令和2年(ク)第102号 市町村長処分不服申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件

令和3年6月23日 大法廷決定

目次

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人らの負担とする。

理由

抗告代理人榊原富士子ほかの抗告理由について
  1. 本件は、抗告人らが、婚姻届に「夫は夫の氏、妻は妻の氏を称する」旨を記載して婚姻の届出をしたところ、国分寺市長からこれを不受理とする処分(以下「本件処分」という。)を受けたため、本件処分が不当であるとして、戸籍法122条に基づき、同市長に上記届出の受理を命ずることを申し立てた事案である。本件処分は、上記届出が、夫婦が婚姻の際に定めるところに従い夫又は妻の氏を称するとする民法750条の規定及び婚姻をしようとする者が婚姻届に記載しなければならない事項として夫婦が称する氏を掲げる戸籍法74条1号の規定(以下「本件各規定」という。)に違反することを理由とするものであった。所論は、本件各規定が憲法14条1項、24条、98条2項に違反して無効であるなどというものである。

  2. しかしながら、民法750条の規定が憲法24条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところであり(最高裁平成26年(オ)第1023号同27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2586頁(以下「平成27年大法廷判決」という。))、上記規定を受けて夫婦が称する氏を婚姻届の必要的記載事項と定めた戸籍法74条1号の規定もまた憲法24条に違反するものでないことは、平成27年大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。平成27年大法廷判決以降にみられる女性の有業率の上昇、管理職に占める女性の割合の増加その他の社会の変化や、いわゆる選択的夫婦別氏制の導入に賛成する者の割合の増加その他の国民の意識の変化といった原決定が認定する諸事情等を踏まえても、平成27年大法廷判決の判断を変更すべきものとは認められない。憲法24条違反をいう論旨は、採用することができない。

    なお、夫婦の氏についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題と、夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題とは、次元を異にするものである。本件処分の時点において本件各規定が憲法24条に違反して無効であるといえないことは上記のとおりであって、この種の制度の在り方は、平成27年大法廷判決の指摘するとおり、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである。

  3. その余の論旨は、違憲をいうが、その実質は単なる法令違反を主張するもの又はその前提を欠くものであって、特別抗告の事由に該当しない。

  4. よって、裁判官宮崎裕子、同宇賀克也の反対意見、裁判官草野耕一の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。なお、裁判官深山卓也、同岡村和美、同長嶺安政の補足意見、裁判官三浦守の意見がある。

裁判官深山卓也、同岡村和美、同長嶺安政の補足意見は、次のとおりである。

私たちは、本件各規定は憲法24条に違反するものとはいえず、平成27年大法廷判決の判断を変更する必要はないとする多数意見に賛同するものであるが、その趣旨等について若干の点を補足して述べておきたい。

  1. まず、所論は、本件各規定が、夫婦となろうとする者の一方が従前の氏を改めて夫婦同氏とすることを婚姻の要件としており、婚姻に対する法律上の直接的な制約となっているという。

    確かに、民法750条を受けて、戸籍法74条1号は、夫婦が称する氏を婚姻届の必要的記載事項としており、これを記載しなければ、婚姻届は受理されず、婚姻は効力を生じないのであるから(民法739条1項、740条)、その点を捉えれば、本件各規定は、夫婦同氏とすることを婚姻の要件としており、婚姻に制約を加えるものということもできる。

    しかしながら、ここでいう婚姻は法律婚であって、その内容は、憲法24条2項により婚姻及び家族に関する事項として法律で定められることが予定されているものであるところ、民法750条は、婚姻の効力すなわち法律婚の制度内容の一つとして、夫婦が夫又は妻の氏のいずれかを称するという夫婦同氏制を採っており、その称する氏を婚姻の際に定めるものとしている。他方で、我が国においては、氏名を含む身分事項を戸籍に記載して公証する法制度が採られており、民法739条1項において、婚姻は、そのような戸籍への記載のための届出によって効力を生ずるという届出婚主義が採られている。そして、これらの規律を受けて、戸籍法74条1号は、婚姻後に夫婦が称する氏を婚姻届の必要的記載事項としているのである。民法及び戸籍法が法律婚の内容及びその成立の仕組みをこのようなものとした結果、婚姻の成立段階で夫婦同氏とするという要件を課すこととなったものであり、上記の制約は、婚姻の効力から導かれた間接的な制約と評すべきものであって、婚姻をすること自体に直接向けられた制約ではない。

