仕事は大量にあるのだが、一つ一つの仕事が小さい。ということは、小回りを利かせて、回転よく仕事を片付けるのが吉。……のはずなのだが、人間そうそううまくはできていないわけでありまして、また順番というものがありますので、一つ上の方でつかえていると、下っ端としては切歯扼腕なんてことも有り得るわけですな。
とりあえず、8日に協会ニュース(月報)の入稿なので、今は原稿を書いては行数をカウントする。
しかし……DTPにどっぷり漬かっていたもんだから、「字数×行数×段数」という文化に久しぶりに触れた気がする。
TRON Timesの7月31日に「なぜ今昔文字鏡より、文字数が少ないのか(中略)この辺の説明をしないと後に出てきたくせに今昔文字鏡より、収録文字の少ない、だめな文字セットだと思われるだろう。」とあったが、理解しがたい意見だ。漢字という奴は同定基準によって字数が結構変わるものだし、なにも多ければ良いという問題でもない。
今昔文字鏡と同じ考え方に立って、今昔文字鏡と同じような集字方法を取れば、今昔文字鏡と同じようなものができあがるであろうが、それに何の意味がある?
超大規模漢字セットにとって重要なのは単純な字数の多さではなく、その選別にどのような意志が働いたかである。
京大のe漢字が今ひとつメジャーになりきれないのは、そこに原因がある。e漢字は独自の文字セットを未だに用意していない。このため、現時点ではe漢字は単なるフォント作成プロジェクトと変わらなくなってしまっている。
(実際の集字努力を知るだけに、残念である)
今昔文字鏡はこの点、多数の研究者がボトムアップ形式で文字を持ち込んでは作字することにより、超大規模文字セットとなりおおせたが、全体としての統一性は逆に持ち得ない状況に陥っている。
GTに関して言えば、そこには山口明穂と言う一人の学者の意図が作用しているため、いわば「山口明穂文字セット」となっているところが強みでもあり、また弱点でもある。山口明穂先生の意図と違えば、どれほど使いたい文字であっても入っていないし、今後も入らないだろう。
これらの利点・弱点を相互に見やりつつ、仕事の内容に則して適切な文字セットを使い分ければ良いのだ。
もし単純に字数が多いことが優秀であるということであれば、なにも議論は必要ない。CNS11643が最も優秀な文字セットだ(嘲笑)。
協会のWeb Pageが、昨日付けで新しくなっているが、実際に更新されたのは今日。このタイムラグはなんなんだろう……。どうせmediagalaxyとの契約は来年2月までだそうなので、来年1月くらいからsakuraネットに切り替えるよう上申しよう。
先日のことだが、読売新聞でルビが使われているのを発見して驚く。
戦中、人手不足を理由としてルビを廃止し、戦後は国語改革の波に乗り、「漢字を制限すればルビは必要なくなる」とか言って積極的に當用漢字の後押しをしたのは、他でもない新聞社だったはずだ。それがルビを復活させていたとは。
複雑な気分というか、ちょっとだけ「恥知らず」と言いたいような気分。
ルビ復活そのものは良いことだと思うし、もっと積極的に復活させて欲しいものだ。
退勤後、Filofaxを買ってくる。
学生時代から使っていたシステム手帳が手狭になったので、ゴツくて頑丈なのが欲しかったのだ。Activeというモデルのカーキ色があったので買ってくる。
しかし、28ポンドのものを日本で買うと1万円弱とは……。
あちこちから、小林めぐみさんの『続・大地をわたる声を聞け』が届いたとの報あり。全体的に好評のようで、編輯担当としても嬉しい限り。
編輯といえば、今日は協会の月報である『文藝家協会ニュース』とその号外の編輯が主な仕事だった。
とはいえ、私のDTP技能は全く活かされることはなく、ただひたすらに行数計算あ〜んどテキストファイルの修正である。あとはこのデータを印刷屋に渡せば「あとはよしなに」と言って終わりである(笑)。
ある意味、古式ゆかしい伝統的な印刷形態と言えよう。
はっきり言っておくが、協会で私のDTP技能を生かそうなどとはこれっぽっちも思わない。確かにそれだけの技能は確かに私にはあるが、環境には100万円単位での投資が必要だし、使いこなせるのが私だけでは恐くてやってられない。
