哀愁日記
底に哀はあるの。

西紀1999年4月分

Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、坂村健先生及びTRONプロジェクトは関与しておりません。
また、守秘義務の関係上、伏せ字が多くなっています。伏せ字の中身を御推測なさるのは結構ですが、あてずっぽうの内容を他者に広めて誤解を拡大再生産することだけはないようお願いいたします。

目次 | 前月 | 初日 | 末日 | 翌月

1999年4月10日(土曜日)
 申請していたβテストのディスクが届く。要望の多かったと見える[ピー]機能。インストールしてみるが、なんかうまくいかない。数時間格鬪する。結局、どうにもならない。レポートはいつ提出すればいいのだろう?
 TADの規格書を、また頭から読む。しかし読めば読むほど問題が多い規格だ。曖昧な記述が多いし、機能的に問題も少なくない。ブラッシュアップ&バージョンアップはいいが、これではver.1.30から一足飛びにver.2.00になってしまいかねないな。
 今日は「4.3.5 字方向指定付箋:拡張レベル」が、左縦書きに対応していないことに気づく。これでは蒙古語や満州語に対応できないではないか。
 行単位で書記方向が逆になる古代ラテン語や古代ギリシャ語にも対応できない。
 毎日、最低一個はこういう発見がある。頭が痛い。
 12日に坂村先生と会うまでに、少しまとめておこう。
1999年4月11日(日曜日)
 昨日の雨の余韻を引きずっているのか、雨はさほどでもなかったが、風の強い一日だった。
 昼頃起きだしてメールをチェックしたら、院生仲間の柳さんからメールが届いていた。昨日買ったノートパソコンのネットワーク設定をしてくれということだった。寢ぼけ頭を振り振り大学に出かける。確か5メートルの10Base/Tのケーブルが院生室に転がっていたはず……と思いきや、いつの間にか無くなっていて、代わりに2メートルのケーブルが。誰だまったくもー。間に合ったからいいけど。
 丁度いいことに柳さんと同室のオタク・糸野くんが来たので、忘れていたIPだとかをぽんぽん訊きながら勧める。2時間くらいかけて一通りプリンタやらなんやら全部使えるようにしてしまう。
 自分の院生室から一回りネットサーフィンやってメール書いて、家に戻る。そしてまた仕様書を読む。今日はこれまでのマーキングを整理する。あー、やっぱ多いなぁ。
 無かったことにして明日忘れていこうかしら。
 変数参照指定付箋なんてややこしいもの、なんで作ったんだ! 責任者でてこーい!
1999年4月12日(月曜日)
 文字コード標準体系検討委員会に一般参加。ちょっと遅刻したけど、会議始まってなかった。往路の高速バスの運転が荒っぽくて、恐くて眠れなかった。
 坂村先生に……と思って作った資料は、坂村先生のサボタージュによって、PMCのSさんに見られることになる。ちょこちょこと意見交換。
 しかし、これまでのTADにこだわらずに……って、いいの? 検討項目やら勉強しなきゃならないこととか、また浮き上がってくる。
 会議の後で今昔文字鏡の古家さんと慶応大学のテュールストさんと6時くらいまで話をしたのが一番の收穫かな。本当に色んな話をした。
 委員会は、次回からようやくアーキテクチャの話になるそうな。やっとというべきか、それとももはや手後れなのか。
1999年4月13日(火曜日)
 PMCのSさんに未明に出しておいたメールの返事がきていた。有り難うございます>Sさん。
 明け方に寢て昼頃に起きる。風がとても強く、天気はいいが洗濯物を干せるような状態じゃない。
 『シン・レッド・ライン』を見に行きたいと思いながら、大学で柳さんに捕まる。よって、映画は没に。食事に糸野くんと一緒に行く。糸野くんは某ランランで大盛りに挑戦するが、ギブアップ。そのままアパートに直帰して倒れる。南無。
 金曜日にTRON-GUI研究会に出るので、昨日渡しそびれたものをその日に渡せばいいやと思いつつ、今日は殆ど何もしない。
 思えは明日はゼミである。困ったものだ。
1999年4月14日(水曜日)
 未明に美崎さんにメールを出すが、なんかエラーが返ってきたので再送信。なんかNIFTYのPOPって特定条件で変な挙動をするような……?
 午前中晴れていたようだが、午後から雨。
 ゼミは新人が沢山入ってきた。しかし日本人が少ないゼミだなぁ……。とりあえず最年少じゃなくなった。
 とりあえずTAD版のTAD仕様書、HTML版TAD仕様書を印刷したものをベースにちまちまと作業を進める。
 しかし今日は眠い。春眠暁を覚えずというが、本当に春なんだなぁ。
1999年4月15日(木曜日)
 『The Thin Red Line』を見てくる。よい映画だ。去年の『Saving Private Ryan』に優るとも劣らない。気違いじみた戦争の中に、唐突なまでに差し込まれた「人道」といういうものに翻弄される様子を描いたのが『Saving Private Ryan』なら、徹底的に戦争が本質的に持つ狂気を、日常との隔絶を、見事なまでの映像美で見せ付けたのがこの『The Thin Red Line』だろう。
 ところが、家に帰ってから友常さんから電話があり、今日東京シューレの学生ゼミだったのではないかと知らされる。え? だって案内の葉書には4月15日(金)って……15日(金)?!
 ……明日文句言ったる。
 16日といえば、TRON-GUI仕様研究会の第1回ミーティングの日である。早起きしないと。
 TAD版TAD仕様書を実身/仮身化する。
1999年4月16日(金曜日)
 TRON-GUI研究会に参加。場所が東大総合研究博物館だったのだが、中は現在展示物のディスプレイの真っ最中。人骨が沢山あって嬉しかった。懷かしの繩紋人の頭蓋骨くん。さらには甲骨文まで飾ってあった。骨角器まである。医学というより考古学の世界でした。実際の展示が楽しみ。
 ふと思う。
 私が歴史学の世界に戻れるのはいつのことなのだろうか?
1999年4月17日(土曜日)
 徹夜が堪えたのか、10時間ばかり寢てしまう。
