自衛隊のアフガニスタン(周辺)への派遣の問題は、完全に政争ですな。自衛官の命をなんだと思ってるんだか。
軍を派遣するということは、被害は折り込み済みでなければならない。勿論、被害など出ないに越したことはないが、指揮官・参謀は絶対に損耗を前提として作戦行動を立案しなければならない。神の恩寵か、あるいは悪魔の加護でもなければ、戦鬪行動において損耗ゼロなどということは有り得ない。自衛隊が、「戦域無き戦争」の現地に派遣されるということは、いつ何時飛行機が陣地に突っ込んで来るかわからんということ。
そういうことを考えていれば、持っていく武器兵器類に関しては、歩兵戦鬪車はもとより、対空自走砲くらい持たせてやりたいくらいだ。どれほど重武裝させても、足りないくらいに。
夕刻から夜中にかけては、ぶんぶんの準備をしていた。
床屋の親父 | 「お客さん、肌白いねぇ」 |
---|---|
私 | 「陽に当たらない仕事してるからね」 |
床屋の親父 | 「“夜の仕事”かい?」 |
私 | 「……唯の事務屋ですよ」 |
友人から、「この際、ASIMOを実踐に投入してはどうか」という意見が。
地雷原を啓開する肉の盾か?と思ったら、チェーンガンを積んで移動砲台にしようという提案だった。
「指揮官機は三倍の速さで動いて頭にツノをつける」
……。
確かに定石だな。(なにがだ?)
気が付いたことがあって、今回のテロに最も強硬な米英両国って、先進国の中では歴史が最も短い二ヶ国なんですね。意味があるのかどうかはわかりませんけど。英国についてはテロの本場でもあるので、歴史が云々というより、単にいつシティに飛行機が突っ込んでくるかわからんという実感の方が先に立っている可能性は高い。
日本の議論って、真剣味が足りないよなぁ……。
戦争に犠牲者は付き物。国連職員だからって別に弾が避けてくれるわけでもないでしょうに、何を一体驚いているんですか? 一般市民の犠牲が、千人になるところが百人で済んだ良かったねってレベルで話し合わなきゃいけないでしょ、戦争なんだからさ。味方の犠牲が少ない割には、敵に大打撃を与えました。キルレシオが非常に良かった。作戦に見込まれた犠牲を遙かに下回りました。大成功じゃない。
私が非人道的なことを言っていると思うのであれば、それは戦争が非人道的だからに過ぎません。
戦争反対、ごもっとも。私も嫌い。
可処分時間が足りない。
やりたいことがたくさんあって、頑張っても数分の一も片付けられていない。なのにまたまたまたやりたいことが増える。
こういう状態になると、どうして人間寢ないといけないのか、などと真剣に考え始めるので、更に不毛だ。
くたくたになって渋谷に着いて、食事にビールを入れたら、不整脈の発作が起きた。ここ暫く、ビールの一杯や二杯では発作が起きてなかったので油斷していたといえば油斷していたのだが、やはり本質的には治癒するようなものではないので、疲れているという自覚があった分、用心すべきだった。判斷力が鈍っていたか。
明日も早いので、今日は早く寢るつもり。
うちのサイトを見た人から。
「妹さん凄い美人。全然似てないね」
……。前半が何を意味しているのかはともかく(笑)、後半は当人達にも自覚がある。
しかし不思議なことがあって、例えば父と私は似ていると良く言われ、妹も父親似なのである。
筋が通らない、変だと思われる向きもあるが、この兄妹を並べると同じ親から生まれたと信じる人は激減するのだ(笑)。
生き方や人生観については、最早語るまでもない。
常識力検定なるものを発見し、なんだかなと思う。ちなみに、サイトに載っている三問は、当然ながら全問正解した。
そのうちこの検定なんかも一つの指標として使われるようになったり、就職に有利になったり、参考書が出たりするんだろうか。
常識ってそういうものとはチト違うような気もするのだが……。
ましてや、常識を「知っている」ことと「従う」ことと「縛られる」こととかいう話になれば、そら全然違った話になりますわな。
ジャン・アレジが引退したりミカ・ハッキネンが休養したり……一時代が終わる感じ。
先日、市ヶ谷の某所で迷彩服に64式を抱えた門衛を見て思った。