重要なのは、いつでも代替が利く運営体制を確立することであって、誰か一人の特殊技能におんぶだっこした効率化を進めることではない。
と、弱冠26歳の小熊は悟った風に語るのであった。
例年この時期になると、NHKなどは原爆関係の特集を繰り返す。個人的にはとても興味がある事項なので、趣味が合う限り視聴するようにしている。ただ、私は基本的姿勢として、広島・長崎への原爆投下を否定するようなことはしないし、「何はなくとも核廃絶」という人間でもない。そもそも、戦争絶対反対などと唱えることもない。もちろん戦争は嫌いだが、必要悪としてその存在を認識している。
歴史屋だからね。
さて、そんな人間が核兵器をこの世界から廃絶するための方策を考えたら次のようになる。核兵器を廃絶する最良の方法は、核以上の破壞力を持ち、なおかつ核以上の制御性を持ち、無制限から限定使用までの幅広いニーズに応え、かつコストパフォーマンス的に核兵器を凌ぐ兵器を開発することである、と。放射能を出さない、というフレーズがくっつけば最高だろう。要するに、核兵器を兵器として時代遅れのシロモノにしてしまうことだ。そうすれば、軍馬や山砲のように、核兵器は歴史の中に葬り去られるであろう。
しかしどういうわけか、核廃絶を訴える人々にはこのアイデアは不評である。不思議なものだ。
夜、てつまよしとうさんから電話。授賞式のために上京してきていたのだ。今日のところは、授賞式から呑み会で、編集者ともあまり突っ込んだ話しはしなかったらしいが、それだけに幸先厳しいことを感じ取っていたようだ。
なにはともあれ、作家になりたいと志して努力してきた彼の、ここはまだスタートラインなのだ。
16時半頃に、地震があった。小笠原が震源だったらしいが、我が家は震度1〜2程度だった。
が、運悪くその時私は書庫に居た。
もちろんダッシュで逃げ出したことは言うまでもない。
新本棚は全く無事だったのだが、一本だけあるスチール本棚が揺れる揺れる。薄い上に固定してない、さらに辞書を詰め込んであるためトップヘビーと、条件が揃っているものだから。
いやぁ、倒れなくて良かったよ。
広島の原爆記念日。
今日のNHKスペシャルは非常に良かった。原爆投下後の広島において、焼け残った小学校の壁に書かれたメッセージ。当時を知るための、貴重な資料だ。あらゆる社会基盤が崩壞した中で、伝言板という形に一縷の望みを託した人達の心はいかようであったろうか。
戦争の現実を伝える良い番組だった。
言うまでもないことだが、戦争などしないにこしたことはないのだ。物事が常に平和裡に解決されるのであれば、それはどれほど素晴らしいことかと思う。
だが、残念なことに、過去もそして現在も、武力を用いなければ解決出来ない問題が世界に転がっていることも確かなのだ。話し合いだけで物事を解決して納得するには、人類は狭量に過ぎるのだ。
残念なことだが。
協会の月報の入稿を翌日に控えて、行数をカウントする毎日。うーん。MS Wordってどうしてこう使いにくいんだろう。こういう字数組の時は、『パーソナル編集長』あたりの方が使い易いと思うぞ。PageMakerは明らかに向かないが。もっとも、パソ編でレイアウトの確認だけするってのも、かなり変な話なんだが……。
う〜ん。
丸投げの方が気持ちよくていいかも……(爆)。
朝、訃報をチェックしていたら(註:これは協会の重要な職務である)、アレックス・ギネスの訃報が流れていた。アレックス・ギネスといえばスターウォーズのオビ・ワン・ケノービー。寂寥の念強く、誠に残念なことだが、永遠に生きられる人はいないのだ。冥福を祈りたい。
今日は協会の月報の入稿だったのだが、ぎりぎりまで作業を続けた挙げ句、入稿した後に指定忘れを思い出してのたうつ。まあ、今回は私の初担当ということもあって、校正期間を少し長めにとってあるので、校正で赤入れましょ。
しかし、直前までやっていたことが、「ああ、また行が余った! ああ、足りない! 見出しが浮く!」とかいうのでは、なんというか、DTPってどこの世界の話だっけとか言いたくもなる。
明日から14日まで夏休みを取った。ゆっくりしたいが、そうもいかないだろうな。
夜、雷雨。果たして週末の天気やいかに?
