今日、仕事でぱる出版の本をWebから注文した。まあ、UIが悪いとか、反応が遅いとか、本が搜しにくいとかいう不満はあったが、その辺はまあ許せた。
許せなかったのは、注文確認のメールが文字化けしていたことだ!
大体、メールヘッダにContent-Typeが拔けている所からして抹殺ものなのに、eucコードを臆面もなく素で送ってくるなど市中引き廻しの上打首獄門、さらにはDNAがプラズマ分解するまで荼毘に伏してやろうってなものだ。
たまたま文藝家協会に私がいて、さらに僥倖なことに経由したSMTPが全てESMTPだったお陰で先頭ビットが拔け落ちずに済んだため、文章を復元することが可能だったが、もしこの二つの要因のうちどちらか一つでも欠けていたらと思うと、このオンライン販売システムを組んだ奴は、ウイグルの果て、タクラマカン砂漠のド真ん中でアッラーの捌きに身を委ねるくらいの反省はせねばならぬだろう。
いや、それでもまだ生ぬるい。今すぐ大谷大学へ行って片岡先生に弟子入りするべきだ。そしてあ…[以下検閲]…るべきだ!
今日は定時 + 30minで切り上げて、半蔵門から半蔵門線で神保町まで。神保町駅から御茶ノ水駅まで到達する間に、財布は隨分涼しくなり、荷物は愕然と重くなった。私が命名するところの「神保町現象」という奴なのだが、未だに原因を理解できない怪現象である……。
先月のマウスの件について、Y田さんから「こっそり使っていたんじゃない」との指摘が入った。ちゃんと周囲には斷ったと。でも「別に要らない」と言われたのだと。
じゃあ、アカウンタビリティの問題なのか?
定時 + 30minで切り上げて、今日は秋葉原へ。MS-AccessのDBの管理をやるのに、やはりリレーショナルDBのことを一からきちんと勉強せんとあかんと感じ、教本を探しに行ったのだ。
であるからして、間違っても「やっぱ駄目人間じゃん」とか「仕事帰りにデンパを浴びて疲れを癒している」とか考えてはいけない。
こうなると、図情大時代に阪口先生のRDBの授業を受けなかったのが悔やまれる。1コマ目だったからねぇ、流石の趣味人の私も受けようかって気が起きにくかった。(それでも図書館建築は受けてたじゃないかと言われると困るが……)
とりあえず、Accessの使い方をメインにしながら、RDB一般の解説をしている本が見つかったので、購入してくる。
書けば当たり前のことなのだが、アプリケーションは所詮応用なので、ちゃんと基礎を身につけることが大切だと思う。だから、「Accessの使い方」も大切だが、それよりも「RDBにおけるテーブル設計」をきちんと勉強せんとあかんと思うのだ。しかし書店のパソコンコーナーでは、どうしても「Accessの使い方」が前面に出ちゃうんだよなぁ。
テープ起こしを外注するときも、「データはプレーンテキストで」って言ってるのに、「Wordですか、一太郎ですか?」とか尋ねられてしまう昨今の状況が、とてつもなく嫌だ。
月末から月初めにかけて、未読書が積みあがる。そして月中にかけて消費されていく。ここに、「仕事で読む本」が三冊ばかり加わった。仕事で本が、それもただで読めることを喜ぶべきなのか、それとも嘆き悲しむべきなのか。
とりあえず判斷がつかないまま、小林めぐみの『暁の女神ヤクシー』を手に入れて読みふけるのであった。
先日ご連絡を頂いた上智大学の先生からまた連絡があり、『諸君!』に杉原関係の対談が載っているのを教えてもらう。職場にある『諸君!』11月号を手にとって、該当部を読む。
なんか、ちょっと対談者の選定に難があったかも知れないと思いつつ、楽しく読んだ。
明日は東大駒場キャンパスでの「非欧文言語におけるTeX」に参加する予定。
で、午後は駒場で「非欧文言語におけるTeX」に参加。
会場に着くと、なぜかきしもとさんがいたりして。文字鏡の谷本さんやら、中西印刷の若旦那やら、どこかで見(聞)知った人が……。
まあ、会議そのものはTeXの会議なので、要は見えるレベルでの多言語処理、ということになる。多言語処理の肝はインヴィジブルなところの処理だと私は考えているので、この会議そのものは可視化処理の最終段階、あるいは表示/印刷という末端部分についてということになる。
別に輕視しているつもりはない。なぜなら、人間はこの最終的な、可視化済み文字列を見てテキストを読解するのであるから、ここが正確であることは、最低限必要なことである。この部分を満たしていなければ、多言語処理以前の問題で、「テキスト表示もまともにできんのかい!」と罵られても文句は言えない。