道具を持っていても、それを使う技術を持っていても、結局は目的意識がなければいけない。そこで何をしているのか、何のためにその道具を持っているのか、どのような時にそれを使うのか。そういった意志が備わっていなければ、どのような武器を持っていたとしても、役立てられるかどうかは疑問になる。
逆に人間意志さえあれば、わざわざ武器など持たなくても人を殺すしね。
何のために人殺しの武器を持たせているのか、ということを再確認した方が良いのではないかと思うのですがね、政治家の方々。
はい、エスペラント語です。
エスペラントは……言語としてはあまり面白くないんで(人造言語の上に「世界言語」を目指してるんだから、当然といえば当然ですが)、個人的には興味は余りないのですが、なんというか「さあ次行ってみようかぁ!」ってカンジではありますね。
炭疽菌で世界が盛り上がっているようなので、ちょっとBC兵器の話など。
BC兵器とひと括りにしますが、B(Biological/生物)兵器とC(Chemical/化学)兵器ではかなり性格が異なります。禁止条約も違います。
一般的には化学兵器の方が威力もあり、また製造も簡単であり、使用についても輕易です。毒ガスというと大袈裟に聞こえますが、なにもタブンやソマンじゃなくても、塩素ガスのように簡単に作れて結構な毒性をもっているものもありますので、ちょっとした化学肥料工場でもあれば調達できるんです。
しかし毒性が非常に強い、つまり兵器として強力な毒ガスとなると流石に製造・管理・使用が難しく、特に開発となると大規模な設備が必要となります。自爆覚悟というならともかく、使用される瞬間まで安全でなければいけないという意味では、結構難しいところのある兵器ではあります。
そして生物兵器、ことに細菌・ウィルス兵器となると、これよりさらに難しい問題があります。
一つは、効果判定の問題。
我が国は前大戦時に731部隊等において人体実験を繰り返した前歴がありますが、とにかく人間を対象とした生物兵器は、効果がどのくらいきちんと現れるか、事前に知るのが難しいという問題があります。化学兵器はこの点ある程度組成から毒性が予想できるのですが、病原体となると、人間の固体差やら病原体の状態やら環境やらによって、罹ったり罹らなかったり、罹ってもすぐ死ぬやら一週間で死ぬやら恢復してしまうやら、これまた想像がつかないところがあります。
さらに生物である関係で、制御がかなり難しい。無分別に広がられても困るが、あまりに濃密になって感染が広がる間もなく收束されても困る。病原体だって生き物なので、宿主ごと全滅するってのは生物としてよろしくないので、生き残ろうと様々な努力(?)をして、密度が高いと変異をたくさん起こす。あまり変異を起こすと毒性を失ったり、逆に撒いた方の衛生防禦を突破する怖れがある。
兵器というものは、ある一定の用法に於いて一定の効果が安定的に見込めることが重要です。爆発するまで効果範囲も威力もわからない爆弾など使いようがありません。
そんなわけで、使用されたときの対抗処置を研究する必要上、生物兵器の研究は行われてはいるのですが、あまり兵器として実用性を追求してはいないというのが昨今の事情だったはずです。
今回炭疽菌がテロに使われたわけですが、効果の程は……と言われると、純軍事的にはあまりないんですね。
ただ、社会的にはモラルハザードを引き起こしますので、そこそこ効果があるわけですが。
張学良氏が亡くなった。100歳。
1936年西安事件を起こし、第二次国共合作の立て役者となった人物。蔣介石や毛沢東の陰に隠れてはいるが、歴史上の重要度という点では引けをとらない。しかし戦後消息不明となり、台湾で軟禁状態に置かれていることが分かったのが10年ばかり前だったろうか。彼が生きているというニュースを驚きをもって迎えた記憶がある。台湾民主化以後は、ハワイへ移住していたそうだ。
父である張作霖が爆殺され、名跡を嗣いだ時は20代。西安事件時もまだ35歳。かくも長き「その後」である。
彼がその間、一体何を考え、どう暮らしていたのか、そして周囲はどう扱っていたのか、興味がある。
何度か延期しての、「日本人はるかな旅」の第3回。繩紋時代のお話。
最新……という程でもないが、新しい発掘資料に基づく番組作りは好感が持てる。