コミケット自体はなんとか平穏に終わった。ここ何年か、放火事件やら妨害工作やらで穏やかではなかったものだから、余計に平穏に感じるのかもしれない。
しかしコミケットそのものは人畜無害であるはずなのだが、何しろ規模の暴力とでも言うべきか、三日間で延べ100万以上の人間が集合するわけだから、各方面に及ぼされる影響は無視できない。
それでもこんなイベントが年2回もまがりなりにも行えるのは、日本だからだよねぇ……。
昨日の一件で印刷所へメールを出しておいたら、夜、電話があった。
隨分と丁寧な応対をして頂いて、好感度アップ(笑)。ミスは仕方ないのだが、その後の対応一つでこちらの心証は大きく変わるものなのだ。
不幸な出来栄えになってしまった本だが、できるだけ早い段階で修正第二版を出したいものだ。
明日から仕事なので、買い物に行って、弁当のおかずなどを買ってくる。
岐阜県八百津町に杉原千畝記念館があると聞いた。
私が「日中戦争期の、日本の対ユダヤ政策を研究していました」と言うと、「杉原千畝ですか?」と反問されるくらいに有名な人になった。明確な名前まで出せなくても、「ユダヤ人をたくさん助けた人」と言われることも多い。
(もっとも、研究そのものから言えば、杉原千畝はいわば端役に過ぎず、中央に陣取るのは安江仙弘陸軍大佐と犬塚惟重海軍大佐なのであるが……)
杉原の決断と行動を誉めるにやぶさかではないが、気をつけてもらいたいこともある。
一つは、彼の行動は外務省の決定に反するものであり、事実戦後、彼は外務省を解雇されている(殆ど言いがかりだったが)。つまり彼は良心の対価を失職という形で払ったのだ。
「良心の対価を胸を張って払いなさい」
と教えるのは簡単だが、実際にそんなことができる人間など、多くはいないのものなのだ。
退勤後、秋葉原に寄る。
もちろん仕事である。仕事なのであるから、書泉ブックタワー3Fで学研の「大人の科学」に胸ときめかせていたりはしないのである。
それはともかく、こうもちょくちょく仕事帰りに秋葉原に寄るなら、いっそのこと、通勤ルートを営団南北線から、JR王子→神田→四谷ルートに切り替えてしまおうかとか考えてしまう。そうすれば、秋葉原が通勤ルートに入ることになり、毎日でも秋葉原に寄って帰れる。
沈思黙考0.5秒。
それじゃまるで俺って駄目人間みたいじゃん!?
危ない危ない。
もう少しで脳の髓までデンパに染まって、こちら側に帰ってこれなくなるところだった。
自転車が欲しい。それも折り畳み式の。
そう強く思うようになったのは、東京に出てきてから。
東京は公共交通機関が発達している上に自動車はつねに過密なので、自転車のような小回りの利く交通手段が補助手段としては好ましいわけだ。そんなわけで公共交通機関の中に持ち込める折り畳み自転車に、魅力を感じるようになった。
しかし私は結構ワガママな性格をしているので、そこそこ注文が厳しい。
簡単に折り畳めるものがいいし、折り畳んだ時にかさばらないのはもちろんだ。ついでに技術的に面白ければなおのこと良い(笑)。
ちなみに小熊は決して自転車オタクではない。たとえこれまで選んだ自転車が丸石自転車のシャフトドライブ車だったり、部品かき集めて作った自作ママチャリだったり、ラクッションだったりしても、だ。
で、つらつらとWebを漂っていて見つけたのが、この「トランジットT200 CS」。輪行するには少々重いが、この奇拔でありながら実用本意なデザインが良い。泥除けがつけられないので、雨の日は少々困りそうだが。
折り畳み自転車ならやっぱりベルトよりシャフトだよな! でも何なんだよこの値段わっ。
今日の仕事は修羅場になるのが昨日から分かっていたので、覚悟していった。
2稿が出ている段階で1面に記事の差し込みだもんね。レイアウトは全ページやり直しだし、はじき出される原稿をえらばにゃならんかったし。ついでにMS-Wordは使いにくいし。
しかし……仕事で編輯をやって、家に帰って趣味で編輯やってるのって、なんか馬鹿だよなぁ。
ふう。©ny
午後3時からお出かけ。まず職場の近くのMAIL BOX ETC.へ出向いて、ちょっとしたPostScriptの出力をしようと思ったが、ここで引っ掛かる。
以前仕事帰りに寄って「PostScriptの出力できますか?」と聞いた時に「できます」という話だったのでMOにPSファイルをぶち込んで持っていったら、PSプリンタはあるのだが、備えてあるPCにはlprがない……? PSファイルを直接持っていっても出力できない。
なんだそりゃ!