 めぼしい仕事もしないうちに夜になってしまう。ノートパソコンを一台預かっている上に、院生室のパソコンも一時引き上げしてきたので、今や部屋の中にはパソコンが五台。何が何やら分からなくなってきた。
 次は何をしたらいいんだ?
 月曜日に買ってきたアップスキャンコンバータが早くも壞れる。私の家に入る機械が、大抵保証期間内に一度はぶっ壞れる。一体なぜだろう?
1999年4月18日(日曜日)Part 1
 現在7時6分前。
 昨晩から営々と作業が続いている。つまり徹夜である。院生室に持ち込む予定のマシンにとっととWindows 95のインストールをしてしまうべきだと思うのだが、思うように行動ができない。しょーがないのでアリナミンA錠剤を飲む。これで駄目ならコンビニへ行ってリポDでも買ってこよう。飯食えばいいのか?
 CD-R Driveは設定間違えて1倍速でテスト書き込みまでやっている。
 それにしてもB-right/V英語版のフォントは美しい。
1999年4月18日(日曜日)Part 2
 柳さんのパソコンに、韓国語版Windows 98をインストールしようと悪戦苦鬪するも、丸一日掛かって成果なし。疲労感や徒労感だけが彌増す。
 結局どーしたらいいわけ?
1999年4月19日(月曜日)
 院生室に置いていたEpson Direct Endeavor AT3600を引き上げ、代わりにEndeavor ET6800を据え付ける。しかしネットワークカードが駄々をこねまくる。延々と宥めすかす脅すどつくが駄目。全部のボードを外してWindows 95を再インストールする。再インストール後もPnP機器がコンフリクトを起こし、その対応に追われる。一日潰れる。
 ……不毛だ。
1999年4月20日(火曜日)
 ゼミの新歓コンパならぬ新歓バーベキュー。ひたすら呑み、食い、作る。
 終わった後に、またまたまた柳さんのパソコンの面倒を見る。音が出ないという。原因不明。イースターエッグをしているうちに直る。もうわけがわからない。
 芝野先生に送った用例発見のメールに返事が来ていたが、極めていい加減な返事であったため、不機嫌になる。
1999年4月21日(水曜日)
 昨日の夜坂村先生に送ったメールの返事が来ていた。「こんど議論しよう」。しかしこの先生の「こんど」ほどアテにならないものはない。忙しい人だからなぁ。
 今日はゼミだったので、作業というほどの作業はできなかった。しかしいい加減Masterの方の研究も本腰入れないといけないものなんだが……。
 とりあえずemとenとunitについて輕く勉強する。やっぱりこれ、必要だよ……>PMCのSさん。
1999年4月22日(木曜日)
 同人誌の方の〆切が近付いてきているというのに、一向に原稿が仕上がらない。削除した分が、現在残っている分を上回っている。末期的だな。
 BTRON Clubの方の〆切も近い。GWを挾むので、〆切が早まっている。
 unitについて考察を進めるが、なにしろ現行のTADの中で定義するのが難しい。困ったもんだ。美崎さんに言われていたコラムの問題やら表組みの問題やら、頭が痛い。
1999年4月23日(金曜日)
 日がな一日同人誌の原稿を……と言えればよかったのだが、今日はT&E SOFTの『HYDLIDE for Windows95』の発売日だったのだ。午後石丸電器で『HYDLIDE for Windows95』を買ってくると、早速サルのようにプレイする。もちろん、テンキーでだ。ジョイパッドは邪道だ(核爆)。所々謎を忘れてしまっている所もあったが、午後9時半ころ、とうとうバラリスを斃す。やはり『HYDLIDE』は不朽の名作だ。
 この感動を大切にして、今日は終わり。
1999年4月24日(土曜日)
 「この感動を大切にしよう」とか言いながら、徹夜をしてしまう。天気が良ければ秋葉原に買い物に行こうと思っていたのだが暴風だったので諦める。そして寢る。しかし昼間に次々と電話が掛かってくる。
 しょーがないので起き続ける。
 欧文組版についての教科書を搜す。書名が分かったので、今度書店に注文しに行こう。
1999年4月25日(日曜日)
 同人誌の原稿〆切。午前7時になんとか仕上がる。しかし私の戦いはこれから。編集という次なる戦いが待っているのだ。
 しかし原稿が揃うまでは暫しの休息だ。
 その間に、BTRON Clubの原稿を書かねばならない。
1999年4月26日(月曜日)part 1
 徹夜明け。
 BTRON Clubの原稿に使うのにJIS X 0221の規格書を、未明の図書館の中で搜す。JIS C 6226の規格書が0(総記)の所にあったのを覚えていたので、総記の近辺を搜すが見つからない。規格書が図書館に入っていることは知っていたので、配架位置を間違えていなければ、総記にあるはず。
 しかしとうとう見つからず、OPACのお世話になる。うちの図書館のOPACはJavaScript専用なので余り好きじゃない。
 調べてびっくり。JIS X 0221の規格書の10進分類は509.13、産業に分類されていた。
 どうなってるんだ、図書館!!
 朦朧とした意識の中、長沢孃に命じられるまま、ゴミ捨て場へ冷蔵庫を回收するために愛車を走らせる。代わりに朝ご飯におにぎり2個とリポDを奢ってもらう。コンビニでドリンク剤が売られるようになってから、確実に消費量が増えている。規制緩和万歳。
 一旦家に帰って原稿を書く。午前9時BTRON Clubの原稿が一通り終わる。印刷と切り張りは大学ですることにする。
 明日は一日早いゼミ。
1999年4月26日(月曜日)part 2
 午前中に色々雑用こなして、午後から東京へ……とか思っていたが、用務が終わった時には13時半。気を取り直して高速バスに乗る。熟睡。起きたら上野。東京大学総合研究博物館に到達した時には15時だった。
 気を取り直して展示を見る…が、なんじゃこりゃ? 前見た時と殆ど変わってない。前見た時が開催前の舞台裏であったことを考えると、本開催に入ってる分、マトモになってなきゃいけないと思うのだが……。奧のホールはがらんどう。
 ま、今回のは常設展示で9月までやってるから、徐々に形になっていくのを楽しみましょ。
 ここまで来ておいて挨拶もせずに帰ったら流石に不義理が過ぎるなと思って、坂村先生の研究室に顏を出す。

