哀愁日記
底に哀はあるの。

西紀2001年9月分

Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクト、並びにパーソナルメディア社は関与しておりません。
守秘義務の関係上、伏せ字になっている箇所があります。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

2001年9月1日(土曜日)
 昨夜、新宿でビル火災があって、44人が死亡したらしい。
 こういう報道を聞くと、自分がその日その時その場所にいたら……と考えるクセがついている。自分はどういう行動をとったであろうか。その結果、どういう結末を迎えたであろうか。
 終わってしまった事物を未来からの、つまり「全体像が摑めている視点」から見て、その時渦中にいた人々の行動を批判することはできない。事態の真っ只中にいる人物には、基本的に予知能力もなければアカシックレコードとの接触能力もないのが通常であり、五感を総動員しても、得られる情報は現在進行中の事実の中の、さらに一部分に過ぎない。
 不測の事態における人間の行動は、自分が今置かれている状況すら満足に把握できない中で、判斷材料も殆どなく、それでいて何かを選択しならない(場合によっては選択肢の存在すら不明)という、まさに極限としか言えないものだ。しかも、大抵かかっているのは当人の命だったりする。
 賭けというより博打であり、博打というより籤だ。
 そんな中に自分が置かれたら、とよく考える。
 私はあまり臨機応変な人間ではなく、どちらかといえば頑迷な保守主義者であることを良く知っているが故に、様々な思考実験を普段から行うことによって「不測の事態」を減らそうとしている。

 これも昨夜のことになるが、岐阜から撤退した後、どこに住んでるやら知れない靜岡出身の予備校時代の友人からメールが来て、岐阜に居残っているこれまた予備校時代の友人がパソコントラブルなんで電話をしてくれという奇妙なメール。
 そんなの本人から直接電話してくりゃいいものを……と思いつつ電話をかける。固定電話を持っていないんだよね、コイツ。
 で、分かったのはどうやらこの男、私の転居通知を紛失し、現在の電話番号が分からなくなっていたらしい。
 トラブル事態はほんの5分で解決したものの、その後は長かった。

 なんかここ数週間、土曜日が出勤日状態になっていて辛い。
 それでなくても体調がイマイチ優れないところなので、どっちかというと少し休みでも取って健康診斷でも受けに行きたいところなんですが。
 ……って、そういえば来週夏休みなんだっけ。病院に健康診斷の予約でもしときますか。

 で、今日は休日なので普段の服裝で職場行ったわけですよ。そしたらば、あら不思議、月曜日に来る予定だったバイトさんたちがなぜかお仕事中。
 私の格好を見て言いたい放題。
「芸術家みたい」とか「焼き物焼いてきたんですか?」とかとか。
 はいそうです。作務衣で仕事場に行きました。

 明日はコミティア。


2001年9月2日(日曜日)
 コミティアへ行く。
 今回はR'nホールでということもありサークル数がそもそも少なく、馴染で古株のサークルさんや、小説系のサークルさんは殆ど全滅。その分、新しいサークルの発掘に努めたいところだったが、不幸にも足を捻挫している身であるので、適当なところで切り上げた。
 途中、某火炎龍さんと会場で鉢合せ、拉致られて苛められる。彼は善良な一般市民を苛めて遊ぶのが趣味なのだ。

 家に帰って一休みして、こんどは池袋に段ボール箱を買いに行く。本を整理するための箱なのだが、当然これまでの箱と同じサイズのものを揃えて買う。整理とはそういう物だ。
 が、東急ハンズで型番指定で段ボール箱を所望したところ、「メーカーが潰れた」というありがた〜いお答えがっ。
 で、別のメーカーの段ボール箱のサイズ表を眺めるが、数十あるサイズのうち、どれ一つ同じサイズがない。
 信じられない。
 A版、B版ともJISで決まっている紙形で、両方とも長短辺比は√2:1。当然導かれる答として、本を片付けるための箱のサイズは3辺が2:√2:1になっているのが最適解ということになる。
 A4用、B4用と銘打たれた箱がその比になっていないというのは、一体どういうことなのだろう。もしかして私の知らない何か深遠なる理由が存在するのであろうか。
 悩んでいても仕方がないので、善後策を講じる。
 様々な案が頭を過ったが、結局採用したのは、人生を不幸にする冴えないやり方であった。
 曰、「既製品がないなら作ってしまえ」。
 一件落着。