これだからアプリケーション至上主義の文化は嫌いだ。こっちが汎用フォーマットに揃えれば揃えるほど、使いまわしがしにくくなっていきやがる。
結局出力できないまま、四谷から東福生へ向かう。夏コミ新刊をそれはもう見事な仕上がりにしてくれた印刷所へお礼参り……じゃなくて、再印刷の手続きに。ところがその場でDTPの奥深さについて話し込んでしまった。
InDesign 日本語版が使い物になるソフトだといいねぇ……。
NHKの『世紀を越えて』は今日からまた新シリーズ。こんどは技術。第1回の今日は、トロイダルCVTの話だった。
実用化したのは去年の末だったが、隨分驚いた記憶がある。なにしろ、原理だけは100年前からあったものの、実用化の目処がつかない技術の一つだったからだ。まあ、技術の世界にはこのような話はザラにある。理想的なものが必ずしも実現可能とは限らないのだ。ロータリーエンジンなんかもその典型で、技術的には劣るはずのレシプロエンジンの方が、今や燃費もなにも上を行っていたりする。
今回の特集を見ていても感じたのは、「匠の技は大事にせんとあかん」という一言に尽きる。
私はどちらかというと多芸な人間に分類されてしまうのだが、一芸に秀でた匠には深い憧憬を感じる。多芸な人間など、現実には無芸な人間に等しい。あれもこれもできる人間よりは、これこそは、という技能を有している人間の方が、結果としては大きな仕事を為すものなのだ。
郵便受けを覗いたら、妙な郵便物が入っていた。
まず、住所が違っている。次に、名前が違っている。最後に、間違いなく私宛の郵便物だった。
……。
私はこれまで、どういうわけか非常に奇怪な郵便事故に度々遭遇してきた。それはもう、郵政省が私に何か個人的な怨恨でもあって狙い撃ちにしているのではないかと邪推したくなるほどなのだが、今回のはまた凄い。
住所が違っていて、宛名が違っていて、それでも狙った人間のところに届く郵便って一体なんだ? もしかして住所も宛名も不要で、「あの人へ」とか書いて送っても届くんじゃないのか? 凄いぞ郵政省! 心眼でも装備したのか!?
なんかコツでもあるんだったら教えて欲しいものだ。
ふとポッカの自販機でヴァージンコーラを見つけた。
ヴァージンコーラは、結構華々しく上陸した記憶があったのだが、どうも日本市場に受け入れられなかったらしく、一時期すっかり姿を消していたのだが、どうやら復活したらしい。
個人的にはコカ・コーラよりペプシが好きで、ペプシよりヴァージンが好きで、それよりもロイヤルクラウンコーラが好きだ。ちなみにRCコーラは現在日本では殆ど手に入らない幻のコーラになってしまった……。
久しぶりに飲んだヴァージンコーラは、なんとなくRCに近い味わいになったように思うがいかがだろうか。
そういえば最近ダイエットPEPSIが合成甘味料を変えて味が大幅に変わった。以前は飲めたものじゃなかったが、今はそこそこ飲める味になった。
なお、小熊はコーラマニアではありません。
実は半休というか、午前中は郵便局と銀行とへ行っていました。例の国保税を払うためなんですが、つくば市の国保税の納入場所が、殆どつくば市とその近辺に集中していて、最初どうしようかと思いましたよ。幸い、上野に常陽銀行の支店があったから良かったものの……引っ越した先によっては、大変苦労することになるのは間違いないね。
で、それでも昼前に出勤してみれば、既に一人目の訃報が舞い込んだ後。
そして暫くの後に二人目の訃報。……というか、これは連絡というべきか、判明というべきか。
そして定時直後に三人目が。
他の仕事なら待ってもくれるが、人死にだけは待ってはくれない。弔電を手配したり香典を手配したり会員名簿を管理したり月報の草稿を書いたりしているうちに、時刻は20時を回る……。家に帰った時には21時半。
なにごともため込むのは良くない。コンスタントにお願いしたいものだ。
