哀愁日記
底に哀はあるの。

もしくは、

「常識日記 文科系的日常」


西紀2011年1月分

Caution!

このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクト、パーソナルメディア社、並びにYRPユビキタス・ネットワーキング研究所は関与しておりません。
守秘義務の関係上、伏せ字になっている箇所があります。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

2011年1月1日(土曜日)
 てっきり日曜日始まりかと思ってたら、土曜日始まりだったのね。
 明けましておめでとうございます。
 今年が日本にとって良い年でありますように。
 ……。
 いや、本当に、洒落にならないくらい、切実に。

 森永卓郎ってのは真性の気違いだな。
 正月早々、碌でも無いもの読まされたわ。
 天皇陛下のために死ねというのも、憲法9条のために死ねというのも、本質的には全く同じだ。対象が違うだけに過ぎない。
 私はこういう連中を大日本帝国の残党と呼んでいるわけだが、ある種の詐欺なので犯罪として取り締まれないものかと思うことがある。


2011年1月2日(日曜日)
 年末年始はNHKの特番の再放送などが目白押しで、ついつい視聴時間も伸びてしまうのだが、本放送時に見なかった番組を見かけたりする。
 で、ふとTVを点けたら松岡正剛が映っていたのだが、なにやら世界遺産関連の番組らしい。
 見るともなく数分間流していたのだが、文明史の捉え方が気になった。
 「楽園思想」とでも言うのか、古代社会には現代人類が亡くした素朴で平和な優しい社会があった、的思想が通底しているように思えて、胸糞悪い。この手の原始社会礼賛はマルクス史観に基づく場合が多いのだが、言われてみれば番組には松岡正剛が出ている。さもありなん。
 別に詩吟や文学ならそれでも一向に構わない。私だって陶淵明は大好きだ。しかし、ドキュメンタリでやったら駄目だろう。
 ネアンデルタール人が戦争のない暮らしをしていた、とかなら、百歩くらい譲ってもよいが、ホモ・サピエンス種の社会が戦争や諍い、争いと無縁であったと考えるのは無理がある。何しろ我々と生物種的に同一種なのであるから、彼らの集団性と好戦性については疑いを差し挾む余地が無い。
 かつては戦争は農耕と共に始まった、と教える教科書もあったが、実際のところ縄文時代からも殺傷痕のある集団人骨は出てきているし、イタリア‐オーストリア国境で発見されたエッツィ(アイスマン)も殺害死が有力視されている。どっちも狩猟採集社会での殺人事例で、戦争か否かについては「戦争」の定義の問題ではあるが、少なくとも集団的な殺人が起こる程度には殺伐とした社会であったことが窺える。
 有史以降となれば、あとは歴史が語る通りである。
 となれば、まずはいかなる文明圏であろうとも戦争や鬪争があった、という前提で物事を見る方が余程蓋然性が高いことになる。そしてそれらの争いの根源は、文明ではなく、我々の生物としての根源の部分に存在する可能性が極めて高い。
 学習や教育は、それらを自覚し、自らを律するためにあるのではないかと私は思うのだ。
 ああいう番組を臆面も無く作る手合いってのは、一体どういう教育を受けてきたんだろうねぇ。

2011年1月3日(月曜日)
 明日から仕事か。やれやれ。
 休みの記憶といえば、前半は石に悩まされた記憶しかない。なんか長い休みが来ると結石が襲ってくるってのは、精神的なものでも絡んでるのかなぁ。移動量、歩行量が絡んでいるのか。

2011年1月4日(火曜日)
 年始にNHK BS1で放送された「歴史学者 J.ダワーが語る“アメリカ テロとの戦い”」が面白かった。
 ジョン・ダワーと言えば私の尊敬する歴史学者にして「容赦なき戦争」を書いたどうしようもない歴史学者。今回も彼の実も蓋もなさが冴え渡っていた。ただ、その矛先が米国にしか向いていなかったのが残念。彼に全方位無差別に舌鋒を振るわせれば、世界の全てを敵に回せるというのに。
 興味深かったのが、「アメリカのメディアでは『アメリカのナショナリズム』という言葉は禁句。『愛国主義』と言わなければならない」(うろ覚え)って発言。実際にnews.google.comあたりで検索してみると、ヒット数は非常に少ない。
 面白いものだな。
 どこの国にも、どこの社会にも、法に規定されない禁句や禁忌と言ったものはあり、それ自体は否定すべきものでもないが、自覚的であるかどうかは問われるだろう。ダワー教授によれば、どうも米国人は無自覚的であるようだけれど。
 あと、NYでのモスク建設反対運動やってる女性の発言は酷かった。テロリストとムスリムを等号で結びつける思考回路が……。そして、テロと真珠湾攻撃を比較する発言が。
 ダワー教授も番組中で言及していたけど、9.11と真珠湾攻撃を結びつける印象操作は、アメリカが9.11後にやった最悪の行為の一つだね。
 日本国民全体が真珠湾の責任を負わせられるのはある意味致し方ない。あれは日本という国家が行った戦争行為であり国民である以上その責任から逃れられはしない。しかし、9.11という「テロ」の責任をムスリム全員に押し付けるのは明らかに不当だ。

 琉球新報が「「ざんき絶えない思い」 菅首相、沖縄の米軍基地集中に」として首相の年頭会見の質疑応答の一部分を拔粋し中心に据えて報じていたんだけど、報道としてこういう報じ方ってアリなのかね?
 それはともかく、極東の安全保障のことを考えれば沖縄に基地が集中するのは地理的に已むを得ない。沖縄の基地負担の軽減は考えていかねばならないことだが、限度がある。
 沖縄の基地負担を大幅に減らすためには、①中国が民主化する②台湾が平和裡に独立する③沖縄の地理的位置が移動する、くらいの変化が必要になる。しかし、①〜③の実現可能性を考えうると、沖縄を小笠原の辺りまで動かすか、空に浮かべる方法を考えた方が良いかも知れない。


2011年1月5日(水曜日)
 新しい席のPCの置き場所がしっくり来なかったので、一度バラして再設置。マルチモニタのせいでケーブルが多い。DVIはケーブルも太いし。なるほど、DisplayPortでディジーチェーンなんて考える奴が出るわけだ。
 とはいえ、VGAが用途を減らしていき、DVIが主流となるまで隨分かかったわけで、DPが主流になるまで何年かかるかわからんけどな。

 大変残念な状態におちいっている金星探査機「あかつき」ですが、小惑星に寄り道を検討したり、逆に減速をかけて金星に追いつかせるプランが出たりと、運用も大変そうです。
 いっそ、あかつきはこのまま実験機にしてしまって、手持ちにあるあかつきの為の予備機材でもう一機金星探査機を仕立て上げて射上げた方が良いのではないかと思うな。


