1以下を実現するデータ圧縮の新技術」。本当だとしたらとてつもない技術ではあるのだが……。

 そういえば、明日から


2002年1月12日(土曜日)
 午後から、nyとともに東大総合研究博物館へ赴き、「デジタルミュージアムIII」を鑑賞してくる。
 実にデジタルミュージアムっぽい展示であった。
 どのあたりがデジタルミュージアムっぽかったかというと、例えば反応しない端末があったり、デッドロックしてる端末があったり、LANが切れている端末があったりするところであろう。
 なんか反応しない端末の裏に回ってケースを開け、キーボードとマウスを引っ張り出して再起動なんぞしようとしていたら、坂村先生に見つかって「何やってるんだ!」と怒られる。
 検索端末で検索しようと思ったらかな入力だったのでローマ字入力に切り替える……ためにキオスクモードのBBBをShift + Break! ユーザ環境設定をいじってさっさと元に戻す。この時にeTRONカード認識用のマイクロスクリプトを先に起動してからBBBを立ち上げるのをお忘れなく。これは越塚先生に見とがめられた。
「そんなことしてると関係者立ち入り禁止になりますよ」
 とは越塚先生の弁。
 全体的にちゃっちいのはしょーがないんですけど、使われているPC OSがみんなBTRONだったりするのがよろしいのではないでしょーか。

2002年1月13日(日曜日)
 今日は朝から秋葉原に出かけて、昨日金欠で買えなかった本を買ってきて、家に帰って読みつつ寢たりした。終わり。
 ああ、実験……これからやるか。

2002年1月14日(月曜日)
 昨日の日記を書いてから午前3時くらいまで、超漢字形式CD-ROMを作る実験をしていました。
 結果。実に簡単に成功。
 なぜか同時刻帯にnyちゃんも実験をしていたようですが、こちらも問題なく成功したと報告していました。
 これでバックアップだろーと巨大実身/仮身ネットワークデータの配布だろーとどんとこいですね。
 今んとこ、超漢字から直接焼けないのが、いかんともしがたいところではありますが。

 今日は成人の日だったそうで、街中を着飾った娘さんたちが闊歩してたりしたわけですが、幾ら着飾っていても立ち居振る舞いが……という光景ばかり目に着いてしまったのは残念です。


2002年1月15日(火曜日)
 神保町で搜していた稀覯本を発見してしまい、そのまま散財へと直結する。万の金が本に消えた。
 よくあることではあるが……。
 なんでこう、原価以上の値段がついている古書ってのは……。
 ええい、古本屋も買う方も、価値が分かってやってるんだから始末に負えないぜっ(落涙)。

2002年1月16日(水曜日)
 廃棄されたパソコンから警察の搜査情報が……なんてニュースが流れて、NHKのニュースで「ファイルの削除とは」なんて解説が流れてた。
 うーん。
 僕の世代って、DOSのFATくらいだったらどんな構造になってるか文字通り「身を以って」知ってたりするわけだけど、最近は「魔法の道具」としてお使いの方々が多いですからね。
 別にそれが悪いというつもりはないですよ。技術が一般化していけば、当然起こる事ですから。
 困るのは、その構造を知らないものについて、なぜか非常に不用意になりがちだというだけで。(同じような話はそこらじゅうに転がってて、「迷惑メール防止のために発信人の明記を……」とかもその一例)
 原因と過程をきちんと理解しないで対策だけ講じても良いんですが、それは結局「悪魔の病を祈禱で治した」のレベルでしかないんですよね。
 突き詰めるとスペシャリストって奴がなぜこの世に存在するか、という話に繫がっていく話題ですね。スペシャリストの価値を知るためには自分の知的領域の再確認が必要で、それは結構辛い作業です。

2002年1月17日(木曜日)
 気分は八甲田山。どれが河やら道さえ知れず……ってとこですか(苦笑)

