第1章 日猶関係抄史

 日本とユダヤとの関係は、明らかな限り、幕末開国の後である。
 一部の人間によれば、二千年以上の昔にユダヤの部族が放浪の果てに日本にたどり着いたとかいう話もある。だが、この説は客観的・科学的根拠に乏しいと判断し、採らないことにする。一般的に「日・ユ同祖論」と呼ばれるこれらの論は、明治以後発生し、現在をもって支持者を少なからず生み出してはいる。
 戦国期、日本が一時的にせよ対外的に大きく門戸を開いていた頃に、ヨーロッパからやってきた貿易商の中に少数のユダヤ人が存在したものの、大きく日本の歴史に関わる出来事はなかった。彼らは宣教師たちのように布教をおこなうことはなかったが、その後の海禁政策によって、日本から締め出されることとなった。
 そして本格的にユダヤ人と日本との関係が始まったのが、明治時代のことである。貿易商として、少数のユダヤ人が日本に入ってきた。また、明治政府が国家の近代化のために雇い入れた、いわゆる「お雇い外国人」の中にもユダヤ人はいた
 ここでこれまでの日本との関係で大きく違うのは、日本に永住する、つまり日本で死ぬユダヤ人がいたことであろう。永住するということは、帰化することとは全く違う。日本へやってきて日本に定住し、そして日本人になってしまった外国人は、小泉八雲を筆頭に数多くいる。だが、日本にやってきたユダヤ人達は、かつてヨーロッパなどへ流れ着いたときと同じように、ユダヤ人としての文化や伝統を守り、ユダヤ人として日本で暮らした。ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーク)をつくり、専用の墓地を構えた。ある意味で、日本への文化的進出と言える。ただし、この日本への進出も、かつての新大陸=アメリカ合州国への移住ほど大幅なものではなかった。横浜、神戸、長崎といった貿易港を中心にユダヤ人達は社会を作ったようだが、住み着いたユダヤ人の正確な統計はない。おそらくユダヤ人が、様々な国籍を持っており、それぞれ国籍に基づいて計数されたためであろう。
 日本の政治経済にユダヤ人が大きく影響を及ぼしたのは、日露戦争においてである。
 当時のロシア帝国には多くのユダヤ人が居住していたが、反面、皇帝ニコラス二世以下、反ユダヤ感情が強く、公的にユダヤ人を弾圧するところの激しい国でもあった。現在も「ユダヤ人に対する組織的な掠奪や虐殺」の意味で用いられる「ポグロム(ПОГРОМ)」という単語は、ロシア語である。内務省主導のもとでの公的なポグロムが行われており、世界中のユダヤ人達の反感を、ロシア帝国は買っていた。その一方、日露戦争勃発に際しロシア帝国はユダヤ人をも徴兵の対象としており、多くのユダヤ人が前線へと送られた
 敵としてのユダヤ人の他に、敵の敵としてのユダヤ人が日本に味方した。ポグロムなどに強く反発するユダヤ人が、ロシア帝国の敗北を願って日本側についた。その運動の中心人物となったのが、ジェイコブ・シッフである。
 アメリカ合州国の投資銀行クーン・ロエブ会社の頭取であったシッフは、自分の銀行を含め、系列銀行や他の米国内の銀行を説得し、合計で約二億ドルの資金を調達した。これは当時日本が発行した戦時国債の約半分にのぼる。1906(明治39年)年に来日したシッフには、この功績を表すために勲一等瑞宝章が送られた。
 当然のようにこの事実は日本中に知れ渡ることとなり、ユダヤ人=資産家という通念を構成することになったと思われる。このジェイコブ・シッフという人物のイメージによるユダヤ人像は、かなりあとまで尾を引いている。
 この日露戦争期におけるジェイコブ・シッフの援助は、ある意味で、日本とユダヤの初めての政治的接触といえる。ユダヤ人にとって「敵の敵」であった日本からみれば、ユダヤ人は「日本に友好的な富豪集団」と見えたことであろう。
 現実には、ユダヤ人の全てが富豪であったわけではなく、富裕層に比べれば比較的貧しい人々の方が数多かった。他の民族と比べて金融業に関る人の数は多かったのかも知れないが、だからといってユダヤ人全体が豊かであったとは、到底言えないのである。
 ジェイコブ・シッフなどの政治経済的接触よりも、更に低いレベル、もっと生活に密着したレベルでのユダヤ人との接触は、ロシア革命が引き金となる。
 ロシア革命においてユダヤ人は、他の民族がそうであるように、敵と味方、奪う者と奪われる者として存在した。多くのユダヤ人達が労働組合から革命に参加した一方で、また多くのユダヤ人達が資産家として襲撃の対象ともなった。革命後にユダヤ人革命家が放逐されたり、またロシア在住のユダヤ人に対する差別迫害などが止まなかったため、多くのユダヤ人がロシアを離れることになった。
