第2章 日本の対ユ政策
第1次世界大戦終結後の資本主義の全体的な危機のなかで、世界は大きく揺れた。成立したばかりのソビエト連邦を中心としてコミンテルンが形成され、世界各国で労働者達のデモやストが相つぎ、世界中が赤化の可能性を感じていた。
資産家のユダヤ人はその裕福さゆえに嫌悪され、労働者のユダヤ人は共産主義者ではないかと警戒された。もちろん双方とも、論理的な裏づけのある行為ではなく、唯の感情なのだが、そのような感情を後押しする世情があった。
全体主義の台頭である。
下層社会の絶大なる支持のもとに登場したファシスト党やナチス党は、ユダヤ人への偏見を政策的に裏打ちし、国家単位でのユダヤ人迫害を実行に移した。これによって多くのユダヤ人が、ヨーロッパを後にした。高名なところで、1933年にアメリカへ亡命した物理学者
アインシュタインなどが挙げられる。ヨーロッパは、ユダヤ人にとって住みにくいところになりつつあった。一方、その最大の亡命先であった自由の国・アメリカも1924年に制定した「割当法(Quota Act)」によって、移民を制限しはじめていた。そのユダヤ人の移民割当枠も、数年先まで埋まっており、金銭的に裕福なユダヤ人や、技術者、科学者といった者ならばともかく、多くの貧しいユダヤ人は、移住することも難しくなっていた。
1935年にドイツで施行されたニュルンベルグ法によって、ユダヤ人は市民権を剥奪されることになり、さらにドイツ人とユダヤ人との混血を禁じた血統名誉保護法が翌年成立。1938年の公民法改正によって、強制収容所への収容が進められるようになる。
そのようにドイツを中心にした反ユダヤの潮流のなかで、1938年7月、ジュネーブでユダヤ難民対策会議が開催されたが、参加各国の全てがユダヤ難民の受入れを拒否するという結果になった。ユダヤ人達は自然行き場を失うようになり、少なくない数のユダヤ人が強制収容序の露と消えることとなる。これらの情勢に背中を押されるようにして、ユダヤ難民達は反ユダヤを掲げていなかった国、つまり大日本帝国を目指すようになった。
日本であれ、どこの国であれ、滞在するにも通過するにも、相互査証不要の協定を結んでいる国を除けば、査証(ビザ)が必要である。日本へ移住を試みる者も、あるいは日本を通過して別の土地へ向かうものも、日本大使館に査証の発行を求めて集まりだした。
ヨーロッパから脱出するユダヤ人達が日本大使館へ押しかけるようになったことを伝える第一報は、ウィーンから発せられた。
1938(昭和13)年9月30日、ウィーン領事館の山路総領事から近衛外務大臣へ電報が発せられる。
▽以下引用▽
第三九號
當館ニ於ケル猶太人排斥ノ結果墺太利内猶太人(獨逸國籍ヲ有ス)ハ諸外國ニ向ケ多數移住ヲ爲シツツアリ當館ヘモ本邦人若クハ第三國移住ノ目的ヲ以テ一時滞在ノ爲査証ヲ求メ來ル者アリ然レトモ當館ハ事變下の日本ヘノ入國滞在ハ極メテ困難ナルコトヲ説クト共ニ日獨間ニハ査証相互廢止ノ取極アルコトヲ説明シ之ヲ拒絶セルカ是等移住者ハ當館ノ何等カノ證明書ヲ提示セサレハ途中通過國ニテ査証ヲ與ヘサル趣ヲ以テ泣訴スル有様ナルニ依リ巳ムヲ得ス「獨逸國人ハ日本ヘノ入國通過共ニ査証ヲ要セス」トノ一般的証明ヲ各人ニ與ヘ彼等ハ此ノ證明書ヲ提示シテ通過國ノ査証ヲ取付ケ居ル模様ナリ然ルニ最近各国共猶太人ノ入國ヲ禁止又ハ制限ヲ設ケタル結果當館ニ証明ヲ求ムル者激増シ一兩日來一日平均五十人以上ニ達セルニ付目下之カ取扱ヲ中止シ居ル次第ナルカ是等猶太人ノ入國ハ我方ニ取リテモ相當重大ナル問題ト認メラルルニ付本件移住者取扱拂等ノ點ニ付大至急御電訓相成度シ