2011年1月6日(木曜日)
 ようやく新しい席にも慣れてきたわけだが、未だに慣れずに昔の席付近へ半自動行動してくる変な人もいる。

 最近話題の中国のステルス試作機、殲-20。
 キャノピー内の人間の頭の大きさから見て機体が大きいなと思っていたら、en.wikipediaによると全長が推定で23m、翼幅14m以上とか、なんじゃそりゃ。戦鬪機のサイズじゃねぇぞ。
 この世界には二乗三乗則というものがあって、スケールに対して面積は二乗で、体積(=重量)は三乗で増えていきます。飛行機の場合、空を飛ぶ都合上少しでも軽くしたい、特に戦鬪機であれば挌鬪性能を確保するために推力重量比を稼ぎたいのに、機体が大きくなればそれだけ重量は三乗則で増えてしまい、より強力なエンジンが必要になるという悪循環に陥ります。(当たり前だがエンジン自体にも二乗三乗則は適用される
 つまりこの殲-20とかいう機体が真実戦鬪機であるとするならば、F-22より2割程度大きな機体をぶん回し得るチョー強力なエンジンが積んであるか、あるいは未知の技術によって羽毛のように軽い素材でも使っているのか、どちらかでしょうな。もしくは、物理法則の裏をかく手段でも見つけたか。
 機体サイズが大きくなれば純然たるレーダ反射面積では不利ですので、技術的限界からあれ以上コンパクトに作ることができなかったのか、あるいは他の意図があってあのサイズなのか。今のところ判断は付きませんね。
 ただ、中国の用兵上の要求としてステルス性を有した戦術爆撃機というものは、台湾侵攻を考えればあってもおかしくないので、戦術爆撃機としてあのサイズが選択された可能性は多少考慮しておいても良いかな、と。
 もっとも、戦術爆撃機だとすると、別にあんな戦鬪機然とした姿をしていなくても良い(B-2とかF-117みたいな形でも良い)わけで、ステルス性には不利とされるカナードの採用など、今の段階では「色んな航空技術を詰め込んで飛ばしてみる実験機」だと考えるのが無難だろうかね。というわけで、恐らくこの機体は実験機であり、もしこのまま開発が推移したとしても、完成するのは戦術爆撃機だろう、ってところかな。
 あ、勿論日本の軍拡のための理由付けとして殲-20が脅威であることを確信犯的に主張する分には構わないと思いますけどね!


2011年1月7日(金曜日)
 米ラスベガスで開催中のInternational CESにSonyが出品しているHMDがカッコイイ
 ラ・フォージ少佐!(笑)
 これ、CONTOUR HDみたいなカメラと連携させて、メガネの代わりに使えないだろうか、とか。んで、始終ずっと録画しっぱなし(笑)。
 そんな人が街を歩いていたら、後ろ指差しますよね、絶対!(爆)

2011年1月8日(土曜日)
 自転車乗ったら寒いのなんのって……。
 真冬用の装備だったんだけどな、一応。
 インフルが怖いので、人が集まるところにはいかないようにしよう。

2011年1月9日(日曜日)
 NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道」は、耳の痛い内容だったなぁ。
 番組は滿洲事変以後を中心に採り上げていたけど、実際のところ日本の外交内政の迷走は日露戦争後から始まっていて、その原因の一つは、番組中にもあったように、元老の力の衰退だった。とはいえ、元老という存在自体は明治維新の遺産であり、憲法外機関という、法治国家には相応しからざるものであり、元老は自ら望んで自らを消滅させている。恐らく、国の制度が整い、憲政が軌道に乗った以上、非常機関としての役割は終えたと、西園寺などは思っていたのだろう。
 しかるに、実際の憲政がどうなったかといえば、政敵を逐い落とすためなら何をやっても許されるような風潮が蔓延り、政治腐敗は留まるところを知らず、内閣は国民の支持を得るために汲々とする、風見鷄のような政治が繰り返された。
 このような状況下で醸成された政治不信の中で、軍は独断専行し、官僚は打開策を模索し、政治家は状況に合わせて右往左往する。そして昭和天皇は天皇機関説の支持者であり、自らの意思を示すことを自制していた。
 この強烈なまでの無責任体質は外交を分裂させてしまい、外国から見た日本を信頼するに能わざる国としてしまったわけだ。
 当時とは役者は違うものの、似たような傾向は現代にも見られるわけだが、結局のところ、有権者が充分に優秀な人間を政治に送り込めないという、困った問題が根底にあるような気がしてならない。どうすればいいんだろうか。

 シンセージンが暴れる季節ですが、「成人式「羽織、はかまなら刀模造刀所持し逮捕」というニュースを見て頭痛が。
 刀を差したかったら、裃くらい着ろよな。
 紋付袴って武士にとっては略装なので、礼式として着るものじゃない。商人(町人)にとっては礼装だけどね。礼装として紋付袴を着るのは、どっちかというと町人なんですな。なので「紋付袴なら刀」という発想が既に間違っているという……。
 勿論、紋付袴を平服として着ているのであれば、腰に刀を差していても構いませんが、その場合も二本差しでないとこれまた間違いになります。記事を見る限り、一本しか持っていなかったようなので、これまた間違いです。
 よく誤解されますが、江戸時代に武士にしか認められなかったのは、大小二本の刀を差すことなんです。「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんも腰に脇差を差して(竹光ですが)旅しているように、腰に一本を差すのは武士でなくとも認められます。
 あと、袴を常用できるのも武士の特権ですね。庶民は礼装する場合にのみ許されました。ちなみに、葬式に限り裃の着用が下々にも認められた地域もありまして、私の田舎、富山の一地域では現在でも葬式の喪主が白の裃を礼服の上に着用する文化が残っていたりします。
 ともあれ、実は江戸時代というのは身分によって服装規定が事細かく定められており、特に武士とそれ以外、そして武士の間は服装によって区別することができたのです。(というか、それが目的だった) 他にも、髷の結い方にも身分差があったりして、装いとはすなわち身分であった時代がかつてはあったわけです。
 江戸時代に身分制度の面白さは、これら事細かな身分差があるにも拘らず、それらが一直線の上下関係を形成せず、階級鬪争を生み出さなかったことなのですが、その辺はまた機会があれば。


2011年1月10日(月曜日)
 寒い一日だった。
 冬眠したい……。

2011年1月11日(火曜日)
 ロイター「M・トウェイン代表作から差別語削除、改訂版が物議醸す、 CNN「マーク・トウェインの冒険小説に差別語削除の新版と、実に不毛な言葉狩りの話題。
 背景がややこしいのですが。
 日本では余り知られていませんが、米国では禁書運動が常に一定の力を持っていて、比較的最近では「ハリー・ポッター」シリーズが魔術を奨励しているというので禁書運動の槍玉に上がったことがあります。そうった禁書運動(もしくは悪書追放運動)の対象として、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」は、ALA(全米図書館協会)の「100 most frequently challenged books: 1990–1999(1990年代で最も迫害された100冊)」の第5位、「Top 100 Banned/Challenged Books: 2000-2009(2000-2009年で最も迫害された100冊)」の14位と全米で非常に禁書対象とされやすい本の一つです。「ハックルベリー・フィンの冒険」はその中に人種差別や職業差別がバリバリ出てくるため、好ましからざる表現のオンパレードとなり、結果として学校での教材として使われ難い状況が出来上がってしまっていました。
 今回改訂版の監修を担当したAuburn UniversityDr. Alan Gribbenはマーク・トウェインの研究者であり、その道の大家とされる人です。その人が作品を台無しにしようと企図して安易な言葉狩りを行うとは考えにくいので、恐らくは記事にあるように、不適切な語を置き換えることによって学校教材への利用をしやすくし、作品への接触機会を増やしたいと思ってのことではないかと推察されます。
 しかし、良かれと思っていたとしても、これはどんなもんかね……。
 正道は、ALAが毎年設けている「禁書週間」のように、正面から禁書運動に対抗することだと私は思います。
 差別や偏見といったものは言葉を置き換えれば済む問題ではありませんし、また過去にあった差別や偏見、あるいは身分差といったものが消し去れるものでもありません。
 マーク・トウェイン作品への窓口を増やしたいという気持ちも分からなくはないのですが、やっぱりそれは良くない方策のような気がします。