別にどこかの特定OSを非難するつもりはないが、フォントが間違っているのは言語道斷だと思うぞ。
それはともかく、見えるレベルの処理というのは、本質的にはそれらしく見えてしまえばなんとかなり、あとは美しさを追求するくらいしかやることがない……と思っていたのだが、そこにはそれなりの苦労や努力があるものだと知った。特に、手輕に正確に美しく、という姿勢は一考に価しよう。
まあ、私の場合はTADの精度をいかに上げましょうかという考えになってしまうのですがね、最終的に。TADの場合、最終生成物としての印刷物だけではなくて、その前段階、前々段階にも気を配らなければいけないという辺りが、なかなかにしんどい所なのだが。
とかいうことを書くと、またπちゃんあたりと夜を徹して語り合わなければならなくなるのである。
デンパ大阪が、竹居さんに、「今年の栗苑祭は?」と訊ねていた。
「栗苑祭ってなんだっけ?」というのが最初の感想で、栗苑祭が図情大の学園祭であることを思い出せたのは、竹居さんが返答をした後だった。
薄情と言う勿れ。何しろ私は自慢ではないが図情大の学部に在籍したことはあるが卒業したことはないのだ。情が厚くなりようがないというものだろう。
加えて言うなら、学部の年の学園祭の時期は、もう既に院への進学を決めていて、それこそ週の半分以上を早稲田大学で仕事していた頃で、確か学園祭の当日も小林教授に付き合っていた記憶がある。修士の一年のときは確かBTRON Clubとぶつかっていて、修士二年のときは開学20周年の図書館の展示に追われていた(爆)。
つまり学園祭というものの存在そのものを感知できないような状況にいたわけである。
間違っても「実は協調性がないだけではないか?」などと思ってはいけない。
私がいかに協調性に富んでいるかを指し示すエピソードをご紹介しよう。
それは予備校時代の悪友とスキーへ行ったときのことである。
スキー場へ着いて、スキーを履いて、リフト券を買ってきたら、友人達がはぐれていた。約5分間の待機の後、小熊は一人でリフトに乗ってゲレンデへと向かった。
一日一人でスキーを満喫し、夕刻宿へ戻って、茶を啜って本など読んでいたところへ、はぐれていた友人達が帰投してきた。
どこをほっつき歩いていたのかと思っていたら連中はこういったものだった。
「な、絶対こいつのこったから、一人で好きにやってんだって! その通りじゃん」
つまりリフト券売り場で私からはぐれた連中は、それこそ合流など考えずに好き勝手に一日を過ごしていたのだ。
まったく見事なまでの協調である。
……ちょっと例が悪かったような気はするが、とにかく、このように集団行動の中において全く心配する必要性がないほど協調的な人間なのである。
しかし……今日一日で、どれだけのテクストを読み、そして書いただろうか? 大体、この日記だって毎日毎日書いてるワケで、月にすると結構な量だ。読む方にいたっては、新聞雑誌小説漫画に隨筆ルポ、挙げ句に技術論文やら報告の類まで含まれる。
結局好きなんだろう、文字と戯れるのが。
もちろん、間違ってもR.O.D.ではないのでご注意。
今年のF1グランプリは、M.シューマッハーの優勝に終わった。ついでに、コンストラクターズでもフェラーリがぶっちぎりで優勝。順調に行けば、来年はカーナンバー1をつけた赤い跳ね駒が見れるはずである。っつーか、私が物心ついてから初めて見る、ナンバー1フェラーリってことになるな。
nyちゃんと待ち合わせて、東急ハンズへ鍋を探しに行く。なかなかよい鍋がなく、あっても非常に高くて困る。悪いものが高いよりはいいのだろうが、予算が余り豊かではないこちらからしてみると、よいものを廉く手に入れたいものだ。
売り場を延々回って、色々物色して、最後にステンレスの鍋を買ってくる。
中華鍋が欲しかったのだが、ピンキリなんだよね。チタンの中華鍋があって、個人的には心惹かれたんだけど……値段が。
鍋を買った後は、紀伊國屋でnyちゃんの生命力補給。nyちゃんは本を読んでいないと死んでしまうR.O.D.なので、週に一度は本屋へ行って本を補充しておかないといけないらしい。大変だねぇ。
二人とも起きたのが午後だったこともあり、この後夕食を一緒にとって別れる。
で、なんと家に帰ってきた私は早々に寢てしまう。
だって明日は出張なんだもん。
この先は協会の内部的な話とは無関係に、一般論として、墓というのは極めて厄介にできている。何もしなくても維持費はかかるし、親類縁者が居なくなったからといって取り壞すこともできない。土地の再利用も難しいときている。