私が高校生の頃は、“繩文時代”といえば「狩獵・採集・漁獵」と教えられる時代で、中期以後には「原始的な農耕も行われていたらしい」ってなもんであった。実際には、その頃には既に「少なくとも栽培農法が行われていたのでなければ、推定人口を養うことができない」という推論が成立していたことを、大学に入って考古学を学ぶようになってすぐに知った。
講義の第1回目で「高校までの歴史の知識はすべて捨てるように」と申し渡されるだけのことはあったわけだ。
繩紋時代がそれまで信じられていた以上に豊かで繁栄した時期であることが、考古学的手法によって確認されてきたのは、確かにここ十数年ではあるが、それ以前から発掘された資料の検討によって推測はされていた。
繩紋時代は約一万年続いた文化位相であり、その長さは、彌生以後現代までよりも長い。日本の文化的基層は繩紋に根差すと良く言われ、確かにその一面は否定できないと思う。しかし、我々は繩紋時代に培った生活技術の殆どを失っている。一万年を生き拔いた文化の知恵はいかなるものであったのか、現代文明の経験値のなさを感じる身としては、なんとか一端でも知りたいものだ。
わはははっ。(なんか行き着くところまで逝ってますな)
なーんか精神方面の復元力が、損傷に追い付かなくなりつつある感じです。
「心が疲れている」っていうのはこういう状態をいうんだろーなーとか漠然と思ったりして。
報道を見てても、戦争報道が目について、神経がささくれ立ちます。晩ご飯なんか、食欲ないのに無理矢理詰め込みましたよ(苦笑)。
昼休みに赤坂まで歩いて、日本規格協会の直販所まで。私物の規格票を買ってくる。JIS X 0221-1:2001。JIS X 0221-1995の改訂版で、ISO-10646:2000に対応する。
A4版でタウンページより厚い、凶悪な代物。1236ページある規格票って、「票」って言えるのか……? ふうふう言って持ち運びながら、ふと「JIS X 0221殺人事件」などという益体もないことを考えてしまった。実際に使用するなら(なににだ?)ハードカバーのUnicode 3.0の方がオススメだろう。
発売されたのは6月だったんですが、なにしろ値段が値段ですし、大きさも大きさですんで二の足踏んでたんですが、「気分転換」に買ってきました。
目玉(?)はハングル大移動と漢字のExtention Aですかね。あと目立たないところではCJK Compatibility Ideographsとか“一度でいいから実裝を見てみたい”Ideographic Description Charactersとか。
これを完全実裝できる人は、神か悪魔か、とにかく尋常ならざる知性の持ち主であることは間違いないでしょうね。少なくとも凡人である僕にはできません。
予定では来年あたり、Extention Bを含んだJIS X 0221-2が刊行される予定です。
岩本隆雄の『ミドリノツキ(下)』、捕獲読了。小川一水の『追伸・こちら特別配達課』も入手。
「キャンディ・キャンディ裁判」の上告が棄却。これで高裁判決が確定しました。(地裁の原審はこちら)
有無を言わさぬ棄却で、付帯意見すらない。一刀両斷ですな。
妥当といえばあまりにも妥当な判決で、挾むべき意見すら殆どない。
最後の追い込み中。>アレ
最近、AMDの努力のせいか、パソコン雑誌でIntel Pentium4対AMD AthlonXPのベンチマークテストをやたら見掛けるようになった。
ちらちら斜め読みしたところでは、どの雑誌の記事も似たり寄ったりで、要は「実用ソフトではAthlonXP、マルチメディアではPentium4」といった感じだ。
異なる設計に基づくCPUの性能を駆動周波数だけで測るような風潮が根付いたのは一体なぜなのかは分からないが、まともにプロセッサー、ひいてはコンピュータというものと向き合ってくれるなら、この手の記事は悪くないと思う。
しかし一時期のCISC/RISC論争ではないが、結局はそれが一体どういう意義を持つのかも理解されないままに、押し流されていくのではないかという気がしないでもない。
そういえばあの当時、TRON ChipはRISCじゃないから云々とか言ってた連中がいたけど、どうなったかなぁ。きっと幸せに暮らしてるんだろうけど。