 なんか予定とは違うものができてしまったなぁ


2002年1月18日(金曜日)
 今日は……疲れた……。
 テストベッドのロータリーエンジンみたいに回転してた気がするよ。

 とっとと寢るつもりだったのだが、買ってきた小説やコミックを読みふけっているうちに2時間が経過していた。
 それはともかく。
 ここ数年、「プラネテス」や「ムーンライト・マイル」など近宇宙モノが多くなって私としては嬉しい限りだったんですが、今日見つけてきたのは「ふたつのスピカ」。幽靈とオトモダチな少女が宇宙飛行士を目指す話ですが、ほのぼの系で個人的好みです。


2002年1月19日(土曜日)
 BTRON Clubの日。
 内容については……まあ、言わないでおく。
 πちゃん&きしもとくんと歌ってウサを晴らしておく。
2002年1月20日(日曜日)
 取り立てて理由も無かったのだが、平日と同じような時間に目が覚めてしまった。
 そういうわけで、大した訳もなく(ここ重要)、朝から池袋に向かった。
 サンシャインシティには意味もなく大勢の人間が集合しており、なぜか事前に買ってあったカタログを手に行列の最後尾に。
 かくして決して予定していたわけではなかったのだが、午前中から数時間を、あの電波の坩堝の中で過ごした。

2002年1月21日(月曜日)
 疲労感っつーか徒労感っつーか……。
 うーん……うにょうにょ。
 「まほうのじゅもん」を唱えたら世界の厄介ごとが全部片付くとか、そういうの、ないですかね、ホントに。
2002年1月22日(火曜日)
 なんか、いいこと探しでも始めたい気分ですね。
 置かれている状況を冷靜に判斷したくない感じ。

 携帯機器用の燃料電池が、実用化のメドがついたとかいうニュースを見て思うんですけど、それって燃費の悪いエンジンをどうにかするために燃料タンクをでっかくしましたってカンジで、技術的方向性に間違いがあるんじゃないかって思わなくもないですよ。
 駆動周波数がGHz単位の演算機とか、GB単位の主記憶とか、本当にパーソナルユースに必要なものなのかと、どうしても思ってしまう私はきっとOld timerなんだろうな。


2002年1月23日(水曜日)
 久しぶりに、自分の作った字書と出会う。
 っつーか、「コードから部首とか画数とか引ける字書はないかいな……」なんて思って搜していたら、自分自身の作ったブツにぶつかったという……(爆)。
 自分で作っといてなんですが、便利でした。

 ふと、CDショップで「オホーツクに消ゆ」のCDを見つけて買ってきてしまった。
 あの名作ゲームの登場から、もう15年くらいになるのか?(まさか20年ということはあるまい)
 解くのに半年かかったのを覚えている。
 ソフトはテープで、データレコーダでぴーががぴーががと読み込んでは、ラインアートがちまちまと描かれていく……。
 あの時代を思い起こすと、ゲームに費やせるリソースがそれこそ億倍にも増えたことを実感する。

 そーいえば、「白夜に消えた目撃者」って……。

 デンパ大阪からこれを「何体買う?」と問われたが、へたれ引き籠りオタク少年ぢゃあるまいに、こんなものを相手に語り合う趣味はない。


2002年1月24日(木曜日)
 妙に眠い……。生体サイクルでも狂ったか?

 全体的に、可処分時間の不足が深刻化してきているような……。
 っつーか、文字コードばっかじゃやってらんねー。
 とりあえず笹本祐一の新刊でも読むか。私ってばなんて無趣味な男なんだろう(笑)。