2001年9月3日(月曜日)
 いきなり肌寒さを感じる一日。

 久しぶりに頭の天辺から爪先まで文字コードに染まった感じのした一日だった。ひたすらに疲れた。

 技術とは思想を体現する方法論だと、誰かが言っていたような気がする。私も同感だ。つまり要するに、思想が先になければ、道具である技術は活かせない。 思想といっても、別に大仰なものじゃない。欲望でもいいしもっと泥臭い生活必需でもいい。そう言った動機づけが技術には必要で、恐らく民主主義という奴はこの思想的動機づけがとても下手だ。
「船頭多くして船山に登る」とは良く言ったもので、思想的迷走が技術官僚(テクノクラート)を最も混乱させる。
 しかし、間違っても技術官僚に全てを任せてはいけない。彼らは合理的で効率的なモノを作り上げることはできるが、魂を込めることができない。
 この両者の能力を一身に集めて昇華した存在が「職人」なのであろうが、こいつになるのは仙人になるほどに難しい。困ったものだ。


2001年9月4日(火曜日)
 明日から夏休み。
 とりあえず江戸東京博物館東京国立博物館など、博物館巡りをしたい。科学未来館にも行かないとね。
 読まなければ行けない本はそんなに残っていないのだが、とにかく整理しないと行けない本(既読書)が百冊を越えている。これは一日二日では片付かないかもしれない。
 アーヴ文字登録の方も第2段階を進行させんとあかんしね。
 ついでに次のBTRON Clubの発表も構成を立てないと。
 なんだ。存分に忙しいじゃないか。

2001年9月5日(水曜日)
 Sonyから新AIBOシリーズ「小熊」登場。
 ……。
 …………。
 私の代わりに働いてはくれへんの?(炸裂)

 アーヴ語用の世界文字入力小物定義ファイルをちまちまと作る。技術資料の在処を知らないので、とりあえず付録に付いて来たロシア語やら韓国語やらのスクリプトを参考にする。こういうでっち上げの仕事が不得手じゃないってところが問題なんだと思うような気がする。
 とりあえず簡単でも頻度調査をしてから配列は確定したいなぁとか思うので、当面非公開です。悪しからず。


2001年9月6日(木曜日)
 江戸東京博物館へポンペイ展を見に行く。なんか妙な取り合わせのような気はするが。
 それはともかく、木曜金曜は午後8時まで開館なので、午後から出かけてもたっぷり観覧できる。
 ポンペイ—pompeii, orum, m……ですな(謎爆)。紀元79年にベスビオ火山の噴火によって全滅した「伝説の都」。18世紀に発掘が始まり、現在もなお発掘が続いています。帝制ローマ時代、いわゆるPax Romanaの時代に突然火山灰の下に埋もれてしまってそれっきり。その時代の文物を現代に伝えております。
 子供の頃、発掘の進む街並みに、犠牲者の石膏形取りがごろごろ転がっている写真を見て、隨分衝撃を受けました。
 今日はその実物が拝めて、とても良かった。
 大学2年まで考古学を専攻していた身としては、なんというか、心の故郷に立ち寄った感じ。

2001年9月7日(金曜日)
 不愉快な出来事に会った。
 京浜東北線で南下中に、車内で突然50代の女性が「自分は慈恵会病院と国家警察に殺されようとしている」と大演説をぶち始めた。内容は聞くに堪えない一方的で根拠もなければ状況証拠すらない完全なる被害妄想だった。
 しかしあんまりにも鬱陶しかったので、「車内は公共の場だ。演説は迷惑だ。降りなさい」と忠告したところ、「私は正しいことをしている!」と。「正しかろうが正しくなかろうが迷惑は迷惑だ」と理を説けば、「正しいことは迷惑じゃない!」と反駁された。
 それはテロリストの理屈だ
 目的は、決して手段を正当化しない。
 どれほど高貴で崇高な目的だとしても、それを実現する手段が非合法であれば罰せられるし、目的はそれだけで否定される。どんな非合法な手段を使ってでも達成されねばならない目的が存在することは知っているが、それは本当にそれ以外の手段がないときの、最後の非常手段であり、最悪の選択肢だ。そうでなければ、最初から目的が非合法であるかのどちらかだ。
 正義だなんて下らないものを掲げて法も理も棚上げするのは、民主主義国家における市民としての最低限の規範を逸脱している。
 自称五十幾つだかの、私の倍も生きている人間が、その程度の理非も弁えないとは一体どういうことであろうか。

 余談。
 目的は手段を正当化しない。では手段は目的を正当化するのであろうか?
 答えはこれまた否である。
 ただ、手段が正当であれば、目的は無碍に否定されたりはしないだけだ。
 しかしそれ故に、目的を達するためには、手段は選ばなければならない。誰の目にも明らかな形で、正当な手続きを踏んで、堂々と法理の力で推し進められる計画は、それだけで目的の正当性など問われないことが多い。
 あらゆる法や制度は、目的実現のための手段であり道具でしかない。それならば、深く理解し上手に利用するのが市民の生き方というもの。