 ロシア人がメチルアルコールだって構わずに飮む程酒好きなのは好く知られているですが、歯舞群島で酒盛りして4名死亡とかいうニュースが。
 しかしよく考えると、23名がメチルアルコールを飮み、4名が死亡し15名が救急搬送されということは、救急搬送の必要すらなかったロシア人が4名いたという計算になってしまうのですが、やはりロシア人のアルコール分解能力の進化は着々と進んでいるのでしょうか。


2011年1月12日(水曜日)
 πちゃんから「今年はフランスの冬だよりはなかったのか?」と訊かれた。
 そう言えば日記のネタにしていなかったが、無論、文化と伝統を愛するフランス人がこの催事を中止するわけもなく、今年も大晦日から元日にかけてフランスでは路上の車に火が放たれ、少なくとも350台が燃え、500人以上が勾留されたそうな。報道においては「no major security incidents」とされており、大きな事故もなく“聖シルベストルの火祭り”は恙無く挙行されたことが報じられていた。
 ただ、寒波のせいか、今年は規模が大幅に縮小されたようで、日本語での報道がなく、聖シルベストルの火祭りを心待ちにしていた多くの日本人に失望を与えたことは特記すべきことだろう。

2011年1月13日(木曜日)
 今年で第4回となる外務省主宰の国際漫画賞の受賞作が発表されたのですが、大賞の作品「Si loin et si proche…」の国際具合が凄いな、と。中国人漫画家がベルギーでフランス語の作品を発表するとか、一体どういう繋がりが?と気にならんでもない。
 それより作品を読んでみたいと思ったりするわけだが、流石にフランス語はよう分からんのでなぁ。

 中国外交官が「日本も空母持っていた。なぜ中国ばかりとヤる気満々な発言。
 戦前の日本が空母を以て何をやったかまで考えると、中国が目指しているのは、結局は20世紀前半的な覇権国家なんでしょうな。
 この21世紀に実に迷惑な存在ですな。


2011年1月14日(金曜日)
 菅首相が内閣改造を実施。
 ……というより、問責食らった人を変えただけ。元より大幅な内閣改造などできようはずもなく。

 web漢文大系、か。
 底本が分からないのが難点だけど、読書として読む分には充分かな。


2011年1月15日(土曜日)
 いきなり江田五月法相が死刑執行について「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はすると爆弾発言。
 いつか死ぬんだから殺さなくてもいい、というのは、いつか死ぬんだから今殺しても良い、のと意見として等価じゃないですかね?
 仏教的無常観としてそういう話をするのであればともかく、法相としての義務の遂行を問われているのにその答えはないですな。
 他にも「もともと人間はいつかは命を失う存在だから更生を急ぐことはないんじゃないか」とか、色んなバリエーションが考えられます。
 どうもこの内閣も短命に終わりそうですな。

2011年1月16日(日曜日)
 NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第2回 巨大組織“陸軍” 暴走のメカニズム」。
 元老山縣有朋支配からの脱却を目論んだ一夕会が、結局の所は山県の足元にも及ばなかった、という身も蓋もない内容。
 ところで一夕会が皇道派と統制派に分かれて相争った終着点である二・二六事件について言及がなかったのが不思議。まあ、本題じゃなかったと言われればそこまでなんだが。

 戦争関連といえば、土曜日にNHK教育でやっていた「Q〜わたしの思考探究〜 なぜ戦争はなくならないのか」が案外面白かった。
 自らの体験を元に反戦を訴えるサヘル・ローズの薄っぺらい話に終始するかと思いきや、伊勢﨑賢治の誘導でいかに戦争の根絶が難しいか(あるいはいかに簡単に戦争は起こるか)を平易に説明していて、為になる話だった。
 実のところ、失敗国家ランキングでも見ればわかるように世界には国が大凡200程もあります(国連加盟国193、その他含めて大体200)が、そのうち177箇国を評価すれば、失敗国家の指数が60を超える国が130箇国以上あったりするわけです。ランキング98位のメキシコでは、政府の統治が行き届かず、犯罪組織が警察や軍といい勝負をしていて、先日も警察署長が誘拐されて行方不明とかいうニュースが飛び交っていたくらい。113位のブラジルでも、一昨年だったか、軍と犯罪組織が市街戦をやらかしていたっけ。121位のチュニジアは、先日政権が崩壊しましたな。
 我が日本は164位。最近の政情不安が響きましたかな。


2011年1月17日(月曜日)
 ロボットメーカのZMPが、RoboCar MEVを発表。
 制御技術としては凄いんだけど、既存のミニカーを流用した車体はいただけないなー。やはりもっと斬新なデザインを求めたいところ。たとえば、動的にバランスを取っていないと立っていられないような車とか(おい)。

2011年1月18日(火曜日)
 「通信情報相:ロシアではネット規制しないとかあって、やっぱり中国よりはロシアの方がまだ話が通じそうなんだよな、と。
 尤も、ロシアの場合は単に、中国のような大掛かりな検閲システムを構築するより発信者を速やかに「処理」する方が簡単だ、と考えているだけじゃないかという気もするけど。

 日本では中国の軍事的脅威が新聞紙面をも賑わすようになってきましたが、中国では「武器大幅輸出すれば、日本は世界の艦艇市場でシェア60%と、日本の脅威が相変わらず誇張して報じられているようです。
 日本の兵器が海外に売れるか、という点については、そりゃ売れるものもあるでしょうが、多くの兵器はその特殊性によって、販路が限られると思います。(参考1,2
 記事には艦艇市場で60%とか勇ましいことが書いてありますが、たとえば日本の護衛艦は通常、機関を前後左右に分散配置しています。煙突が二本、前後に配置されているのはこのためです。このような配置は生存性には有利とされますが、機関室が複数になり吸排気路も複数系統になるなど船体構造が複雑化し、かつプロペラを駆動する軸が左右で不等長になるなどのデメリットがあるため、艦の価格が高くなることを嫌って採用されない事例が多々見られます。とりわけ、費用対效果を重視する場合は。韓国のチュンムゴン・イ・スンシン級などは典型ですね。
 日本では、太平洋戦争の戦訓から艦の生存性を追求する傾向があり、結果として同クラスの艦艇としては高価に仕上がる傾向があります。無論、それが評価されれば良いのですが、そうでないケースもあるでしょう。
 兵器というものはそれ単体での性能より、その兵器をどの様な戦術で、どの様な戦略に於いて用いるかがより重要でして、そういった戦略戦術はその国の置かれた地理的、政治的条件によって左右されます。従って、世界的に観ると絶滅した兵器であっても日本では現役どころか新型が作られたり、逆に世界的には広く普及していても日本では全く使われていなかったりといった現象が起こります。これはどこの国でも大なり小なり起こりますが、日本は置かれている地理的・政治的条件が特殊であるため、その傾向が顕著に見られます。
 このことから、日本の兵器を単純に輸出しようとしても、そう簡単には行かないだろうな、と予想されるところなのです。

 西ミシガン大学ジェフリー・アングルス先生が、米国で日本語を学ぶ学生のために本の寄付を求めているのですが、少女漫画(BL漫画も含めて):大歓迎です。とか、学生層の偏りが懸念されるよーなしないよーな。
 うちになんか良さそうな本ってあるかなぁ?