坂村「今日は何? どしたの?」
小熊「博物館を見に来ました」
坂村「時間ある?」
小熊「多少は」
坂村「じゃあ4時頃に来て」

 某文字コード会議の話とか、某GT明朝の話とか、某今昔文字鏡の話とかをする。

坂村今昔文字鏡と協力することにしてね」
小熊「古家さんから直接聞いてます。あちこちで話題ですよ」
坂村「そうなの? ちゃんと伝わってるのかな。今昔文字鏡入るってことなんだけど」

 怪しいもんである。

坂村「基本はGT明朝なんだよ」
小熊「じゃあスクリプト層に入れるわけですね」
坂村「当然だよ。[ピー]とか用意して[ピー]すればいい。今古家さんと少し相談してんの」
小熊「文字属層の方はどーするんですか?」
坂村[ピー][ピー]だよ」

 いいんスか、そんなことで?

小熊「漢字データベースの方は?」
坂村「だから[ピー]ができてこないとには先に進まないじゃん。[ピー]月に出てくるからさ、その後だよ」
小熊[ピー]月に出るですか。じゃあ漢字データベースはその後ってことで」

 漢字データベースの作業についてちょこちょこ話す。

小熊「とんでもない作業量になりますね」
坂村「人手集めないと駄目だね」

 さて、その人足は一体どこから出てくるんだろう。人足頭は、俺か?