(一) 從來通リ「査証不要」ノ證明書ヲ發給シ差支ナキヤ
(二) 何等カノ制限(例ヘバ上陸ノ際ノ提示金等)ヲ爲ス必要アラハ其ノ標準如何(外國移住者ハ極メテ僅少ノ金額ヲ持出シ得ルニ過キス)
(三) 無國籍猶太人ニシテ在外親戚ヨリ上陸ノ際ノ提示金乃至入國後ノ生活費ヲ保証スヘキ旨ノ確實ト認メラルル書翰ヲ有スル時ハ他ニ不都合ノ點ナキ限リ一般無國籍人ト同様渡航證明書ヲ發給シ差支ナキヤ
(四) 今後猶太人ノ本邦入國ニ關シ如何ナル取扱いヲ爲ス御意嚮ナリヤ
尚五月憩う現在迄ノ前記證明書發給數四百件ニ上レリ尚是等猶太系獨逸人ハ獨逸國ノ正式旅券ヲ所持シ其ノ有效期間ハ大體一年ニシテ右期間經過後ハ更ニ延長セラレ得ルモ出發後排獨的言辭アル場合ハ右延長ハ拒否サレ得ヘク從テ將來無國籍人トナル可能性多分ニ存ス
(了)
△以上引用△
日本、あるいは第三国への出国を求めて領事館に人が殺到している様子が窺える。
ここで「「獨逸國人ハ日本ヘノ入國通過共ニ査証ヲ要セス」トノ一般的証明」とあるのは、日本以外の別の国の通過査証を発給してもらうために必要となるものである。目的地への渡航のために第三国を通過するには基本的に通過査証が必要であり、通過査証の発給に際し、通過査証のみでその国に長期滞在する(この場合、ユダヤ人が居着く)ことを未然に防ぐため、目的国の入国査証を必要とする。ところが日本はドイツとの間に相互査証不要の取り決めを結んでいたため、日本へ向かうことの証明ができず、第三国(この場合多くはソビエト連邦)の通過査証の発給を受けられなかった。そこで上の証明書が必要になってくる。
(もっとも、査証不要で滞在できる期間には限界があり、とりあえず日本に向かい、そこから上海経由でパレスチナ(イスラエル)やアメリカ合州国へと向かうことになった。その経過として、
日本国内のユダヤ人の人口は一時的にふくれ上がることになる)
在外公館が悲鳴を上げる前に、既に日本政府は流入してくるユダヤ人の増加から、国際情勢の変化に感づいていたようである。
ウィーンからの第一報から溯ること4ヶ月、1938(昭和13)年3月31日付けで、「回教及猶太問題委員会」を設置する旨を関係各省に連絡し、外務省、海軍省及び軍令部、陸軍省及び参謀本部の人員を集めている。
そして、上の委員会との関係は不明瞭だが、1938(昭和13)年5月10日付けで、
「猶太對策(案)」なるものが外務省で起案されている。目次を含めて17ページのこの対策案のなかで、日本はかなり詳細に対ユダヤ対策を練っている。その総論とも言える「第一、對策」を引用したい。
▽以下引用▽
猶太對策(案) 一三、五、一〇 起案
第一、方針
一、 猶太民族ノ民族的要望及之ガ實現ノ諸方策ハ根本的ニ帝國ノ國是ト相容レザルモノアルヲ以テ究極ニ於テ該民族勢力ノ縮滅ヲ期スベキモノトス
然レドモ其ノ各国ニ有スル政治、經濟、宣傳、思想各界ニ於ケル厳正力ニ鑑ミ之ガ實施ハ極メテ慎重隠密ナルヲ要ス即チ公的ニハ排撃的言動ヲ避ケ反日暗躍ニ對シテハ有効ニ報復シ得ル實力ヲ認識セシムルニ止メ一方彼等ノ窮状ニ對シテハ同情アル態度ヲ示ス等公正中庸ナル態度ニ終始シ他方當面隠密ナル手段竝ニ主トシテ外郭機關ノ利用ニ依リ猶太民族ノ策動ヲ封ジ其ノ勢力ヲ縮滅セシムル諸施策ヲ實施ス
二、 極東猶太民族ニシテ既ニ帝國依存ニ轉向シ來リタルモノハ之ヲ我傘下ニ包擁スルハ勿論中南支猶太勢力ニ對シテモ帝國ノ公正且斷呼タル態度竝ニ實力ヲ認識セシメ且彼等ノ既得權益ノ死命ヲ制壓シツツ從來ノ援支排日策持續ノ危險且不利ナル自覺ニ依リ親日ニ轉向ノ得策ナルヲ認識セシメ逐次之ヲ全世界ノ猶太勢力ニ反映セシメ帝國ニ有利ナル情勢ヲ作爲スルニ努ム