2011年1月19日(水曜日)
 昨日、「最高裁、「まねきTV」訴訟で著作権侵害を認定、審理を知財高裁に差し戻し」ってニュースが飛び込んできて、すぐに最高裁サイトを見に行ったけどまだ判決が載ってなくて、週末くらいかなぁと思っていたら、もう載ってた。いい時代になったなぁ。最近、有料の判例検索サービス全然使ってないや。
 ともあれ、判決文を読む限り、事前に予想していたような、カラオケ法理ロケフリのハウジングによる送信に援用したのではなかった。
 自動公衆送信は,公衆送信の一態様であり(同項9号の4),公衆送信は,送信 の主体からみて公衆によって直接受信されることを目的とする送信をいう(同項7 号の2)ところ,著作権法が送信可能化を規制の対象となる行為として規定した趣 旨,目的は,公衆送信のうち,公衆からの求めに応じ自動的に行う送信(後に自動 公衆送信として定義規定が置かれたもの)が既に規制の対象とされていた状況の下 で,現に自動公衆送信が行われるに至る前の準備段階の行為を規制することにあ る。このことからすれば,公衆の用に供されている電気通信回線に接続することに より,当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能 を有する装置は,これがあらかじめ設定された単一の機器宛てに送信する機能しか 有しない場合であっても,当該装置を用いて行われる送信が自動公衆送信であると いえるときは,自動公衆送信装置に当たるというべきである。
 つまり、相手が特定される通信であっても、インターネットに繋がっていれば公衆送信であると。
 うーん……。これを公衆送信と認めてしまうと、インターネット上の通信は(VPNなども含めて)全部公衆送信であると見做せてしまうような。たとえばIP電話も公衆送信であるということになりませんかね。ちょっと、これは技術的な面をすっ飛ばした法解釈だと思うな。
 というか、ネット上のストレージサービスに自炊データを置いている人は、アウトにならね? だって、最高裁判例に即する限りインターネットに繋がったストレージは、相手が特定個人であっても公衆送信装置ってことになるから、ストレージの物理的な機械部分の所有権を持っていないと、私的利用を主張できない。

 朝日新聞に次期ロケット“H-3”の記事があったんですが、ひどい内容だな、こりゃ。
 東山正宜記者って、自らも天文blog運営している程度には知識がある筈なんだが……。
 これまで日本の宇宙探査機が小型だったのはΜ-Vロケットを使って打ち上げていたためで、Μ-Vロケットが廃止された今、宇宙探査機の大きさを制約しているのはどちらかと言えば衛星バスの問題です。むしろH-IIAでの射上げを考えると、500kg程度という現在の重量は軽すぎでして、“あかつき”の射上げに際してはバラスト(錘)を積むか、とまで言われていました。(代わりにイカロスが急遽仕立て上げられて、同時に射上げられたのですが)
 射上げ費用の問題はあるのですが、この通り、宇宙探査機の重量問題はH-3とは直接的には関係がありません。また、射上げ方向の自由度についても、H-IIAの二段目ロケットであるLE-5Bの再々着火運用が実現すれば、解決可能な問題と考えられます。
 また、有人射上げのロケットに固体燃料ロケットを避けるのは、爆発安全性よりもアボートシステムの問題が大きく絡んでいます。スペースシャトルのようにそもそもアボートシステムがない有人宇宙機は論外として、人間を載せたロケットでは飛行経路の全域で安全に脱出できることが求められますが、現用のH-IIA/Bは固体燃料ロケットを使った大きな初期加速のため、安全なアボートシステムの構築が困難です。アボートシステムには高加速度が得られるよう固体燃料ロケットを使うのが普通ですので(なので三段目をアボートロケットにというのも間違い)、ロケット全体の加速度がそれ以下でないと安全に脱出できないわけですね。
 人工衛星などの無人ペイロードの射上げであれば別にアボートは考える必要ないので、重力や空気抵抗による損失を小さく抑えるためにも高加速度で一気に大気圏を突破してしまった方が経済的なのですが、有人となるとそうはいかなくなります。しかし低加速度で低い高度で飛ぶということは、それだけ各種損失が大きくなる訳ですから、大推力でかつ効率の良いエンジンが一段目に求められます。
 そしてそのエンジンが“H2Aの2段目と同じ形式のエンジン”とか書かれています。噓じゃないにしても「新規開発の」と付け加えないとLE-5Cではないかと誤読する罠。これは現在研究開発中のLE-Xのことでエキスパンダーブリード・サイクルを使った推力130〜140tfのエンジンのことで、二段燃焼サイクルを採用した現用のLE-7Aの推力が112.0tf(1,079kN)なので、実現すれば日本のロケットエンジン史上最強のLOX-LH2エンジンになります。というか、このくらいの推力がないと、固体燃料ロケット無しで上がっていくのは難しい。一度確立した二段燃焼サイクルを捨ててエキスパンダーブリード・サイクルに戻すことを不安視する声ならありますが、1段目に小さめのエンジンを複数使うというのは、明らかに記者の間違いです。
 しかもこれらの情報は既に何年も前から公開されてきている内容で、何一つ新味がありません。
 総じて、この記事は訳の分からない内容になってしまっています。

 asahi.comだけじゃないけど、web上に記事を載せる新聞社は、「これはすごい」「これはひどい」ボタンを記事に付ければいいのにと思わなくもない。そうすれば記事の品質についてのフィードバックが得られるのにね。
 というか、日本の新聞社/通信社って、記事の品質を上げる努力って、してるのかね。
 全くしていないとは思わないのだけれど、充分ではないと思える節が多々見られます。

 判例では

  1. 特定単数としか通信できない機器でも、インターネットに繋がっていれば自動公衆送信装置たりえる
  2. 自動公衆送信装置の送信者は情報の継続的な入力者
  3. 情報の入力者は永野商店
  4. 永野商店は誰とでも契約できるので通信相手は不特定多数である
  5. よって永野商店は公衆送信可能化権を侵害している
という理屈になっていると僕は読んだ。
 よって、例え入力者と受信者同一であったとしても、途中に自動公衆送信装置が挾まってしまう。
 ただし、公衆送信は「送信者から見て公衆」という定義なので、情報の入力者と受信者が常に同一であることが保証できる場合に於いては、公衆送信に当たらない可能性がある。でも共有されているとアウト。というか、これ循環定義……。
 なので、完全にシロにするには、シェアリングせずに独立したストレージを法的に所有した上で、常に個人で使用していることが保証できる状態に置く必要がある、と僕は解釈した。

 5分くらいで見直したんだが……。(^^;>書き換わった
 文章が冗長で焦点がぼやけてるなと思ったので箇条書きで整理しなおしてみた。
 装置が特定個人としか通信できないことを以て自動公衆送信装置ではない、と判断することはできない、というのが最高裁判決の一番のキモなんだろうけど、じゃあどうやったらシロなんだよ?という点については答えていないんだろうな、これ。
 しかし、複数台の物理的なハードウェアの上に複数台の仮想マシンを構築して、共有されたiSCSIストレージにデータが格納されていたら、最早何をもって装置と呼ぶかという所から訳のわからない状態になるなー。
 今回のロケフリは一人一台なので間違いなく一対一の通信なのだけど、ストレージサービスは通常、一台のサーバを複数人で共有している(ハズだ)。末端ユーザから見れば一対一で通信しているように見えても、実際にはサーバは一対多の通信をしていることになる。
 過去の判例では電磁気的な記録が納められた物理的なハードディスクが媒体とされたので、一つの物理的媒体の上に複数利用者のデータが展開されていると、ヤバいってのは間違いなさそうなところなんだけど。


2011年1月20日(木曜日)
 大寒。
 朝、余りの寒さに、布団から出たくなくなって、思わず仕事休んでしまおうかとか思ってしまった。

 昨日のH-3ロケットの話題は良いまとめがあった。LE-Xは死亡フラグ、という結論が……。

 漢字検定大会で299点取って2位、とかいう記事があって、じゃあ一位は満点だったのか……と啞然とする。
 漢字検定大会は漢検とは違う団体による試験で、60分300問のタイムアタック。点数に応じて博士、名人、参段、弐段、初段が貰えるのだが、博士は285点以上。
 平均一問12秒で解いていかないといけないのに、その上満点って、人間か、そいつ?