 映画を観た。『Kiss of the Dragon』と『カウボーイビバップ 天国の扉』。どちらも料金分の価値はあった。


2001年9月8日(土曜日)
 朝5時に寢て、昼前に起きる。まずい。明日一日でちゃんと生活リズム元に戻るんかいな?

 nyちゃんとアキハバラへ。本日店売りの某同人ソフトを買うのがメインだったらしい。私は妙に重たい物体を購入。あれよあれよというまに財布が輕くなる。不思議不思議。

 一緒にご飯を食べながらアーヴ文字入力関係の話をしているときに、ふと不安になり、とある点を家に帰ってからバイナリダンプして確認する。問題はなかった。


2001年9月9日(日曜日)
 颱風の影響か、唐突に驟雨が降ったり風が吹いたりと、不順な天気。
 一日家に籠ってテキストを追いかける。整理しなければいけない本が約1メートルばかり残ってしまった。この1メートルを片付けるのに、また数ヶ月の日時が必要になるんだろうか。

 今日のNHKスペシャルは「日本人はるかな旅」の第2回。南方から来た人々の話。比較的新しいの考古学の成果が披露されていて、個人的にはいい感じ。できればスコープを日本列島の周辺まで広げるともっと面白かっただろうが、そうすると番組の焦点がぼやけてしまうだろうから、この辺が手の打ちどころか。

 アーヴ語入力(ローマ字版)のテストは比較的良好に進行しているようです。良かった良かった。


2001年9月10日(月曜日)
 颱風襲来……今年は当たり年なんですかねェ。
 東海地方に上陸して、明日にかけて列島縦斷の予定とは豪快な話だ。

 リコーからDVD+RWドライブ発売のアナウンス。とうとう真打登場ですな。
 書換可能なDVDメディアは既にDVD-RAM、DVD-RWが登場している。ちなみに、両方ともDVDの規格でライセンス等の管理はDFD FLLCだ。ところがDVD+RWだけは違って、本来的な意味でのDVDの規格ではない。
 そういう意味では、なぜ真打?という気もするが、やはり仕様面から見るとこいつが本命ではないかという気がする。
 なにしろ、7割の既存DVDドライブで+RWメディアは読込が可能だというのだから。
 CD-Rが普及したのも、究極的にはそこいらじゅうのCDドライブで読込が可能だったからだ……って、まあ、初期のドライブでは読めないものもあったんですが(事実持ってたし)。劇的に廉くなっているにも拘らず、CD-RWメディアがイマイチ普及しないのもその辺りが原因ではないかと思う。
 とにかく、これで3種類の書換DVDが揃ったわけです。果たして、どっちへ行くのやら。


2001年9月11日(火曜日)
 富士通オートメーションから小型人型ロボットが発売とかいうニュース。
 スペック等を見るところ、SONYのSDR-3Xよりちと小さく、少々重い。自由度も4ほど少ない。目的が違うからか。
 しかしこんなロボットが500万で売られる時代が来たんですねぇ。時代とはいえ、凄まじい。
 ここらで、腹を括った方が良いのかもしれない。
 お祭りを起こすなら、これだろう。
 マツリといってもどっちかというと「政」のマツリのことで、日本の未来を賭ける対象にする、ということだ。
 米国で言えばアポロ計画のようなものですな。
「2010年までに日本は汎用人型ロボットを実用化する!」などという、正常な人間が聞いたら狂ってるんじゃないかというようなことを真顏で政治家が放言し、金と人とを注ぎ込み、夢をばらまき、ある種の国家的躁状態を作り上げる。古式ゆかしい政治手法ですね。
 日本の経済の先行き不透明感は増すばかりですので、ここいらで一発、未来を「造る」必要がありそうだと思うのですよ。
 幸い、カリスマ的指導者は要るようですので、あとは彼に真顏で真剣にロボットの未来を熱く語らせ、国民を熱狂させるだけですな。

 N.Y.の世界貿易センタービルと、ワシントンD.C.のペンタゴンに飛行機が突っ込んで爆発炎上だって?!