東京へ出てきて、研究も続けたいと思っていて、あちこちの大学図書館の情報を調べているのだが、どこもここも紹介状が必要といいやがる。私の仕事は書籍の形態学に関る部分が多いので、ターゲットが最初から分かっていることは少ない。あてどもなく書庫の中をうろつきまわる行為が、結構重要なのだ。(砂漠の中で真珠を捜す行為に近い)
さてそうなると、毎回毎回紹介状を出せとか言われるとまどろっこしいし面倒だ。所属研究機関がないので、紹介状は近くの公共図書館で書いてもらわねばならぬ。手続きが大変だ。
図情大のようにフリーパス、あるいは筑波大のように紙一枚という大学図書館がいかに有り難かったかよくわかる。
他にも、首都圏の大学はキャンパスが分散していることが多く、それぞれに図書館が分館を持っていたりして、物理的に一元利用が困難だったり。
あ〜あ。これじゃ研究が進められないよ……。
国会図書館はこの場合使い物にならないし、あとは都立図書館くらいかなぁ……。あんま期待できないけど。
協会の電話機が普段とは違う着信音を鳴らした。原因は、電話機の電源プラグがコンセントから拔けていたこと。
というと、「コンセントが拔けているのにどうして電話が使えるのか?」と疑問の声が上がった。
……。
電話線には電流が流れている。電話機はその電流を使って送受話を行う。電話会社は電話線に規格電流を供給する義務があり、この電源は家庭用電源とは別である。このため、停電になっても電話機が使用できるわけである。
この電話用電源は送受話にしか使用できないため(通電=受話器を上げた状態)、電話機の他の機能、例えば無線子機との通話のための電波送受信などには別途電源を用意せねばならない。それを通常の家庭用電源から取っているのである。
(今回は、電話機のコンセントが外れていたため、電話のごくごく基本的な機能しか働かない状態になり、通常の着信メロディーではなく、無粋なビープ音が鳴った、というわけだ)
極一部の怪しい人たちは、直流48Vをここから盗電したりもするが、これは勿論違法である。
……と説明すると、なぜか局員一同は、私のことを胡乱な目つきで見るのであった。ただの常識じゃないか!
客 | (クレジットカードを握り締めてレジに詰め寄る) |
---|---|
店員 | いらっしゃいませ。 |
客 | (血走った目で)『鵺姫真話』下さい。全部。 |
店員 | ……はい? |
客 | だから、この店にある『鵺姫真話』、全部下さい。 |
店員 | ……え、えっと、お客さま? |
客 | 急いで! 次の店が待ってるんだから! |
その後は、明日の準備。結構一人だと時間食うわ。15時くらいから23時くらいまで断続的に……。
夜中は夜中でFTRONのチャット。
昨日から、妙に東京のデンパが濃ゆいと思っていたのだが、会場でデンパ大阪を発見し、納得する。そうか、そうだったのか。
今日のコミティアは、挨拶回りをしたあとに、自分のサークルのゲラチェックに入ってしまったため、殆ど巡回することができなかった。それなりに楽しんだけどね。
コミティアが終わった後、デンパが私の後を憑いて追いて来る。私がたまたま偶然何の気なしに録画していた『デ・ジ・キャラット』のアニメを鑑賞&ダビングするためらしい。恐ろしい男である。
デンパ大阪とは、その後21時くらいまで、あちこち移動しながら一緒にたむろっていた。
なんか私の家を出る前に、私の書庫に入って「元気だったか!」とか、私の本と会話していた。彼が言うには、「本には魂がある!」のだそうだ。私には分からないが。
分かりたくもないし、分かることは一生ないであろう。
この世には費用対効果という考え方があって、いかに効果が絶大であっても、それにかかる費用が過大であれば、そのアイデアはまず実行されない。適正な費用の上での十分な効果という奴を常に考えていなければならないわけだ。