経営的観点からいくと、あまり好ましくない事業ということになるのではないだろうか? 宗教法人ならともかくね。
そういえば、文學者之墓の隣は、満鉄の慰靈碑だった。思わず写真を撮ったりしてきてしまった。
帰京後、協会に行って、事務仕事を少々。
人的資源の不足は如何ともし難く、不本意ながら残業。
昨日の日記で「チタンの中華鍋」と書いたところ、某駄目人外画伯から「中華の基本は鉄だ!」というツッコミが入った。
ついでにフェラーリはシューマッハー移籍の年にカーナンバー1をつけてたじゃないかとも言われた。言われてみれば、確かに。
うっかりミス。
そろそろ、BTRON関係で何か動きがないとおかしいというか、水面下の動きがどっちの方向へ進んでるのやら、浮上するのか沈没するのか、いい加減一般にも分かるころだと思うのだが、どうなっているのだろうか。
沈没した方はどうするのやら。
などと散々意味深なことを書き散らしておく。
今日は次々と仕事が襲いかかってきて大変だった。
連休+出張分で溜まった仕事を片付けていれば、その間に死人がでるし。複合機導入の機種選定はいよいよ大詰めだし。
今日のニュースは「多漢字OS応用部会」ですかね。ええ、文藝家協会からは、下っ端ヒラ局員Aさんが出動することになる予定です。
まあ、あんま大したことはないとは思いますが……「多国語への展開」あたりに不安なものを感じませんか? もしくは不穏なものを感じませんか。もっとも、下っ端ヒラ局員Aさんは“埋没せる個性”をモットーにしているので、部会を崩壞させたりはしないのですよ。タブン。
ペルソナ・ノングラータ指定されて放逐されたりして(爆)。
協会気付私宛に、工作者から『超漢字超解説』が届けられた。それ自体は、まあよい。だが、どういうわけか汚損していた。
やはり郵政省には私を個人的にマークしている連中がいるのではないだろうか。いやしかし、私にはマークされるような覚えは全くない。ということは、デンパな郵便物を見分ける特殊郵便局員がいて、「むむっ。この中身は怪しい! 絶対に怪しい! バリバリくる」とか言いながら工作者や我が友人の郵便物を見分けてマーキングしているのか。
恐るべし、郵政省。
18時に職場を逃げ出すように飛び出し、本屋へ向かう。そろそろ手元に新刊書のストックがなくなってきているのだ。私はR.O.D.ではないが、本が手元にないと無為に時間を潰してしまうクチなのだ。
しかし配本日の谷間でもあり、めぼしい本は手に入らなかった。
輕めの本を手に入れて、読み読み、京浜東北線で帰ったら、王子を通り過ぎて赤羽まで行ってしまった……。
昨日のことになるが、私が本屋へ行きたくてうずうずしていると、こう質問された。
「買った本は、どうしてるの? 順次捨ててるの?」
「いいえ。基本的に溜め込んでますが」
「それじゃ本多いでしょう」
「そうですねぇ、まあ2tくらいですかね」
「部屋に入り切るの?」
「ちょっと無理して、本のために広い部屋に住んでますから」
といって、書庫の写真をWeb経由で見せたところ、こう言われた。
「人の住むところないじゃない」
いや、だからそこは書庫であって生活空間ではないのだが……。
生活空間の方も本に侵食されてきているのは一応秘密。
『出版社と書店はいかにして消えていくか』という本を読んだ。仕事がらみで。
現在の出版業界の置かれている危機的状況を対談という形で解説したものだが、今ひとつ物足りない。あるいは、続編(?)の『ブックオフと出版業界』を読むべきなのかもしれない。
全体的に、用いられている数字に推測が多いことがその原因だが、これはどちらかというと出版業界の不透明性に起因している問題らしいので、筆者の力量だけに問題を帰するべきではないのかもしれない。
この本を読んで、近年の価値観の多様化と、価値共有コミュニティーの電子ネットワーク上への展開に思いを馳せた。
極端なことを言えば、社会における共通価値判斷基準は、お金以外にはない。一応斷っておくと、お金以外の価値観を否定しているのではない。ただ、共有できない(あるいは困難である)、と言っているのだ。
付けられている値段が妥当かどうかを判斷するためには、それなりの目利きが必要だ。値段を付ける方もだが、もちろん、買う方もだ。しかし、この価値観が多様化してしまった社会では、目利きですら、「ある一種の価値観」でしかない。つまり、それは共有しがたい価値観の一つでしかないのだ。