2001年9月12日(水曜日)
 日本時間の昨日夜に発生した米国での同時多発テロは、そのタイムスケジュールのタイトさと被害の甚大さ、そしてなにより旅客機でのカミカゼアタックという前例のない攻撃方法で、地下鉄サリンとならびテロ史に記録されることになるだろう。
 考えてみれば、航空機をハイジャックして目標に叩きつけるというのは、自分の命を省みないのあれば非常に有効な手段だ。
 B767は満載なら130tはある。巡航速度は880km/hくらいだが、まあ突っ込むなら500km/h以下でしょうか。とりあえず100tの飛行機が500km/hの時の運動エネルギーは、ざっと9.65×108J。換算すると大体2.30×108calだから、2.3キロリットルの水を0度から沸騰させることができるという計算だ。わお。
 もうちょっと分かりやすい比較対象として戦艦大和の主砲を持ち出すと、こいつは一発の重さが1,460kgで初速が780m/s。導かれる運動エネルギーは4.44×108
 つまり、大体大和型戦艦の46cm砲2発を喰らうのと同等という計算となる。
 これに耐えられる構造物などまずなかろう。シャイアンの穴蔵にでも籠っているならともかく、そんじょそこらの対爆構造などひとたまりもない。

 問題はこの次だ。
 旅客航空機によるカミカゼアタックは、世界中のどこでも実行できるという意味で、サリンより遙かに質が悪い。命知らずが4〜5人と、機内に持ち込めるナイフでもあればOK。あとはフライトシミュレータなどでカミカゼの練習をしとけば良い。離陸も着陸も考えないのであれば、飛行機は結構楽に扱えるはずだ。目標に確実に墜とすのは難しいだろうが、「大体」でよろしければ、それこそどうだっていい話である。
 例えば、羽田発のB767を木更津上空、水平飛行に移った直後にハイジャックし、新宿を火の海にせんとすれば、所要時間は僅か数十分。百里の航空団は当然間に合わない。
 よしんば間に合ったとしても、あるいは防空団の対空迎撃体制が整ったとしても、ハイジャックされた航空機に乗っている200人からの人間を巻き込んで撃墜すべきかどうかという選択を突きつけられる。
 もちろん、撃墜すべきなのだが。
 もし新宿に、新宿でなかったとしても、都心の度真ん中に航空機がカミカゼすることによって発生する被害を考えれば、乗客乗員の命は見捨てなければならない。それが決斷というものだ。数日前にも書いたが、極限状態では「誰もが幸せになるハッピーな選択肢」などありはしないのだ。
 つまり我々は、「航空機の使用を一切止める」という選択を取り得ない以上、そして「テロリストを絶対に航空機に乗せない」ことがまず不可能である以上、常に「航空機ハイジャックによるカミカゼアタック」に対する対処を考えておかねばならないということだ。

 テロによる影響で世界経済が動搖。一体誰が得をするのかね、こんなことをして?


2001年9月13日(木曜日)
 昨日の日記について、微妙な追記。
 私は別にテロが起こってほしいと思っているわけではない。ただ、テロを事前に、確実に封殺する方法がない以上、「起こってしまった」事態への対処は用意しておかねばならないと言っているに過ぎない。
 沈まない船を造ることはできないから、救命ボートを積み、救助態勢を整えておくのと本質的な相違はない。更に言えば、それらを整えたとしても100%の人を救えるわけではないから、海難法令を整備したり保險をかけたりする。
 今回の一件に絡めば、空港での手荷物調査を厳にする、航空機の免許取得者・技能保有者に対するある程度のチェック体制、テロ組織への内偵、ハイジャックマニュアルの見直し検討などがまず考えられる。
 しかし手荷物検査には限界がある。飛行機を飛ばせる人間だって大勢いてチェックは困難。テロ組織への内偵は、それこそ命の危險が伴う任務だ。ハイジャックマニュアルについてはこれまた問題がある。
 そういった対策の上で、起きてしまったらどうするか、という話をしているのだ。防空体制を強化し、ハイジャックされた飛行機が市街地に近付いたら撃墜するというのは、その一部にすぎない。
 さらに墜落した後の対処というのも含まれる。避難誘導や警察・消防・自衛隊の投入のタイミングや事後処理etc...。
 ただ、なぜあの部分をクローズアップしたかといえば、それは最も「覚悟」が必要とされる部分だからに他ならない。