 サンコーレアモノショップから、キーボード一体型PCとか。
 RCAコンポジット画像出力端子があるなどツッコミどころ満載の機械だが、RS232Cが標準装備など、一体どこら辺の層を狙っているのか問い質したい。小一時間問い質したい。

 手元のUnicode 6.0CodeCharts.pdfの1289〜1290ページ、U+20534からU+20539までについて、私の目には明らかに間違って見えるんだが、エラッタは出ていないっぽい。
 報告しとくか……。

 ロケフリが駄目なら、録画機はもっと駄目だろうなぁ。


2011年1月21日(金曜日)
 ロシアが船型原発なら、俺達は海底原発だ!
 ……と、張り合ったのか知りませんが、フランスがまた突飛な計画を。流石、海底二万里の作者ジューヌ・ベルヌを生んだ土地だけはあります。何のために海底なのか、さっぱり分かりません。
 常識的に考えれば、海底に原発を作るとなると、どうしても水圧に耐えるための耐圧殼が必要となりますし、人手による補修が必要になった場合も出入りが困難です。
 一方で周囲を全て海水で満たされていることによるメリットはさほどありません。まさか放射線の遮蔽材として海水を利用しようと言う発想ではないと信じたいところなので、「見えないところに隠せる」ことがメリットなのでしょうか。
 もう一つ、案外重要な点なのですが、ロシアの船型原発は電力だけではなく、真水と、暖房用スチームの供給を行うことになっています。まあ、原発というのは構造上お湯を沸かしますので、蒸気ならいくらでも出せますわな(細かいことは気にしない)。当然復水器を通せば水になるわけです。

 世の中には「やってみなくちゃわからない」をキャッチフレーズにしている番組もありますが、科学実験なら失敗しても被害は大したことがない(ことが多い)のですが、政治でそれをやれば社会全体が大迷惑を蒙るわけです。
 ですから、やらなくても事前の検討で失敗することが自明なことは、実行に移さない賢さが求められます。
 今更「首相、事務次官に協力要請 「運営に行き過ぎあった」というのは、知能程度に著しい問題があるのではないかとの疑いを抱かせます。
 事前にそれは無理だと分かることであり、実際に実行してみればひと月もあれば身に染みたことでしょうに。

 blog「中国語翻訳者のつぶやき」の「なくならない偽造通貨問題とインフレ懸念」によると、昨年中国で押収された偽札の額面総額は3億3800万元(約44億円)だったそうな。日本人から見れば驚きの金額ですが、これでも前年比46%減だとか。
 一体どうなってるのか。
 もっとも、中国では本物を作る連中が偽札を作っているという話もあるらしいので、最早何が何だか分からない。人民元って良く通貨として使用できるもんだな。

 某都条例の件で。

猪瀬副知事 表現規制ではない。
昼間たかし 取材させて
猪瀬副知事 夕張を助けに行け。雪かきして来い。それならインタビュ—うけてもよい。
昼間たかし 自分は夕張は毎年行っております。次は、来年の2月に行きます
猪瀬副知事 条件は出した。夕張で雪かきだ。
昼間たかし わかりました。じゃ、雪かきに行きましょう。
浦嶋嶺至 じゃあしてきてやる
スポニチ きっかけはツイッター アダルト漫画家が雪かき 猪瀬副知事「約束守る」←いまここ
 人間権力を握るとどうなるか、という実に典型的な事例が、ジャーナリスト猪瀬直樹氏の取材申込に対する姿勢に見え隠れします。

 渡辺さんは例えば「渡辺」の「辺」。JIS規格には「邊」「邉」をあわせた3文字しか含まれないが、100字近い異体字があるとされる。日本でも迷惑だが、米国でも「ワタナベ」の綴りは少なくとも22種あると迷惑を振りまいていた、という話題
 これは真面目に「ワタナベ氏撲滅委員会」とか作っても良いレベルかも知れん。
 国際的な迷惑だ(笑)。
 Watanabe delenda est! Watanabe delenda est!!


2011年1月22日(土曜日)
 朝、医者に行ったらBTRON Clubに遅刻しそうになった。
 待合室1時間半→診察室10分は流石にきついわ。

 H-IIB F2の射上げは成功。HTV-2の分離まで順調。あとはHTV-2が無事にISSにランデブー、ドッキングできればおっけ。
 そして実は今回、「第2段制御落下実験」なんてやってるんですよね。宇宙にデブリを残さないように、再着火して二段目を地球に落としていたという。
 日本の宇宙開発の未来は迷走気味ですが、地道な成果の積み上げは素直に祝福したいところです。


2011年1月23日(日曜日)
 久しぶりのお湿り。

 NHKスペシャルが「”邪馬台国”を掘る」で、観てげんなりした。
 以前にも書いたことがあるけど、「我が地こそ邪馬台国の在処なり」と主張している土地だけで200を数える。その中で有力とされるのが畿内説と九州説だけど、それですら畿内説の優位は搖るぎようがないところまで来ている。
 かつて文献を中心に云々していた時代は終わり、考古学的な発掘調査が進んだ結果、3世紀の日本の勢力図が以前よりも明らかになった。それらを概観する限り、当時は畿内が日本の中心として機能していたのは疑いない。ということは、邪馬台国がヤマトの音写であろうことを鑑みれば、まず畿内が有力、ということになる。今となっては畿内のどこだったか、が興味の中心だったりして。
 九州説の人たちが頑張っているのは知ってるけど、勝負はあったと思うけどな。


2011年1月24日(月曜日)
 「「常用漢字」の説明会〜兵庫・伊丹市」とかいう記事があって、そんな説明会なんか開いているのか、と。関東ではもう終わったのかな?と思っていたら、平成23年3月25日(金曜日)に国語施策懇談会(文部科学省・講堂)として開催予定(詳細は後日発表)らしい。憶えておこう。