 その影響は、ロシア以外の地域に起こった。国を追われたロシア系ユダヤ人の多くは亡命したり移住したりしたが、その大きな移住先が、アメリカ合州国と極東・支那だった。極東へと渡来したユダヤ人の多くは、いわゆる満洲と上海を中心に住み着き、極東に一つのコミュニティーを作ることになる。この極東ユダヤ人達が、当時大陸への進出著しかった日本と、後に関りあってゆくことになる。
 日本とユダヤの、余り好ましからざる接触は、ロシア白軍によってもたらされることになった。
 1917(大正6)年のロシア革命を受けて、日本を含む16ヶ国がチェコスロバキア軍救出を名目に、1918(大正7)年、革命干渉出兵を行う。シベリア出兵である。この出兵のなかで、シベリア反共軍司令官アレキサンダー・コルチャク提督から、日本に対し、様々なユダヤ資料が提供される。その中に今世紀最大の偽書と呼ばれる「シオンの議定書」が含まれていた。また同時に白系ロシア軍側は、ロシア革命をユダヤ人の陰謀であると、しきりに宣伝したようでもある。確かに共産主義の開祖マルクスはユダヤ人であったし、ロシア革命を指導した一人であるトロツキーもユダヤ人ではあった。確かにこれだけを抜き書きすれば、ユダヤ人がユダヤ人の作った思想に基づいて国家を転覆し、あまつさえ全世界の赤化を狙っているように見えなくもない。だが「議定書」を含む反ユダヤパンフレットを大量に印刷し、全兵士に持たせたというから尋常ではない。
 これらに触発された数人の将校が、これを基にしてユダヤ研究へと進むことになった。四王天延孝、樋口季一郎、安江仙弘、犬塚惟重といった、後々ユダヤ人と深く関る将校達である。同様にこれらのパンフレット等は、当然の如く在支日本人の手に渡り、ユダヤ人に対してさしたる関心を持っていなかった日本人に、大きな影響力を発揮しした。
 シベリア出兵後の1920年代、日本では盛んにユダヤの危険性を吹聴する書物が、相次いで出版されることとなった。
 しかしながらこの不幸な出会いは、日本在住のユダヤ人達に迫害の手を伸ばすことにはならなかった。これは日本に居住するユダヤ人が約三百世帯ほどと少なく、また横浜・神戸・長崎といった貿易港に集中していた上に、国籍もさまざまであったため、観念的「ユダヤ人」と実質的なユダヤ人との繋がりが持てなかったためであろうと思われる。
 政治的に日本は、相変わらず親ユダヤと取れる行動を取っていた。1922年、パレスチナがイギリスの委任当地領になった。これは、シオニズム運動の成果であり、将来的にパレスチナへのユダヤ国家建設を認めた決議である。日本は国際聯盟でのこの議決に、賛成票を投じている。
 生活上の日本人とユダヤ人が深く出会うのは、大陸、満洲・支那でのことだった。満鉄(南満洲鉄道株式会社)による経済的支配を強めていた満洲地方には、ロシアから移住してきたユダヤ人が多く居住していた。正確な統計はないが満洲全体で一万人を越えていたようである。その多くはハルピンに居住していた。またそれらとは別に、上海に三千人が居住していたという。満洲も上海も日本の進出が著しく、日本人も多く入殖していた。日本人とユダヤ人の両入殖者間の違いは、日本人には大日本帝国という後ろ楯があったが、ユダヤ人にはなかったということだろう。
 国を持たない流浪の民であるユダヤ人にとって、国の庇護など最初から存在するはずもなく、現地勢力とユダヤ人は折り合いをつけながら生活するほかはなかった。そしてそれこそが、ユダヤ人が日本勢力と接触を持つようになる動機となったのである。
 言うまでもなく、当時支那/満洲において最も強大な勢力が、大日本帝国であったからである。当時大陸にいたユダヤ人約二万が、1937(昭和12)年12月にハルピンで極東ユダヤ人会議を開催したのは、明らかに日本への接近である。この大会に関して関東軍の工作であるとの見方も存在している。だが確固たるバックボーンを持たないユダヤ人側も日本(あるいは関東軍)の力を必要としたのであろう。極東ユダヤ人会議において採択された宣言文では、日本の庇護への感謝と、反共政策の支持を謳っている[12]。
 日本側とユダヤとの接触は、多少の波乱はあっても、総じて友好的かつ穏やかなものであって、特に問題を孕むものではなかった。
 この状態を一変させてしまうのが、ヨーロッパ情勢の変化だった。


目次へ戻る
前章へ戻る 次章へ進む
参考文献一覧