2001年9月14日(金曜日)
 人間っちゅーものは、徹頭徹尾自己中心的にできているわけで、それだからこそ「自由・博愛・平等」がスローガンになるわけですよ。人間が最初から「自由・博愛・平等」に恵まれてたら、別にそんなこと言わなくてもいいことでしょ。
 米国は今回のテロに対し、徹底的な報復を宣言している。非常に興味深く思うのは、事件の首謀者とかいうレベルだけではなく、テロとそれを支援するシステムを破壞すると宣言していることだろう。とても米国らしいと思う。日本では、こういう発想はなかなか出てこない。
 臭を斷つには根元から、とは良く言うが、テロも基本は一緒で、実行犯や首謀者をとっ捕まえるのは対処療法でしかない。結局は別のテロリストが台頭し、別のテロが巻き起こる。
 有史以来、この世から犯罪を駆逐できた試しがないのだが、米国はテロに対していかなる手段を以ってこれを封殺するつもりであるのか、非常に興味がある。
2001年9月15日(土曜日)
 日本は何もしないんですか? 日本にしかできないことがあるんじゃないですか?
 まあ、所詮対岸の火事のつもりなのかも知れませんけどね。

 よくある誤解「戦争は犯罪である」。
 戦争は犯罪じゃありません。なぜなら、戦争そのものを罪と定義する法律も条約もないからです。罪は法がなければ定義できませんので、戦争のものは罪ではないのです。
 しかし「違法な戦争」は存在しています。それがいわゆる「戦争犯罪」という奴で、これは3種類に分類され、それぞれA級、B級、C級と呼ばれています。
 A級は「平和に対する罪」で、要するに侵略戦争の企図です。
 B級は「一般戦時国際法違反」で、捕虜の虐待、投降兵士の射殺、一般市民への無差別攻撃などがこれに当たります。
 C級はちょっと性格が違って、「人道に対する罪」でして、「戦前もしくは戦時中にすベての民間人に対して行なわれた殺人、殲滅、奴隷化、追放及びその他の非人道的行為、または犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行なわれた政治的、人種的もしくは宗教的理由に基づく迫害行為。」と定義されています。定義されたときの主たるターゲットはドイツによるホロコーストということになります。
 私はB級についてはその意義を認めていますが、AならびにC級については、その存在そのものに疑問を抱いています。B級にしたところで、戦勝国からB級戦犯が一人も訴えられてないって辺りが既に欺瞞ですけどね。
 戦争は悪かもしれませんが、少なくとも罪ではないのですよ。

 あー。TRON文字セット更新ですか。へー。今回もまたレビューなしでいきなり登録なんですね。また間違いでもあったら誰が責任とるんですか、坂村先生?


2001年9月16日(日曜日)
 都下某所で秘密会議。あああ、また自分で自分の首を絞めているよーな気がする〜。
 早くBTRON Clubの方も片付けんと〜。
 私がかくも繁忙なのは、搾取階級が存在してるからに違いない(笑)。夢の若隠居よいずこ……。

2001年9月17日(月曜日)
 月曜日だというのに、一週間分の体力を消費したような気がする……。

 なにか問題があるとき、原因の追求は必須だ。問題の現象面だけを延々となぞり続けても、解決には繫がらない。原因追求や問題発生の構造を把握していなければ、対策を講じたとしても、それが有効なのか(あるいは、有効だったのか)どうかすらわからないということになる。
 たとえば、病気になった折に、祈禱師を頼んだり呪い師を呼んだりとかいうのが、これに類する事項である。問題と結果の間に因果関係が成立しているように見えて実はしていない(している場合もあるだろうが、一般的には成立していない)。そんなことしねーよなどと思っている人でも、携帯電話の電波状態が悪いと電話機を振ってみたり、調子の悪い家電製品を叩いてみたりとかいうことをするわけだ。
 もちろん、専門家でないと分からない因果関係というものも存在し、医学的な問題であれ医者が必要であるし、家電製品であれば電気屋さんに対処を依頼するわけだ(今はそうでもないか)。彼らは自分には分からない因果関係を、専門的な技能と知識によって弁別することができ、そして対処することが可能なのである(なお、「対処」の中には「匙を投げる」というのもある)
 素人と専門家の間に存在するのは、実際には技能・知識の有無であって、推論類推観察能力の差ではない。専門家ではない人間であったとしても、注意深く観察し、必要な知識を蒐集し、論理的に推論を行えば、結果的に同じ結論に辿り着く(辿りつけないのであれば、それは科学ではない)
 他の国のことはよく知らないのだが、この国ではどうもその途中経過というものを重視しない傾向が強いように思えてならない。結果論を否定するつもりはないが、結果だけを見るのは危險だ。