 なんか秋葉原の歩行者天国が規模を縮小して再開とのこと
 私にはよく分からないのですが、2008年6月8日に秋葉原で起きた通り魔事件と、歩行者天国の実施の間には、いかなる因果関係があったんでしょうか? つまり、犯罪と歩行者天国との関係です。
 私の頭では両者に相関関係を認めるのは難しいように思われるのですが。
 身も蓋もなく言ってしまうと、通り魔事件事態は池袋や池田や土浦や下関みたいな、それこそどこでも一定の割合で起こるもので、しかも予防は根本的に不可能です。現場に居合わせた人は運が悪かった、としか言いようがない。
 自ら意図して無差別殺人に走る輩は、それを目的として準備するので、規制があれば掻い潜り、障害があればそれを乗り越えて犯罪を遂行しようとします。対象も、たとえば金銭目的のように金持ちを狙うとかいうのではなく、本人の趣味嗜好によって決定されますから、余人が事前に察知することは不可能です。
 何らかの科学的、あるいは論理的な推論によって秋葉原の歩行者天国が事件に関係していた(つまり歩行者天国がなければ事件が起きなかった)と言えるのでなければ、歩行者天国を中止するのも再開するのも、同じくらい事件とは関係がありません。
 記事ではしきりに「安全」という言葉を連呼していますが、実際には安全というものは確率的に表されるものであり、いかなる場所であっても絶対安全ということはありません。世の中には平地で転んで頭を打って死ぬ人だっています。
 記事中で「安全」と称しているものは実際には「安心」であって、それは心理的な問題であり、技術的な解決が難しいものです。カウンセラーかセラピストを呼ぶべきです。
 世間では、この手の安全と安心を履き違えてるとしか思えない言動がまかり通っています。そして報道もそれを訂正しようとはしていません。それは物事の合理的解決を妨げ、非合理的な政策によって社会を破壊する緩い毒ではないかと私には思えます。

 USA通信に「変わるDH像と問われるDH制」という記事があって考えさせられる。私は元来DH制には賛同しかねる立場なのだが、それを踏まえてみても、現在DH制は本来の意味を失いつつある。
 最も大きな問題は、記事中にもあるように、投手の増加だろう。
 野球においては、ベンチ入りメンバーは25人と定められている。このうち、現在約半数が投手だ。先発、中継ぎ、抑えの分業制が確立した今、先発投手が5〜7人、中継ぎ投手が5〜6人、抑えが1〜2人という構成はごく普通に見られる。捕手は概ね3人。となると、残り7つのポジションに対して野手は10人ばかりしかいないという事態になる。これが近年の野球において、一つの守備位置しか守れない選手や、そもそも守備が下手な選手の出場機会を大幅に奪っている。
 DHがあると、ただでさえ少ない野手をさらに一人先発で使わないといけない。DH専業選手が本当にDHしか出来ない場合、試合における戦術の柔軟性が大幅に失われる。
 これを問題とし、どうにかするためには、ベンチ入りメンバーを増やすなどの対策が必要になるが、ルールの改正を伴うだけに困難であろう。
 投手の人数が増えたのは、野球に於ける競技技術の向上が、一人の先発投手による完投を容易には許さなくなったからだ。先発投手を三巡目には捉えられるような各種戦術の向上があり、それ故に先発‐中継ぎ‐抑えという分業体制が確立し、結果として一試合あたりに投入される投手の数が増え、必要とされる投手の登録数が増えるに至った。
 捕手は特殊技能職であり、捕手が他のポジションに回ることがあっても、他のポジションの選手が突如捕手を任せられることは(緊急時を除いて)ない。長丁場のシーズンを乗り切るため、正捕手と、正捕手に匹敵する控え捕手がいて、そして緊急事態に備えた三番手が用意される。(この三番手は試合に出ることはまずない。三番手を用意しない球団もあるが)
 となると必然的に野手の人数が減っていくわけだ。
 予備人員が少ない状態で試合に臨むため、本来のポジション以外の守備位置もこなせる選手は必然的に重宝されることになる。逆にDH専業選手は好まれなくなる。
 だからと言ってDHを無くせば皆幸せか、というとそう簡単な話でもないのは上記の通り。投手が打席に立つことによるデメリットは、取りも直さず投手の投球回数の減少を生み、畢竟、投手の登録を増やす方向への圧力となるからだ。
 これらを勘案するに、根本的問題は競技技術の向上に対し、野球のルールが陳腐化しているからではなかろうか。これを補正する良い方法が見つかれば良いが、その結果アメフトのように攻守でメンバーが全員入れ替わるようなシステムなんかは間違っても勘弁して欲しい。

 フェラーリ四駆のハッチバックを発表した件。
 フェラーリが作るなよ、そんなもん……。

 以前から囁かれていたことだけに、やっぱりか、と。>「政府専用機:退役へ 経営再建中の日航、整備困難に
 日航だけではなくて全日空もB747を退役させる予定ため、国内で747を整備することができなくなるのですよね。自衛隊が自力で整備するには、たった二機では費用対效果が悪過ぎる。(自衛隊でB747のスコードロンを持ってれば別だけど)
 普段は要人の送迎ばかりやっているけど、記事にもある通りテヘラン脱出の一件の反省として緊急時の在外邦人救出に使う目的を有しているのですよね。困ったことに、現在この役割については、発生しそうな状況が高まっているようないないような。(まあ、快適な旅でなくて良いなら、C-2で運ぶって方法もありますけど)
 如何せん、整備ができないのであれば、已む方なし。じゃあA380に機種変更で(おい)。

 三菱自工の本社ショールームで、「世界に広がるアイ・ミーブまつり」とかいう催事を31日からやるらしい。個人的に目玉だと思うのは、2月3日から6日まで展示されるという、MINICAB-MiEVかな。現在ヤマト運輸で一台が実験中だという話なんだけど、電池をGSユアサから東芝の物に代えたり(多分SCiB)と色々弄っているようなので、情報が欲しいところ。
 個人的にはミニキャブはデッキバン(ダブルキャブ)タイプが一番美しいと思う! 異論は認めない!


2011年1月25日(火曜日)
 普通は手偏だろうが敢えて金偏を用いるところに画伯の確乎たる信念を見た>

 昨日の野球ネタであるが、野球から生まれたソフトボールは、かなりドラスティックなルールの改正が行われていることで知られる。
 野球のDH(Designated Hitter)はピッチャーにしか設定できない打撃専門選手だが、ソフトボールではDP(Designated Player)と呼ばれ、どのポジションに対しても設定できる。この時、守備側となる選手を、かつてはDEFO(DEFence Only)、現在ではFP(Flex Player)と呼ぶ。
 野球のDHは、DHが守備位置に付いたら消失する(DHの代わりに退いた選手の打順にピッチャーが入る)が、DP/FPのペアはFPがDPの代わりに打撃ができるし、DPがFPに代わり守備に就くこともできる。ややこしいことに、あるFP選手の打撃をするDPが、別の選手の守備に就くこともできる(その際DPに守備を譲った選手は攻撃のみを行い、OPO(Offensive Player Only)と呼ばれる)。守備9人、攻撃9人を10人で分担するシステムなのだが、野球からみると複雑怪奇に見える。これに先発選手のリエントリー(再出場)が加わると、代打が出された選手がフィールドに舞い戻ってきたりすることになる。
 他にも一塁での接触を防ぐダブルベースや、延長戦でのタイブレークなど、新機軸が次々と導入されていて、野球との違いは見た目以上に大きい。
 これらのうちで、タイブレークについては、アマチュア野球や国際試合で延長戦の短縮を狙った導入が行われている。
 流石に野球でリエントリーやDP/FPをそのまま導入するのは難しいような気もするが、多少の参考にはなると思う。
 日本の場合それよりまず高校野球のルールを国際AAAルールに合致させようぜ……。いつまで日本ローカルルールでプレーしてるんだよ。