ブックオフは、本の価値を内容で判斷しない。なぜなら、価値観の共有が難しいからだ。しかし、例えば見てくれの綺麗さだとか、新刊本だとか、という価値観は、比較的容易に共有することができる。そしてその価値観に基づいて値段を付ければ、その本の内容の価値を知っている一部の人間以外を納得させることができる。
では旧来の、価値観共有を前提とした商売は成り立たないのか? ところがどっこい、これも生きているのだ。但し、距離的な問題をものともしないインターネットの上で、なのだが。
旧版の『星虫』がネットオークションで3,000円の値段を付けたと聞いたとき、ふと私の手元に7冊あった『星虫』の価値を推し量ってしまったものだ。どれもこれも、大抵古本屋で100円とか200円とかで手に入れてきたものだったのだが。
なんとも言いがたいね。
今日は新刊本の配本日なので、定時 + 40minで退勤して神保町を目指す。首尾よく新刊を入手して、そのまま秋葉原へ向かい、パーツ屋でキーボードを2枚、合計1,050円(税込)で買った。
協会でノートパソコンをあてがわれている人が、「フルサイズのキーボードが欲しい」と言ったので、使用頻度の低いマシンのキーボードを引っこ拔いて接続したところ、「そんなことができるんなら私のも!」ということになり、結局2枚ほど調達することになったのだ。
HITACHIのフローラ用キーボードと、UNISYSのキーボード。両方とも手垢と埃にまみれてどろどろ。家に持って帰って分解清掃する。
はっきり言って、日立のキーボードは、分解しにくかった。その点UNISYSのキーボードは、分解清掃しやすくできていて、好感が持てる。やはりキーボードは年に一度は分解清掃するものだから、メンテ性は考えて作ってもらいたいものだ。
どっちのキーボードも、クリック感のない、ソフトタッチなラバードームを使ったメンブレンスイッチキーボードなので、私の好みではないが、私の好みでキーボードを選ぶと、ガチガチのスプリング使用メカニカルタッチなものになってしまい、職場での評判はよろしくないのだ。
キーボードは、最も基本的なHMIの一つで、努々疎かにしてはいけない。
究極的にはTRONキーボードのようなエルゴノミクスデザインに行き着くのだろうが、残念ながら、現時点で私の手に合うTRONキーボードがない。私の指が少々短いため、Mサイズでは手に余るのだ。Sサイズ……あるいは、特注品が欲しいところだが、そんなことを言い出すとキリがないので、とりあえずは106キーボードで我慢している。
機械式タイプライターでタッチタイプを習得した私の打鍵はかなり激しく、ノート型PCのキーボードのキートップが吹っ飛んだことがある。従って、ストロークは長く、テンションは高く、重くて頑丈なものが良い、という選択になる。
昔のIBMキーボードや、DELLキーボードだね。
それにしても、どうして廉いパソコンは、まずキーボードがヘボいかね。
BTRON Clubの発表申込〆切を1週間勘違いしていたことに気付く。先週の金曜日がリミットだった。しかし、なぜか申請は通ってしまった。
仕事が終わった後に、休日出勤組で“ちゃぽん”という店に食べに(呑みに)行ったら、メニューに杉勇があった。ここは一つ飲まねばなるまい、と注文して大吟釀を味わう。なんか以前失敗したような気がするので、一杯だけだ。
図情大の友人、西森さんからメールが届いて、論文が雑誌に掲載された旨、連絡を受けた。Webでも公開されているらしい。皆さん、着々と活躍しておりますねぇ……。
一般論として、コンピュータ導入による効率化を考えるときに忘れがちになるんだけど、その作業そのものにも労力がかかる。ソフトをインストールして回ればそれだけで一日が潰れる。データベースの設計は一日や二日の仕事じゃない。手順書や各種ドキュメントの整備も大変だし、教育にかかるコストまで考えると、本当にコンピュータ導入をするめるべきか否かを充分考える余地がある。特に、スケールメリットが出ない、小さな職場では、だ。
その点、超漢字は、導入・教育のイニシャルコストが小さくて済み、運用における小回りも利くので個人的にはもっと仕事に使えるようになって欲しいと考えている。願ってはいるんだよ……。
昨日は、多漢字OS応用部会の趣旨説明会でした。ちなみに、文藝家協会は昨日は委員会ダブルヘッダーだったため誰も参加できず、とある方に間接的に内容を知らせて貰いました。内容については部外秘なので、なにも書くことができません。
ま、全ては部会設立の後に……。(オタノシミニ?)