 文字コード体系専門委員会の会議に出席。色々思う。


2001年9月18日(火曜日)
 仕事のミスが発覚し、ダークに沈む。
2001年9月19日(水曜日)
 規格書片手にフォントのグリフをチェックしていると、フォントのグリフが規格書と違っているなんていう事態に直面することがある。これが包摂基準の範囲内であれば、まあ仕方ないかもしれなくもないと思わなくもないのだが、規格上別字と弁別されている字が共通のグリフを有していたりすると、こりゃどう考えても間違いだよなぁとかげんなりする。それがシステムフォントだったりすると、なおさらだ。廉いフォントなんだからしょうがないといえばそこまでなのかも知れないが。
 末端ユーザはどうせそんな事情など斟酌せずに、字がないだとか使えないだとか色々メーカーにクレームをつけるのだろうが……。私のように、ある程度事情を知っている人間としては、誰に対しても文句が言えずに溜め息を吐いてしまう。
 OSメーカーとしては実裝すら面倒なんだと思ってるだろうし、フォントベンダとしては一山幾らのフォントの精度なんてそんなもんだろうと思ってるだろうし、規格策定側はそんなの実裝ミスじゃないかと思うだろう。かくして誰も責任を持たないままに状況だけは悪化していくわけだ。
 徒労感だけが彌増す。

2001年9月20日(木曜日)
 また仕事でミスをやらかし、ダークに沈む。
2001年9月21日(金曜日)
 「イオージマが爆発した」という文言を最初聴いたわけで、「LPH-2が爆散したのか?」とか思わなくもなかったわけですが、さらに「自衛隊が」とかいう斷片的な情報が加わると、さすがにわけがわかんないっス。大体、USS Iwo Jimaは退役してるじゃないかっ(謎爆)。
 いや、軍事マニアってわけじゃないです、ボクは。

 ホワイトハウスじゃ日本の協力を歓迎する声明なんぞ出しとりますが、本当にヤるんですか〜。いざというときに鬪えない戦鬪艦艇なんて、石の狸だと思うんだけどなぁ。

 そういえば、大統領がOffice of Homeland Securityなるものを作るとか仰ってるらしい。米国という国家として歴史的なことだ。
 米国という国は、米国史を嚙ればわかるのだが、とにかくその成立から発展にいたるまで、州自治についての意識が高い。憲法にまで書かれているくらいだから相当なものだ。
 そんなわけで、米国軍は州議会あるいは州政府からの要請がない限り、国内に出動することができない。今回のテロでマンハッタンの街角に兵隊が立っているのを影像で見たと思うが、あれはニューヨーク州軍なのである。米国では、州がそれぞれ軍を編成して維持していいて、州の防衛(≒国土防衛)の第一勢力ということになっている。流石に海防に関しては沿岸警備隊という別組織が存在するが、とかく陸上に関して言えば(空中もそうなのだが)、州の軍備がモノを言うことになっている。
 じゃあ米国軍って何のためにあるのよ、という話になると思うが、米国軍は海軍・海兵隊でもって海外における米国権益の保護することを念頭において創設されている。海賊から米国船籍の船を守ったりするのが、当初の任務であったわけ。で陸軍はというと、昨今じゃおおっぴらに発言できないような任務についていた。米国土に住んでる……っちゅーか元々住んでたんだけど米国市民じゃない人達を居留地に押し込めるお仕事ですな(うわーい)。
 今じゃ両方とも米国の国益を守るために主として海外で頑張っております。
 話が逸れちゃったが、米国は対外的にはともかく、国内的には地方分権というか正に連邦国家の体裁であって、特に国家への権力集中を嫌う傾向がある。FBIの話は以前もこの日記でしたような気がするが、米国で国家が国内に対して統一的な権力を行使するのは、非常に難しいようにできている。そのせいで、米国内の犯罪搜査などは権力分散が過ぎて、私のような非米国人には何がなんだか分からない。以前、某宗教団体のガサ入れにFBIとATFが主導権争いをしていたが(両方とも連邦レベルの搜査権限を持っている)、もしかしたら国内でもよく分からなくなっているのかもしれない。
 とりあえずこれまでも大規模災害なんかにはFEMAがあったのだが、国防組織を新設するということらしい。
 「国の防衛は民兵で」という米国伝統の考え方からの転換か……?