ちなみに私がもしPentium4とAthronXPの選択を迫られたら、性能ではなく、パッケージングでAthronXPに決めます。頻繁にパッケージを変える製品は、怖くて使えません。もし破損等によって代替部品を求めなければならなくなった場合に、「Socket 1ってなんですか?」なんて状態になったら困るもん。
前日にいきなり電話があって泊まることになったデンパ大阪を拾いに秋葉原へ移動する。「絶対ここに居るだろう」という確信のもとに電話をかけると、やはり秋葉原に居た。分かりやすい奴である。間違ってもデンパを受信したのではない。
同行の彼の友人と食事をご一緒する。
帰ってきて、撮り溜めたプロジェクトXを見る。
今朝、7時起きでデンパはCレヴォへ出かけていった。
天気が良ければ今日も古本まつりへ行こうと思っていたのだが、雨という予報にめげる。家でNHKスペシャル「イスラム潮流」の再放送などを視聴する。なんだかんだで、やはりNHKは質の高い番組つくるよなぁ。夜には年間シリーズ「宇宙」を見る。
夜、珍しく弟から電話。
PCから音が出なくなったという。
電話口であちこちのプロパティを表示させて内容を読み上げさせるが、異常がない。物理配線の方を疑ってテストをさせてみるが、これも問題はないらしい。どうにも納得がいかないまま、思い付きを口にする。
「音楽CDを再生してみて」
すると、電話越しでも分かる、スピーカーから音が……。
「ボリュームチェックしたって言ってたよな……」
「えーっと……あ、なんか一つだけ音量ゼロになってる。WAVE。」
「アホかーっ!」
ちょっと某社のノートパソコンを触る機会があって、驚いた。
典型的なWindowsMEマシンだったのですが、メーカーデフォルトの外字が用意されて、各フォントの私用領域にリンクされていたんですよ。
多分、その会社がかつて販売していたワープロ専用機(後日註:まだ今でも作って売っているんだそーです)との兼合いだろうと思ったんですが(さすがにWindowsMEの標準とは思えなかった)、小さな親切大きなお世話って感じでした。
いや、仕様上は正しいんです。
私用領域とは、規格の利用者、この場合はメーカーが勝手に使って良い領域のことなので、エンドユーザがどう思おうと、デフォルト外字ファイルを作って載せておいても仕様上は全く問題はないんです。
さて、こんなパソコンでエンドユーザが自作外字を使おうとなると、一度フォント間に定義された外字のリンクを外してかからないといけないのですが……購入者のうちどのくらいにその作業ができるのかと考えると……。
できないよなぁ、やっぱ。
昨日の某社のノートPCじゃないけれども、世の中を悪くするのは、大抵「良かれと思って」やったことだったりする。せめて悪意があればこちらとしても罵るなり罪を科すなりできるのだが、真実善意だったりすると厄介極まりない。
まさに始末に負えない。
国会図書館の利用者年齡制限が現行の20歳以上から18歳以上に引き下げられるらしい。
実は10年ほど前までは、年齡制限は18歳以上だった。それが20歳以上に引き上げられた理由は、受験生が国会図書館内で勉強をするというものだったと記憶している。
もちろん18歳でも、きちんとした大学生が調べものをする必要がある場合もあるのだろうが、その場合は現行では紹介状が必要だった。私も、ある授業で国会図書館を利用することになった時に、グループの中に未成年がいて要らぬ苦労をした経験がある。
今回の決定は言ってしまえば「元に戻す」なのであるが、できることなら国会図書館には20歳、あるいは18歳という年齡制限にどのような妥当性があるのかをきちんと検証して貰いたい思う。
3年前に千葉大に飛び入学した学生が、今度は大学院にスキップ入学を果たす予定だそうだが、とても羨ましいと思った。大学・大学院と合計7年いたが、2〜3年くらいは短縮できたんじゃないかと思えて仕方ない。
ふと思い立ってうちのサイトのhtmlファイルのブラッシュアップをする。
というか、昔作った部分に間違いが大量に残っていたのを、潰してまわった。でもまだかなり間違いが残っている。
最初からきちんと正しいHTMLで書くべきだと思った。