そんなこんなで、寢不足で仕事に身が入らなかった。忙しかったのだが、手際が悪かった。
結局、これでは駄目だと18時に退勤し、本屋と秋葉原に寄って帰る。帰ったら、すぐに寢てしまう。
今日、帰宅間際になって判明したミスが一つ。
通勤時間に読むための本を、毎朝2〜3冊携行するのだが、選択を間違えて、読み終えた本が1冊入っていた。帰りの電車の中で笹本祐一『星のパイロット4 ブルー・プラネット』を読み終えて、さあ次と思って取り出したら、既読書だったのだ。
仕方がないので、後の時間を車内広告などを読んで過ごす。自分にしては珍しいミスだと思った。
くっだらない話なのだが、MS-Accessで確実にテーブルをぶっとばす方法を見つけた。再現性100%。話にならん。つまり、この機能は使うな、ってことなんだろうな。
とりあえず今日一日で、秋山完『ファイアストーム』を読み切った。最初は、「あれ? 今回はアキヤマワールドぢゃないの?」とか思ったけど、すぐに春紫苑やサイバーペストが出てきて安心しました(笑)。最後の最後にゃフランちゃんも出てきましたから、ポニテがお好みな人にもお薦めです(謎爆)。
ところで、秋山作品はあとがきまで全部含めて作品なわけだが、前作『ペリペティアの福音(下)』の後書きで触れられていた「超古代文明の亜光速保存船」について、これを送り出した文明の名が「ヲ・タク文明」であることが今回の後書きで明かされていた……。
なんか名前を聞くだけで怪しいデンパが漂ってきそうな文明だ……。
そういえば秋山完と言えば「天象儀の星」はどうなったんでしょうか? グリフォンを創刊号から持っている私としては、気になって仕方ないのですが。
最近、BTRON Clubの原稿を出力するのに非常に困っている。
職場の近くのコピーセンタの出力体制が、アプリべったりなため、ベタなpsファイルは対応してくれないし、pdfはAcrobatが3.0だから埋め込みフォントに対応してないし……。せめてghostscriptとgvくらい入れとけよな。
そういえば、某所から送られてきたpdfファイルは見事に文字化けしていたなぁ……。
一週間ほど前から風邪をひいているのだが、なにしろ書記局が忙しいので、今誰かが拔けると仕事が回転しなくなる、と元気に出勤していたのだが、とうとう今朝、扁桃腺が腫れて熱が出てきた。わーい。
喜んでいる場合じゃなくて、とりあえず買い物へ行って栄養ドリンクなどを買ってくる。前々から思ってるんだが、どうしてあのテの栄養ドリンクにはPETボトルがないのだろうか? いや、あっても恐いんだけど。
それにしても、土曜になってから悪化するってのもいい根性してる風邪じゃないか。土日で直せ治せってか。
NHKスペシャルを見ていて、眉を顰める。ボスニア紛争を舞台に、情報コンサルタントがいかにして米国、ひいては西側の世論を操作し、巧みに“状況”を作り上げていったかを追いかけていた。
別に今に始まったことではないし、これが現実だと解ってもいる。しかしそれでも一種のやるせなさというか、無力感というか、そういったものを感じてしまう。
民主主義は健全な世論の形成を前提として成立している。それ故に、悪意、あるいは故意というものに非常に弱い。その姿は病弱な苗にも似ている。
ちょっと手をかけるのを怠ると、あっという間に枯れてしまうのだ。