2001年9月22日(土曜日)
 戦争ですね。
 「日本は参戦した」と考えるべきですよ。
 平和憲法なんて所詮そんなもん〜とか言ってしまえばそこまでですが、この国には平和憲法を守るために必要な覚悟も現実認識も足りてませんから。日本国憲法は、歴史に誇るべき憲法だったと思いますよ、それが実踐されていたら。現実には実踐されてないんだから、「ふーん。へー」ってなもんですけどね。
 もしかしたら、こんな私でも、子供の頃から徹底的に教育されれば、「たとえ銃を持った連中が攻めて来ても、決して武力(暴力)でやり返すな。非暴力で抵抗をせよ」とか言っていたかも知れない。つまり、死んでも暴力は振るうな、しかし服従するな、というマハトマな世界に到達したかもしれない。
 この国では、そういう教育はされていない。
 日本は、いつ終わるとも知れないこの戦いに参戦しちゃったわけで、こうなるともう、いつ空からジャンボがカミカゼしてくるかわからんわけですよ。で、参戦しちゃった以上は、もうしょーがないので戦うしかない。それも勝つしかない。勝たなきゃもうどうにもなんないです。戦争だもん。戦争するってことは、敵も味方も中立な人も沢山殺すってことです。せめて勝たなきゃお話になんないっすよ。敗けたら無条件で「悪玉」ですからね。せいぜい勝って気分くらいは良くなりましょうや。
 あ〜。この国って、どーしてこう覚悟のないまま決斷をするかな。

2001年9月23日(日曜日)
 色々考えていたことはあったんですが、結局本を読んで過ごしました、丸一日。目がショボショボですよ。
 昨日は医者へ行って終わっちゃったので、なんというか、不毛な感じがひしひしです。

2001年9月24日(月曜日)
 折角の祝日なのに、風邪ひいてるのって、不毛ですよね。ああ、不毛。

 ひのきいでろうさんの初の商業オリジナル単行本『W-face』全2巻が出てましたね。私が持っている「檜出郎」の同人誌が平成4年くらいからで、その時点で確か10年くらいのキャリアのある人だった気がします。あの頃からあちこちの賞に投稿してはあと一歩的な評を沢山貰っている人で、確かになんというか米村孝一郎をさらにとっつきにくくしたような作品を描いている人でした。
 暫く見ないうちに、凄くいい作品を描くようになってて、驚きました。
(無礼な文章だな……)

 “正しい”というのは、こういうことを言うのでしょうね
 この加藤先生のアピールは非常に正当性を持っていると思います。しかし、実効力は持っていないと思います。この主張に実効力を持たせられないところが、現在の国際政治の問題なのだと思うのですが、いかがなものでしょうか。

 「ガタケットへ行ったら飲まねばならない」という伝説があるという、新潟ローカルな「ヤスダヨーグルト」が意外にも比較的近くのスーパーにずらっと並んでいるのを見て、つい買ってきてしまう。
 確かに、癖になりそうな味わいではあった。

 風邪を引いている時は、取り留めもないことを考えてしまうもの。
 王子駅の「おうじ」というかな並びを見ながら、旧仮名遣いならこれは「わうじ」だよなぁとか思う。「au」音は「o:」へ音韻変化する上、w子音はa以外ではなくなるので、「わうじ」は「オージ」という発音になる。「う」は古代に「ng」音の音写に使われたので、「わう」は伝来時に「wang」という音だったのではないか……。
 とまあこんな取り留めもないことを考えていました。


2001年9月25日(火曜日)
 武田賞の賞金って1億円なんですかっ!? これはもう、BTRONのために私財を投じてもらうしかありませんよね、坂村センセっ(笑)

 今日は嫌なことが一杯あった一日でした。
 だからさっさと寢ます。


2001年9月26日(水曜日)
 外傷の痛みって無視して動けるのに、どうして内臓系の痛みって無視できないんでしょうかね。まったくお陰で寢不足ですよ。

 どおして今頃になってこんな書類が送られて来にゃならんわけ? というのが昨日の嫌なことの一つ。もうすぐレビューも終わりだってのに。しかも内容が内容だけに……。
 怒っても始まらないんだけど、なんというか、こう、手続きの順番が違わないかと言いたくもなる。わたしたちが最初の一例目だってことはお互い承知の上なんだから、愼重にちゃんとした前例を作る努力ってものをしないといけないと思うわけです。
 これが前例になるかと思うと、目眩がしますよ。


2001年9月27日(木曜日)
 ファービー人形は著作物性を認められないからパチモンを輸入販売しても無罪放免っすか。
 この判決は、多分究極のところでは間違ってないんです。
 問題点がどこにあったかというと、「著作物性」を争ってしまったところです。工業製品の著作物性というのは、かなり厳しく判斷されるのが通例なので、この場合は著作権法ではなくて、不正競争防止法で争うべきだったんですね。
 知的財産権にまつわる問題は、悩ましいところが多くて困ります。理念と実際、理想と欲望というか、とかく「あるべき姿」と「現状」が食い違い、あちらを立てれば〜的な状態に陷りやすいんですね。
 性善説に基づくのは明らかに無策ですが、かといって受益者を犯罪者予備軍扱いするのも難なんですよねぇ。