△以上引用△
ユダヤ人と大日本帝国は根本的に相容れないが、ユダヤ人のもっている力は利用する、という「ユダヤ利用論」とでも言うべき内容である。利用論であるからには、ナチス・ドイツのような極端な排除は行わない。このことは、同案の10ページに「全面的排撃ヲ排シ八紘一宇ノ包容的態度ヲ根本トセシム」明記されている。
日本にとってユダヤは極端な憎悪の対象にはなりえず、うまく利用してやろうとの思惑が主流であったようである。
だが、この案はあくまで案で終わったようで、事態の急変に際して、日本の対応は、以外と冷淡だった。先の9月30日の山路総領事からの電報に対する返電は、10月7日電送の日付が入っている。
▽以下引用▽
貴電第三九号ニ関シ
陸海軍及内務各省ト協議ノ結果獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ収容スルノ餘地ナキ實状ナルニ付今後ハ此ノ種避難民(外部ニ対シテハ單ニ「避難民」ノ名義トスルコト、実際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タルニ付現行外國人入國令第一條ニ列記セル範囲内ノ理由ヲ以テ渡来阻止方可然御措置アリタシ、従テ(一)此ノ種無國籍避難民ニ対シテハ今後渡航証明書ヲ發給セサルコト但シ通過渡航証明書ハ行先國ノ入國手續ヲ了シ居リ且二百五十円以上ノ携帯金ヲ有スル者ニ限リ發給差支ナシ(二)査証相互廢止国ノ國籍ヲ有スル避難民ニ対シテハ今後「査証不要」其他ノ証明書ヲ發給セス且本邦ヘノ渡航ヲ断念セシムル様説示方御取計アリタシ
尚本内訓ハ猶太人ニ對シ特別ノ手段ヲ講シタルモノニアラス現行外國人入國令ノ範囲内ニ於テ措置スルモノニシテ外部ニ對シ何等之ヲ發表シ居ラス
右本大臣ノ訓令トシテ貴電ト共ニ在欧各公館長ニ暗送アリタシ
△以上引用△
ほぼ同様の内容の訓電が、同日在欧公館に送られている。
この内容は、事実上、日本国内並びに殖民地へのユダヤ人の流入を阻止することを意味する。積極的に法律を作ってまでユダヤ人を排斥しようとしないのだけがドイツなどとの違いだろうが、日本も、多くの難民を受け入れるつもりがないことが、この電文で知れる。
この返電に対して山路総領事は15日、17日と矢継ぎ早に電文を発して現状を訴え、17日には
「一般的猶太人排斥政策ヲ執ルコトハ差當リ不得策ト思考スル」とまで書いている。もっとも同電文で、指示されたやり方ではユダヤ難民を阻止することができず、受入れ拒否を公表したほうがいいとも書いている(それは「八紘一宇」に反するため不可能であったろうが)。
欧州での事態の推移が、本国での想定をはるかに超えていたことがよくわかる。当然ではあるが、ユダヤ人は当時すでに生死の瀬戸際まで追い詰められてきており、なんとしてでも欧州から脱出せんと必死になっていた。さらに脱出先も限られていた。アメリカ合州国は第1章で説明した通り「割当法」があり、ユダヤ移民への割当は数年先まで満杯の状態であったし、パレスチナも移民割当をつくっており、不法渡航者はイギリス軍が容赦なく捕まえては欧州に送り返していた。ナチス・ドイツの足音は背後から迫り、ソビエト連邦でもユダヤ人は強制収容所へ送られていた。いかに入国が難しかろうと、日本(及びその勢力下)ではとりあえず生命は保証される。となればどうしても難民は殺到するのであった。