職場でSEマガイの仕事をしていると、コスト意識の重要さを感じることが多い。下手にコンピュータに詳しい人が入ったものだから、「あれもしたい、これもしたい」というアイデアが持ち込まれるのだが、その殆どは上記の理由からまず実現が不可能であることが少なくない。たとえ技術的に可能なことであっても、費用対効果の面から実現不能というわけだ。(ここでいう費用とは、金銭面だけではなく人的資源も含む)
それをいかにして相手に納得させるか、というのは、これはまたなかなかに難しく、悩ましい。
ついでに。WindowsというOSがもたらす費用対効果って、これまで私が考えていた以上に低いんじゃないかと思うようになった。
特に現在の職場で危惧しているのは、大量に蓄積されているMS-Word文書である。これが蓄積といえるシロモノでないことは言うまでもない。ほぼ死蔵といっていいだろう。再利用性がとことん低いんだからしょーがないんだが、そうなればそうなったで、ゴミのような文書が行く宛もなくHDDの容量を食い荒らすことになる。
超漢字にネットワーク実身/仮身とリレーショナルDBがあれば、Windowsと費用対効果の面から、そこそこ勝負できるような気がする。
今日、東京外国語大学の附属図書館が一般利用自由であることを知る。多言語処理の研究のための書籍探索に光明が!……と思ったら唯今大塚から府中へ引っ越しの最中で閉館中……。
くわーっ!
自転車に乗れない人から見れば、自転車など悪魔の発明品とでも言うべき代物だろうが、自転車に乗れる人からしてみれば、乗れない方がおかしいのではないかと感じるものだろう。
同じことがパソコンにも言えて、扱える人にとってみればなんでもないことが、分からない人にとっては錬金術か超魔術の類に思えるものらしい。
なんとなく最近、自分についての根拠なき誤解が、局内に深く静かに蔓延しているような気がしてならない。
確かに違法なことを可能とする(かもしれない)知識は持ち合わせているが、私はそのようなことに手を出したりはしないのである。いや、ホント。最近じゃRLも読んでないしね。
ドイツ語にエスツェット復活の動き、という記事が日経新聞に載っていた。98年、文法改革によってエスツェットの使用を抑制したドイツ語圏だったが、どうやら反動というか、急激な改革への拒否感というか、保守勢力の台頭というか、こういうこととなったらしい。
まあ、ドイツ語については全くしろーとなのでなにも言うべきことはないが、文字学的に言うとエスツェットは盲腸みたいなものではある。ロングSとショートSの続け字だ、なんていう由来を知っている方が少なかろう。こういうことを言い出すと、なぜ現代日本語記述には「を」が生き残っているのかとか、どこの国の言語でも似たような話はあるものだ。
最近、順調に未読が減っていっている。通勤時間と言う読書時間を得たためだが、よくよく考えてみれば、これまでもそのくらいの時間はいくらでもあったはずなのだ。
時間は使い方なんだな、と思った次第。
単に堅い学術書を読んでないだけではないか、という面もあるのだが……。
来月にはMS-Windows Meがリリースされるわけだが、既になにも感じる気力がない。導入する意欲もない。
NikonがF3の生産を中止するという報道。
なんてこったい。
これから先は、まず購入前に腕力と握力を鍛えあげなければならないF5を使えということなのか? それともPENTAXのLXで我慢しろと言うことなのか?
単に一機種MF一眼レフがなくなるのとはまた違う、一つの時代の終わりを感じさせるニュースだった。
コンテンツIDフォーラムのコンテンツマネジメントフォーラム2000へ、仕事で出かけるかも知れない。デジタルコンテンツ時代のコンテンツ流通って奴には、みんな頭を悩ませている……が、本質的に人間の善意を期待するのが正道なのではないかと思わなくもない。
悪意を想定すると、収拾がつかなくなるもんねェ。どんなプロテクトだって人間がやることだから、どういう形でも破ることが可能だ。そんないたちごっこを延々と続けるのも阿呆らしかろうて。
重要なのは、「提示された金額に見合う中身であること」だよな。