 ふと本屋に行ったら、某人型パソコンなコミックの三巻目が出てました。もちろん、通常版を買って帰りました。

 人型ロボットといえば、村田製作所まで手を出したそうで。無線遠隔操縦ときた。もうすぐプラレス三四郎の世界が……。
 個人的には、次の目標点は内骨格系かな、と思ってるんですが。
 外骨格では、自由度に限界がどうしてもあるんですよね。また、大型化したときのフレーム重量の問題がどうしても解決しません。また、人間の腰部、胴部の動きは、外骨格では模倣が極めて困難です。人間、あるいはさらにそれ以上を目指すならば、内骨格系の研究は不可避だと思うのですよ。
 もっとも、材料工学がある日突然外骨格系にとんでもない解決をもたらす可能性もゼロではないんですけど。


2001年9月28日(金曜日)
 14時から19時まで会議会議じゃ、流石に疲れちゃいますよ……。

 日本語学者のジョン・ハインズだったと思うが、対話における話し手と聞き手の責任関係を論じた文章を読んだ記憶がある。朧気な記憶なので、間違いがあるかとは思うが、おおむね、日本では話し手よりも聞き手により大きな責任が存在するとされていた。
 日本では説明する側の解説労力よりも説明を受ける側により理解労力の負担が科せられているわけだ。なるほど、司書過程においても、そうであったな。もっとも、司書のリファレンス・サービスは業務であるが。似たようなことだが、某氏がエッセイで「SEに求められるのは機械に対する知識ではなく、言語による説明能力だ」と書いていた記憶もある(これもうろ覚え)。これは当然逆説で、SEのくせに説明能力に欠けた人間が多いという話。
 話し手が説明能力を問われないというのはある意味天国のような世界で、何も考えずにコトバだだ漏れでも問題ナッシング、聞いてわかんない奴が悪ぃんだぜヒャッホーってわけだ。
 私自身については、高校時代、説明が非常に下手だという自覚があった。そんなわけで、大学に入ってから教職課程を取った。当時、自分自身『「教える」という技能を身に着けようとした』と述懷している記録があった。私にとっては、説明能力というのは先天的な天稟ではなく、明らかに後天的に身に着けた技能である。
 説明能力とは、自分自身の思考や理解・知識といったものを自己把握していることを前提とする。自分自身で順序立てて整理もできないものを、思い付くままに口に出して相手に理解させようなどというのは、心靈現象を起こしているだけだ。念力でスプーンを曲げようというのと大差はない。
 言語の伝達能力には、限界がある。伝えたいことを明確に正確に、相手に理解させるのはかなりの労力を要する。しかし、それ以外の方法がない。言葉は、不完全でありながら唯一の道具なのだ。それ故に、その使用には愼重にならざるを得ない。自分が何を伝えたいかも分からずに道具を濫用するのは、控え目に表現しても時間と労力の無駄というものだ。
 気の置けない友人と他愛もないお喋りを楽しむのと、意志伝達の道具として言葉を使うのでは、言葉の扱われ方は異なるべきだと私は思う。


2001年9月30日(日曜日)
 昨日はBTRON Clubからそのまま二次会三次会の徹夜カラオケでした。

 BTRON Clubの内容は……杉勇が美味しうございました。
 会長講演では武田賞の話とか他にも二つほど賞を貰ったとかいう話。
 それから、大阪府立大総合科学部第5回公開セミナーで坂村先生が「トロンが作る文字環境」という演題でぶちかますそうですので、関西在住の方々は襲撃準備をしておいて下さい(笑)。

 アーヴ文字登録についての発表をしましたが、どんなものだったでしょうか。坂村先生は久しぶりに私の発表で喜んでいたようですが(爆)。

 あと、TRONWAREのvol.71で「超漢字広辞苑」が発表になっていました。個人的には「無いよりましだけど、どうせやるなら『超漢字日本国語大辞典』にして欲しかった」ってところですか。

 喩話。
 死刑廃止論者が法務大臣になり、死刑執行命令書が回ってきた。これに署名をすべきか否か。
 答え。署名すべき。
 理由。職責は、個人の思想よりも優先されるから。個人の思想をなにより優先させたいなら、職責を負ってはいけない。この場合であれば、法務大臣の任を受けてはいけないということになる。
 どこぞの外務大臣殿はこの辺をどう考えても履き違えている。
 信じてもいないことを高らかに唱え、忌み嫌っているものをも全力で守るのが職責というものだ。