1999年4月27日(火曜日)
 ゼミで散々苛められる。まあ、M2がこの時期にテーマも決まっていないというのでは問題以外の何物でもなかろう。昨日の坂村先生との会話が思い出される。

小熊「そろそろ修論担当の教授に見放されそうです」
坂村「じゃあウチの仕事やってよ。もう駄目なんだったら」

 他人の人生ほど廉い物はないとつくづく感じたものである。
 ゼミが終わってみたら、糸野くんからヘルプコールが入っていた。彼のマシンのCD-ROMドライブでCD-DAを演奏させると、左音声が出てこないというトラブルがあったのだが、試行錯誤の結果、多分ハード的な物だろうと、サウンドカードのCD音声入力の接点を確認するようにと指示していたのだが、結局駄目だったらしい。
 出かけていくと、確かに駄目だ。しょーがないので、問題箇所確定のために自分の院生室のマシンからサウンドカードを引っこ拔いて糸野機へ移植することを決定する。
 院生室のマシンをひっくり返してカードを拔いた後に、柳さんとぶつかる。マシンがおかしくなったとのこと。ちょっと待っててと言って糸野くんを先に片付けることにする。
 さて、糸野機にカードを刺してみる……がコンフリクト発生。PnP BIOSをいじっても、PnPカード類のIRQがぶつかる。しょーがないのでネットワークカードを拔く。
 柳さんのマシンを見に行く。ショートカットをダブルクリックするとプロパティが開くようになっていた。イースターエッグしているうちに直る。流石はWindows95だ。続いて、MOドライブが認識しないとかいう問題を診る。

小熊「これ、電源入ってないけど。ACアダプタは?」
「え? なにそれ?」

 素人は恐い。
 糸野機は、セイフモードへ突入していた。無数にインストールされていた正体不明のドライバ類を外し、捨て、DOSドライバも外し、再挑戦。やっぱりセイフモードに。
 ここで再び柳機に戻る。ネットスケープメッセンジャーでのメールの振り分けがうまくいかないらしい。見てみると、有効チェックが外れている。振り分けが無効になっていた。なんというか……。
 またまた糸野機へ戻る。起動プロセスを見ていると、プロテクトモードへ移行した時に、プロセッサ例外が発生しているようだ。リアルモードに原因があるはずだ……。ビデオカードだ!
 動く。また変なドライバがインストールされていたから、殺す。すると、音が鳴りはじめた。よしよし。で、CD-DAは……左音声が聞こえない。ケーブルは何本も変えた。と、いうことは……。

小熊「CD-ROMドライブ側のコネクタだ」
糸野「そおっすね」

 そして糸野くんとの間で、家で使っている24倍速CD-ROMの売買契約が成立した。私はRWが読めるIDE CD-ROMドライブを買うことにする。

 しかし最近、クラシアンだな、俺。


1999年4月28日(水曜日)
 徹夜明けで昼過ぎに寢る。17時頃起きだして、学校へ。M1の西森さんと呉屋さんにWebページの作り方を教える約束だったのだ。ちょっと遅れて到着すると、参加者に舟見さんまで加わって、総勢3人。思うんだけど、学外からの新入生のためのチュートリアルコースとか用意しないのだろうか? リゲインを飲んで気合を入れる。
 19時になって、糸野くんが飯を奢ってくれるというのでランランへ出かける。飯を食いおわったら家に帰ってすぐ寢るつもりだったのだが、編集の仕事をはじめてしまう。
 夜になってみたら、学校のSOCKSサーバがまた死んでいた。お陰で仕事にならない。
 学校と家を往復し、気がつくと午前3時。いい加減に疲労が極限に達する。
1999年4月29日(木曜日)
 昭和節(おいこら)んなこと言ったっておめぇ、「緑の日」なんて言ったら、聖パトリックの記念日みたいじゃねーか。
 起きると16時半だった。本当は一度7時に起きたのだが、風呂に入ってまた寢たのだ。
 とりあえず土浦のT-ZONEへ出かけて、修理に出していたXRGB-2を回收してくる。ついでにCD-ROMの値段も見る。ちと高いな。やはり秋葉原で買うことにしよう。
 某氏からTADのことでメールが来る。XMLとTADねぇ……。XMLには詳しくないんだが、返事をどうしようか悩む。言えないことがあるのが辛い。
 まてよ?
 そもそも俺は歴史屋じゃないか。コンピュータの専門家じゃぁない。
 とりあえず事態が逼迫している同人誌の方を優先させることにする。
1999年4月30日(金曜日)
 朝7時などという、健康的極まりない時間に起きる。天気が良かったので、布団を干し、洗濯をし、掃除をする。
 大学の図書館にXMLの本を借りに行ったら、全部貸出中。しょーがないから書店で出向いて一冊買ってくる。輕く本を眺めるに、やはりSGMLのやや輕いもののようだ。
 しかし、重そう。
 XMLとTADでは狙っている領域がかなり異なる。なにしろTADはPDLだから。
 そういう内容の返事を書いて、メールする。
 同人誌の原稿は、遅々として進まない。大体、まだ揃ってない。