 東京都のアレの件。
 「東京国際アニメフェア、イベント実施計画案の決定持ち越し 出展社減で開催予算にも影響と、かなりの規模縮小を余儀なくされている模様。
 記事によれば展示ブース数が124減で491ですから、ざっと2割減ですか。恐らくブース面積だともっと減っているでしょうから、会場を縮小するか、ブース配置を拔本的に見直すかしないといけないでしょうね。それでビジネスデーならなんとかなるかも知れませんが、パブリックデーは……。
 本当に、何を考えているのだか。
 一方のアニメコンテンツエキスポは公式webサイトを立ち上げた模様。しかしこっちも出展申し込み期間が2011年1月25日(火)〜2011年1月31日(月)とか、とんでもない強行スケジュール


2011年1月26日(水曜日)
 朝のNHK「おはよう日本」で10年前の大久保駅でのホーム転落事故の話題を流していました。
 16日にも、目白駅で全盲の方がホームから転落し、電車に轢かれて亡くなっています。報道によれば全盲者の三人に二人がホームからの転落経験があるそうです。
 最近ではケータイ電話に夢中になって入線してきた列車と接触する事故も多いようです。もっとも多いのは飮酒のようですが。
 以前も紹介しましたが、こう言った事故はホームドアの設置で防ぐことが出来ます。平成21年度の統計では、ホームからの転落事故が49件(5.8%)、ホームでの接触事故が144件(16.9%)、加えて線路内立ち入りが183件(21.5%)です。このうち転落と接触の193件については、ホームドア/ホームゲートによってほぼ確実に防ぐことができます。事実、東京メトロではホームドア設置駅でのこれらの事故がゼロであると報告しています。全駅にホームゲートが開業当初より備えられているつくばエクスプレスについても、事故報告がありません。確証はありませんが、軌道内侵入についても、多少の效果が見込まれるでしょう。
 費用や技術的問題があることは承知していますが、ほぼ100%の確率で確実に防げる方策があるのですから、設置の推進をお願いしたいところです。

 逆に、見込まれる效果が低すぎて問題だなと思うのが、宮城県の性犯罪前科者のGPS監視で、統計を見る限りこれは效果が非常に低い。
 確かに性犯罪逮捕者の再犯者率は高いのだが、同一種再犯率は全く高くない。
 平成19年の犯罪白書の特集が「再犯者の実態と対策」なのだが、性犯罪に一項を割いている。
 これを見るとわかるが、性犯罪で有罪となった前歴者を追跡しても、再び性犯罪を犯したのは僅か5%に過ぎない。犯種を限らない再犯率全体でも30%で、これは全体平均(28.9%)とほぼ同じ数値だ。7割の出所者は、普通の生活を送っていることになる。
 このことから宮城県の施策は、実施に移したとしても、金と人手ばかりを喰って実際の犯罪抑止については殆ど效果がないことが予想される。
 再犯を起こす5%をピンポイントで選び出すことができれば費用対效果は上がるのだが、実のところ宮城県での性犯罪の発生件数は、県警の統計によれば、認知件数が27件、検挙件数が15件、検挙人員が9人。これをどれだけ減らすつもりなのかは判然としないが、たかだか5%の同一種再犯率を考えると、性犯罪前科者のGPSによる追跡が統計上の誤差以上の成果を挙げると考えるのは難しい。
 同じように金をかけるのであれば、犯罪件数も多く、また同一種再犯率も高い犯罪に対して行うべきであり、そのような犯罪を探すと窃盗と覚醒剤取締法違反、そして暴行となる。
 結論としては、金をかけるべきところを間違えている、といったところだ。
 一昨日も言ったが、安全と安心を履き違えているのではないかとの疑いがある。

 ついでに書いておくと、統計上日本の犯罪は減少傾向にあり、全国で見ても強姦の認知件数は減少している。にも拘らず、前歴者に対して一層の監視を行うことには些かならず疑問がある。
 殺人事件は戦後最低を記録し、経済犯罪以外の重犯罪は軒並み低下している。交通事故ですら減少している。
 現在日本は、戦後最も安全な時代と言って良い。
 この状況下に於いて、世論が厳罰化や隔離、監視を支持しているのは奇妙なことだと私は思う。
 白書などの情報から分かることは、前科者を再犯に駆り立てるのは、社会復帰の困難さだ。刑期を終えて出所しても社会復帰できず、生計を営む能わず、再び犯罪を犯すわけだ。
 社会復帰の困難度は、拘留年月にほぼ比例する。長く拘留された者程、社会復帰が難しい。
 厳罰化を志向すると、結果として前歴者の社会復帰を困難ならしめ、再犯を促す效果を持つと言える。前記の通り、日本の再犯率は全体で3割に及ぶ。
 ある種の負のスパイラルだね。

 日産Leafが発表されたに、その既存の自動車に範を取った動力配置に絶望的な気分になったわけですが、なるほど、生産工程を考えるとああなるわけか。既存の自動車の枠組みを流用しているからこそ、既存の自動車用の生産ラインで製造できる。これがフレームから動力まで電気自動車に最適化したものの場合、既存の工場では製造できなかった可能性もあったわけか。
 なるほど、なるほど。
 理解はした。同意はできんけど。

 この辺の資料を見ながら、「地獄への道は善意によって舗装されている」という箴言を思い出した。


2011年1月27日(木曜日)
 SIM-Driveの第一号車は3月29日に秋葉原で披露
 こいつはi-MiEVLeafと違って、徹頭徹尾電気自動車だから、多少期待している。

 日本の長期国債の格下げの。為替相場は全面安展開。
 そして我らが首相は「そういうことに疎いので」。
 なあ知ってるか?
 菅首相って、前は財相だったんだぜ。


2011年1月28日(金曜日)
 昨日の「出版物のUnicode化推進セミナー」の録画が公開されている。ありがたい世の中じゃのう。
 ところで、同セミナーが使っていたtwitterハッシュタグ#UnicodeJを汚していた迷惑者がいたらしい。
 勿論日本には言論表現思想信条の自由があるので、どのような内容でも、それを発言して恥をかく権利と自由がある。ただし、発言者自身に自覚がない場合は、ただの見世物にしかならない。そして多くの場合、大して面白くもない。
 さて、人類が何故文字を使い、言語を記述するのか、と言ったとき、意思疎通のためと答えるのは模範解答の一つであろうが、残念ながらそれだけでは及第点は与え難い。意思疎通のためなら音声言語もあるわけで、音声言語では足りない部分があるからこそ人類は文字を使うのだ。
 音声言語では達成し難い疎通とは何かと言われれば、それは距離と時間だ。音声言語で会話ができる距離は、何らかの技術的補助手段がなければ数メートルであり、時間については実時間=生(ナマ)でありあっという間に拡散して消えていく。しかし文字によって言葉を記すことによって、何百キロも離れた相手とも通信ができるし、また故人の言葉を受け取ることすらできる。
 単なる情報伝達ではなく、空間と時間を飛び越えた情報伝達が行えることは、文字を使った書記言語の特質として意識しなければならない。これら時空間の超越は、知識の拡散と蓄積を行わせしめた。文明の高度化への足がかりである。
 我々は過去数千年の知識の集積の上に立っている。三平方の定理を一人一人が思いつく必要はないし、無常観を再発見する必要もない。人類が過去に犯した過ちを、確認することもできる。
 そしてこれらも全て、書記言語の持つ時空間的特性が生んだ叡智である。
 ということは、書記言語の利得を最大限にしようと思うと、それは変化が少ない方が良い、ということになる。
 事実、文字を持った言語は、言語としての変化が少なくなることがよく知られている。文字を持つことによって言語は固定化され、変化しにくくなる。それは世代を超えた情報伝達を担保するためでもあり、それこそが書記言語の機能である。
 従って、書記言語の大幅な変更は、書記言語の利得という点から考えるとあまり相性が宜しくないことになる。例えば越南のように漢字(+字喃)の体系を完全に捨ててしまうと、それ以前の知識体系との隔絶が発生することになる。捨てても構わない程度の知識の蓄積しかなければ良いが、大抵の場合そうではなかろう。
 勿論政治的にそれを意図して行う場合もあり得る。トルコに於けるトルコアルファベットの採用は、それ以前のアラビア文字体系とアラビア語、ペルシャ語からの借用語の排除をも同時に行った言語改革運動の一環であり、むしろ近代化のために過去を切り捨てるための変更であったと看做すことができる。無論トルコも完璧にそれを遂行できたわけではないのだが、それでもイスラム圏隨一と言われる近代化を果たしていることを見れば、效果はあったのだろう。
 さて、このような事情から、表記法の大改革を訴えるということは、革命を志向するのと大差がないことが分かる。現在の知識体系から人々を解放しよう!という訳だ。たしかに解放であり、また断絶がそこには発生するわけだが、それは近代化など大きな時代の転換点に於いては大きな力を発揮する場合がある。
 しかし現代の日本において過去千数百年の知識体系を捨て去らねばならない切迫した事情があるかと言われると、恐らく主張者の脳内にしか存在すまい。
 だから過去百数十年に亙って、仮名文字論者もローマ字論者も、力を持ち得なかった。前車の轍を踏む者は歴史に学ばないものだが、歴史に学ばないからこそ過去との断絶を容易に主張できる。実に示唆的である。
 学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし
 昔の人は良いことを言った。
 つるかめ、つるかめ。