2002年1月25日(金曜日)
 きさらちゃん神奈川工科大学のパワーアシストスーツの話題を紹介していたので、連動企画(笑)。
 パワードスーツ(笑)と言えば、ウォードレスかK2ガーシムか、いや、やっぱり「宇宙の戦士」……などという濃ゆい連中はおいといて、とりもなおさずなぜそんなものが必要なのか、という話からせにゃならん。
 重量物のリフトアップというだけならば、フォークリフトでもクレーンでもいいわけだが、どちらにしてもそのサイズはかなり大きい。最近ではパワーショベルなどはかなり小さくなったが、それだって人間と比べれば遙かに大きい。
 基本的に人間の作った建造物は、人間が行動するのに最も適した構造をしている。最初から運用を想定して設計しない限り、通常の建造物でフォークリフトやガントリークーレンは利用できない。それゆえに、非効率であっても、建造物内での運搬には人力が用いられることになる。カートや台車、背負子といった道具を使うことである程度まで運搬重量を増やすことは可能だが、基本的には人間の筋力がものを言う。一人でどうにもならない場合には、大抵は人数を増やす。
 物理的なサイズの問題であるので、これは容易には解決できない。
 導かれるところ、人間一人当たりの運搬重量を増やすということになる。
 もちろん、筋トレで目指せStr 18でも良いが、たとえ+3修正がついた人間でも限界というものはあり、これを超えるには遺伝子改造でもするしかない。(ちなみに余談ではあるが、ヒトは靈長目真猿亜目に属する動物としては際立って筋力が低い。ゴリラやチンパンジーはいうに及ばず、テナガザルなども体重当たりの筋力は人間を遙かに凌駕する)
 機械の力で人間の筋力を補い増幅し、これを克服しようというのがパワードスーツの基本的な考え方である。
 発想は以上のようなものなのだが、実際となると、人間の体というのは複雑な動きをするので、単純にアクチュエイタをくっつけてどうにかなるものではない。基本となる骨格をよくよく観察するとわかるのだが、一点ヒンジ構造の単純関節など、身体中探しでもどこにもない。関節といえば、全てが軟骨を挾んだ「滑り」を持っており、腱と筋肉で引っ張られて動いていて、複雑なことこの上ない。この動きを妨げないように力を増幅するのは、非常にホネだ。
 かてて加えて、ただ無闇矢鱈に筋力ばかり増幅すると、骨格が受け止められる力を越えてしまい、関節を壞すくらいならまだしも、最悪の場合脱臼・骨折ということにもなりかねない。まあ、生身でもたまに自分の骨格の許容限界を超える力を出せる人間はいるが……。
 こうなると、増幅された筋力を受け止める外骨格も必要となる。これがまた人間の動きを遮らないように配置しなければならず……。
 こうなると、なんで人間の力を増幅せにゃならんのだと言う話になり、人間とほぼ同じサイズのフォークリフトを作ろうだとか、それより人型(あるいは準人型)作業機械の方が良いとかいう話になり、はてさて一体何のためにパワードスーツなんてものを考えたんだっけ、と真剣に悩むことになる。
 やはり最終的には兵器的な用途しかないのかもしれないな>パワードスーツ

 私の場合、修論そのものがBTRONでないと作業不能な代物でしたよ(^^;>Ntakiさん


2002年1月26日(土曜日)
 買い物に行ったら、雪印製品が案外と並んでいて、意外に思った。前回ほどのインパクトがなかったのか、それともヒトは慣れる動物なのか。

 「PS2用のMODチップ販売にSony寄りの判決」という記事。確かに純粹に著作権法的に見れば、MODチップの利用は違法なんでしょうけど……。
 今回のって、どっちかというとリージョンコード外しなのですが、リージョンコードが著作権を守るために存在するのかと言われると、私はかなり「本当かよ……」とか思いますね。あれってどう考えても配給会社の配給戦略のために存在するもので、消費者や著作権者の利益を守るために使われてはいませんから。
 利益を得るべきでない人が不当に利益を得ないようにすることがまず重要なのであって、利益を得るべき人間がより利益を得やすくするのは二の次だと思いますよ。

 早くもOffice XP Service Pack 1ですか。

 そおいえば、今日はFTRONのチャットか。前回はすっかり忘れてたからなぁ。


2002年1月27日(日曜日)
 マイケル・シャーラ「最後の一球」(原題“For Love of the Game”,浅倉久志訳, ハヤカワ文庫)を読んだ。いい作品だった。
 映画化されたらしいから、機会があったら見てみよう。しかし邦題が「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」って、視聴者舐めとんのか?

 夕刻、ちょっと買い物に出かけようと自転車に乗った後、ふらふらと、なんと十条まで走ってしまう。京浜東北線の東十条を越え、埼京線の十条を越え、北区を東西に横切るような大買い物ツアーになってしまった。別に特段の理由はなかった辺りが素晴らしい。
 サイクリングGo Go!

 NHKスペシャルのアフリカ21世紀を視る。なんというか、救いようのない内容だった。

 あー
 なんか気がつくと第2話がDLできるよーになってるし……。(去年の11月くらいかららしい)
 今年は第3話ですか?