切迫した雰囲気を漂わせる山路総領事からの再要請に日本政府は応えなかった。翌月になる11月16日、山路総領事は至急指示を請うとさらに打電している。それでも日本政府は態度を決めかねていたようである。
1938(昭和13)年12月1日、外務省はようやく陸、海、内務の関係各省へ、
事態の打開の為の協議を呼びかける。やはり阻止できなかったユダヤ難民が満洲へたどり着き、入国を拒否されるや、上海へと向かうようになったからだ。
そして協議の末、12月6日、当時日本政府の最高意志決定機構である五省会議によって「猶太人對策要項」が決定される。
▽以下引用▽
猶太人對策要項
獨伊兩國トノ親善關係ヲ緊密ニ保持スルハ現下ニ於ケル帝國外交ノ樞軸タルヲ以テ盟邦ノ排斥スル猶太人ヲ積極的ニ帝國ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ之ヲ獨國ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度ニ出ツルハ啻ニ帝國ノ多年主張シ來レル人種平等ノ精神ニ合致セサルノミナラス現ニ帝國ノ直面セル非常時局ニ於テ戰争ノ遂行特ニ經済建設上外資ヲ導入スルノ必要ト對米關係ヲ悪化スルコトヲ避クヘキ観點ヨリ不利ナル結果ヲ招來スルノ虞大ナルニ鑑ミ左ノ方針ニ基キ之ヲ取扱フモノトス
方針
一、 現在日、滿、支ニ居住スル猶太人ニ對シテハ他國人ト同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ處置ニ出ツルコトナシ
二、 新ニ日、滿、支ニ渡來スル猶太人ニ對シテハ一般ニ外國人入國取締規則ノ範圍内ニ於テ公正ニ處置ス
三、 猶太人ヲ積極的ニ日、滿、支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク、但シ資本家、技術家ノ如キ特ニ利用價値アルモノハ此限リニ非ズ
△以上引用△
同年5月10日付の「猶太對策(案)」からユダヤ利用論を引き継ぎ、より単純化されている。ユダヤ人を排斥しない理由は(1)対米関係(2)資本誘導の二つであることが見てとれる。あるいはさらに(3)八紘一宇としても良いだろうが、あまり重要ではない。証拠に、この対策が
案文であったころ、「帝國ノ多年主張シ來レル人種平等ノ精神」の部分は「人道上將又肇國ノ精神ニ合致セサル」であった。
(1)と(2)には密接な関係がある。当然難民が資金をもっている道理はなく、難民の受入れによって在米ユダヤ人たちの対日姿勢を軟化させ、彼らして政府を動かして米政府の対日政策に影響を与え、また同様に資本を日本あるいは満洲に投下させる。かつてのジェイコブ・シッフのような、気前のよい投資を期待していたのであろう。
ともあれこの決定により、日本へのユダヤ難民の流入は、事実上黙認された形になった。五相会議自体は非公開で議事録も残らないものだったが、この決定は外務省、陸海軍に通達され、また翌1939年2月27日の貴族院予算委員会第二分科会で,出淵勝次議員の質問に答える形で
有田八郎外相がこの方針を確認している。この決定は、太平洋戦争開戦直前頃まで効力をもった。
流入を黙認するような格好にはなったものの、日本の入国査証は当時から給付が難しく、また上の決定でもそうだが、日本はユダヤ難民が日本に居着くことにはよい顔をしなかった。そこで考え出された手段が、日本の通過査証の取得だった。