2011年1月29日(土曜日)
 変な時間に寝たせいか、変な時間に起きてしまい、結果として変な生活時間帯に。
 日曜日で修正しないと。

 エジプトで起きている暴動で、ミイラが破壊されたとか
 エジプトは国外に流出した美術・博物の返還を強く求めている国の一つなのですが、こう言うことが起きちゃうと、返すのはいいけどちゃんと保存できるんだろうな?とか思っちゃいますね。
 まあ、今のエジプト人と古代エジプト人なんて縁もゆかりもないから、どうなっても構わないとか思っている人の方が大多数なんじゃないかという気はするんだけど。だってねぇ、エジプト人盗掘者が外国人に売っ払った物だってかなりあったりするわけで……。


2011年1月30日(日曜日)
 南部スーダンの分離独立が、現実のものとなりそう。いよいよアフリカの再編が始まるのだろうか。
 個人的には地獄の蓋が開いたような印象。
 アフリカの現在の国境線は、そこに住んでいる人たちが自然に形作った国境線というよりは、植民地の旧宗主国の都合で地図上に引いた線が殆どなので、当然のように色々な問題を孕んでいる。しかしはいそうですか、と言って国境を引き直すこともまた難しい。
 歴史的経緯があり、かつ現在の利権に絡む問題なので、簡単ではないし、蟻の一穴をどこの国も恐れている。
 せめて幸せな未来に繋がって欲しいものだが。
 そういえば土曜日の海外ネットワークでコンゴ民主共和国(旧ザイール)のタンタルの問題を採り上げていた。あの頃から何も進歩していない、という印象だった。
 先日の緒方貞子さんのインタビューも、絶望的な気分になれたが、21世紀の残り90年に何があるのか、今から楽しみでならない。

2011年1月31日(月曜日)
 ご当地ラーメンが流行っているのは分かるが、徳島は自重すべき。
 まだ地域性を獲得しているとは言い難いだろう、それは。

 先日のHTV-2に続いて、ロシアのプログレスがISSにドッキング。近々ESAのATV-002“ヨハネス・ケプラー”が射上げられる予定で、その次にはスペースシャトルがラストフライト(の筈が一回増えた)、なんとISSに有人/無人宇宙機がソユーズ(脱出用)、HTV、プログレス、ATV、スペースシャトルと満艦飾。まるで80sに夢見た宇宙開発の姿だ……。

 秋葉原の歩行者天国再開の件について、先週のクローズアップ現代でドキュメンタリー作家の森達也氏が私と同じようなことを言っていた。

そもそも物事には、リスクとハザードという2つの側面があります。リスクというのは危険性、ハザードはこの場合、毒性と訳してください。例えば、マムシいますよね、毒蛇の。マムシはハザードが高いんです。かまれたら死ぬ場合がありますから。でもリスクは低い、ほとんど住んでませんから、都市部には。だからその両方で考えなきゃいけないのに、それが今ごっちゃになってしまっている。誰もが浮き足立ってしまっている。その結果、本当の危機に対して、アンテナが働かなくなる。そういったことを危惧します。メディアがまず、このことを真剣に考えるべきだと思います。
 私もそう思います。通り魔事件のリスクとハザードを、適切に評価できていないと感じます。通り魔事件に限らず、様々な局面でそれは見られます。そして報道がそれらを区別していないことが、余計事態を悪化させていると切に感じます。

 「日中の交流を妨げる? 不思議な漢字の力」が面白かった。
 同じ文字を使っているからこそ通じるところと、逆に通じないところがあるという、当たり前といえば当たり前な話。
 同じラテン文字を使っていても英語と仏語が相通じないように、日本語と中国語もやはり通じない。ただし、両者の交流の歴史から、共通に使われている単語も数多いため、なんとなく通じたりする。日本では中学、高校と漢文(古典中国語)の教育が多少なりとも行われていることもある。
 この近さと遠さが、相互理解の利点となることもあれば、欠点となることもある。最後に書かれた「歌舞伎町」の例などは非常に典型だろう。
 私も、例えば「康煕字典」を英語で説明するときに、ハタと「なんて書いたらええねん?」と困ることがある。取り敢えず調べれば「Kangxi Dictionary」と出てくるのだが、今度はなんと発音したものか頭を捻る。幸い、喋る機会がないのでボロを出さずに済んでいるが。
 かつて漢字圏に於いては、漢字で書かれた固有名詞は相互にそれぞれの発音で読んでいた。ある程度以上の知識人は漢文を介して筆談が可能だった。越南、韓国・北朝鮮が漢字圏から離脱し、今や日本と中国・台湾だけがこの慣習に浸っているが、お互いの漢字字体の差も大きくなってきており、簡単には通じ合えなくなってきているのは、些か寂しいと思わずにはいられない。
 しかし今や世界は漢字圏だけで通信をしていれば済む時代ではなく、表音体系の世界との転記は頻繁に発生する。温家宝がWen Jiabaoと書かれても咄嗟には誰のことか分からない。
 いっそ英語圏でも漢字を使って「温家宝」と書いて「Wen Jiabao」とルビでも振ればいいのにと、身勝手なことを思ったりしなくもない。そう言えば最近、en.wikipediaに「武術」というエントリがあるのを見つけた。きっと英語圏民もこうやって漢字に慣れ親しんで行けば、その裡2,000や3,000位は平気で読みこなせるようになる。きっと!と願ってみたくならなくもない。
 しかしそのような未来の果てにあるものは、みんながキリル文字やアラビア文字やハングルやタイ文字やビルマ文字やデヴァナーガリ文字を読めなくてはいけない悪夢の世界ではないかという気もしないでもない。
 やはり世界皇帝以下省略のか。