2002年1月28日(月曜日)
 「シーラカンスは四億年!」(意味不明)
 “Coelacanth”を「しーらかんす」って読める人、誰か居ます? 少なくとも私は駄目です(笑)。
 しかし世の中奇特な人って多いです。そのうちシーラカンス漫画とか出そうですな。(三葉虫マンガがあるくらいだからねぇ)

 総務省の「迷惑メールへの対応の在り方に関する研究会」の中間取りまとめが先日公表されてました。とりあえずざっと目を通して見たんですが、決め手に欠く、って印象ですね。
 まあ、そうそう簡単に取り締まれても困るんですが。特に、技術的な側面からは、根本対処不能な問題であるだけに、愼重であって欲しいものです。法律や規制を作るのは簡単ですが、それが悪夢となるのは意外と簡単ですから。
 しかし一日9.5億通のうち、8億通が「存在しないアドレスへのメール」だというのは、いささかならず行き過ぎですね。
 かつて、チャールズ・バベッジは、郵便物が距離によって料金が違っていた時代、その料金を判別するための労働コストが郵便料金を上回ることを証明し、一律料金制の確立に貢献したそうですが(もちろん、階差機関を設計した、あのバベッジである)、同じように誰かがきちんと証明するしかないんでしょうな。ムダなe-mailを出す広告効果は、ラジオCM一本に費用対効果で劣る、とかね。
(世の中経済原理で動いているので、純技術的対処が不可能ならば、経済的対処が最もた易いし効果も高い)


2002年1月29日(火曜日)
 大橋巨泉氏が議員を辞めることについてはなんらの痛痒も感じないが、繰り上げでツルネン氏が当選するというのであれば感謝の一つもせねばなるまいか。

 新年早々だったと思うが、NHKの「その時歴史が動いた」で日本を動かした15人とかいう特集を組んでいて、一位が織田信長だった。
 別にそのこと自体にとやかくいうわけではない。一位かどうかはともかく、織田信長が日本史上に屹立する偉人であることに異論はない。
 しかし、織田信長を偉人として認めるのは結構だが、決して見習ったり、間違っても再来を期待したりしてはいけないと思う。副作用の大きすぎる劇藥系の治療藥みたいなものだ。
 織田信長の覇業の陰で犠牲になった人間の数を考えれば(もちろんそれは彼の覇業に必要な犠牲であったとは思うものの)、彼のような覇業を望むのは間違っていると強く思う。
 政治は、あのような傑物を必要としないことを目指すべきだ。


2002年1月30日(水曜日)
 今週末はイベントが目白押しですな。
 私的には、H-IIA 2号機ROBO-ONEですかね。nyは蒼月祭だそうですが。

 そういえば高機動全方位毒電波送出裝置が、「辣韮の皮」と「まにぃロード」を読んで、「自分とは比べようも無い」と豪語していた。流石である。

 外務大臣が更迭されたそうで。
 遅きに失した感はありますな。
 今でこそ、外国へ渡ることが容易になり、48時間以内に世界のどの国にも行けるようになってはおりますが、かつて何ヶ月もかけないと遠国へと赴けなかった時代には、外相の地位は首相に次ぐものであり、大使とは国の出先として国の権力と名誉を当地に於いて一身に負う職であった。
 不思議なくらいナショナリズムが希薄なこの国では、外交というものの重要性が低く見られがちなようで、どうもその職責を全うすることのできない人に職権を与えることが多いように思う。後任を取り沙汰されている方は、私の見るところ、適性が違う方向を向いているように思う。
 国の方針を、あたかも自分の信念であるかの如く、堂々と主張できる大嘘吐きが望ましいのだが?


2002年1月31日(木曜日)
 「ROBO-ONEに先行者」!!
 これはもう、行かねばならぬということか!?
 なんでも来月14日には、ASIMOニューヨーク証券取引所のOpening Bellを鳴らすという話。しかしあの手で大丈夫なんか? ASIMOの手は何かを握って保持できるようには作ってなくて、ただ指が開いたり閉じたりするだけなんだけど……。