近年非常に高名になった杉原千畝の「命のビザ」のエピソードはこれである。リトアニアのポーランド国境近くにあるカウナスがその舞台だ。カリブ諸島にあるオランダ領キュラソとスリナムは入国ビザを必要としていなかった。在カウナス・オランダ領事がキュラソの査証不要証明書を発行し、在カウナス日本領事館杉原領事代理がこれらに基づいて日本の通過査証を発給したのだ(もっとも
杉原領事代理は、ほとんど無関係に通過査証を発給したようではある)。
杉原領事代理もそうだが、他にもモスクワなどの日本大使館で、多くの日本通過査証が発給され、現実には行く宛てのない大量のユダヤ人が、日本へとやってくることになった。日本は積極的にではなかったものの、大量のユダヤ人をその勢力圏内に抱えこむこととなった。これはもちろん、対米工作を念頭に置いた施策であったのだろうが、日本側の思惑は、その圧倒的な数によって
あっさり揺らいでしまうことになる。
また、対米工作も、
日本居留難民への資金援助を請う影で行われていた様子があるが、当時悪化の一途を辿りつつあった米国内での対日感情を好転させるほどの力は持ち得なかった。
ユダヤ人を利用しようとの政府の目論みと、大量の難民の流入という現実とが、音を立てて軋むなかで、事態の推移を決定付けたのは日本の対独接近であった。
日独伊三国同盟が1940年9月に成立すると、対米関係の改善はほぼ不可能となり、政府部内で、対ユダヤ政策の転換が協議されるようになった。史料に日付が添記されていないのでいつ頃のものか内容から推測するしかないが、
「對猶太基本方針提案理由」および「對猶太基本方針案」「對猶處理万策」という一綴りの史料がある。「對猶太基本方針提案理由」に「帝國カ独伊樞軸諸國ト確乎タル同盟ヲ結ヒ……」という下りが記されているところから日独伊三国同盟成立以後であり、同様に「對英米關係打開ノ可能性…」とあるところから太平洋戦争勃発以前、恐らく1940年末から1941年前半の史料と思われる。
「對猶太基本方針提案理由」のなかで、五相会議決定による「猶太人對策要項」の利用論がその価値を失ったことを明言し、新たな方針を設定する必要を説いている。
そして提案されたものは、以下のものである。
▽以下引用▽
對猶太基本方針案
帝國ハ爾今積極的ニ猶太勢力ヲ利用スルコトナク特ニ敵性猶太勢力ノ策謀ヲ厳重ニ監視シ且ツ之レヲ排撃ス
△以上引用△
この案が最終的にどうなったのかは残念がら調べ切れなかった。
ただ、この後の「對猶處理万策」の方を見れば、結果は明らかであろうと思われる。
「對猶處理万策」には、これまでのユダヤ民族支援を打ち切り、ユダヤ人避難民の受入れも中止する旨が示されている。
これに先立って、1940年9月、
陸軍大連特務機関長安江仙弘大佐が、その職を解任され予備役編入されている。安江大佐は満洲におけるユダヤ人問題を一手に引き受けていた陸軍切っての専門家であり、熱烈なユダヤ人擁護論者であったことで知られる。1942年3月には、海軍側の専門家である上海特務機関長犬塚惟重大佐も、海上勤務へと異動になった。彼は回教猶太教問題検討委員会の一員でもあり、ユダヤ利用論者であった。二人とも、戦前日本の対ユダヤ政策の実行面を担った者達であり、多くの報告書によって政府にも大きな影響を与えていた。比較的親ユダヤとされる二人が現場を去ったことが、日本のその後の動きを暗示している。
開戦直後の1942年1月に
「時局ニ伴フ猶太人ノ取扱ニ關スル件」が発せられ、1942年3月、五相会議で決議された「猶太人對策要項」は廃止されるにいたる。
こうして、日本のユダヤ利用論に基づく親ユ政策は終わりを告げることになった。