    また、憲法24条1項は、婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものであるところ、ここでいう婚姻も法律婚であって、これは、法制度のパッケージとして構築されるものにほかならない。そうすると、仮に、当事者の双方が共に氏を改めたくないと考え、そのような法律婚制度の内容の一部である夫婦同氏制が意に沿わないことを理由として婚姻をしないことを選択することがあるとしても、これをもって、直ちに憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したものと評価することはできない。

    したがって、夫婦同氏とすることを婚姻の要件と捉えたとしても、本件各規定が憲法24条1項に違反すると直ちにいうことはできず、平成27年大法廷判決もこの趣旨を包含していたものと理解することができる。

    1. そこで、本件各規定が憲法24条に違反するか否かは、平成27年大法廷判決が判示するとおり、本件各規定の採用した制度(夫婦同氏制)の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し、個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から判断すべきこととなる。

      現行の夫婦同氏制の下において、長期間使用してきた氏を婚姻の際に改める者の中には、アイデンティティの喪失感を抱く者や種々の社会生活上の不利益を被る者がおり、これを避けるために婚姻を事実上断念する者がいることは、平成27年大法廷判決においても指摘されているところである。このような実情を踏まえ、夫婦同氏制について、婚姻に際し当事者の一方が意に反して氏を改めるか婚姻を断念するかの選択を迫るものであり、従前の氏に関する人格的利益を尊重せず、また、婚姻を事実上不当に制約するものであると評価して、いわゆる選択的夫婦別氏制の方が合理性を有するとする意見があることも理解できる。また、男女共同参画社会の形成の促進あるいは女性の職業生活における活躍の推進という観点からの施策として、選択的夫婦別氏制の導入を検討すべきであるとする意見も存在する。

      しかしながら、平成27年大法廷判決が判示するとおり、婚姻及び家族に関する事項は、関連する法制度においてその具体的内容が定められていくものであって、当該法制度の制度設計が重要な意味を持つものであり、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ、それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるべきものである。したがって、夫婦の氏に関する法制度の構築は、子の氏や戸籍の編製の在り方等を規律する関連制度の構築を含め、国会の合理的な立法裁量に委ねられているのである。そうすると、選択的夫婦別氏制の導入に関して上記のような意見があるとしても、平成27年大法廷判決が指摘する、氏の性質や機能、夫婦が同一の氏を称することの意義、婚姻前の氏の通称としての使用(以下「通称使用」という。)等に関する諸点を総合的に考慮したときに、本件各規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たると断ずることは困難である。

    2. また、所論は、平成27年大法廷判決以降、女性の有業率の上昇、共働き世帯の数の増加その他の社会の変化、選択的夫婦別氏制の導入等に関する国民の意識の変化、地方議会における選択的夫婦別氏制の導入を求める意見書等の採択、通称使用の急激な拡大、我が国が批准した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づき設置された女子差別撤廃委員会からの勧告などの事情の変化が生じており、これにより夫婦同氏制の合理性は失われたという。

      確かに、平成27年大法廷判決以降も、女性の有業率は上昇するとともに共働き世帯の数も増加しており、これに伴い、婚姻の際に氏を改めることにより職業活動において不利益を被る女性が更に増加していることがうかがえる。また、平成29年に内閣府が実施した世論調査の結果等において、選択的夫婦別氏制の導入に賛成する者の割合が増加しているなどの国民の意識の変化がみられる。さらに、全国の地方公共団体の議会から、地方自治法99条に基づき、国又は関係行政庁に対して、選択的夫婦別氏制の導入又はこれについての国会審議の促進を求める意見書が提出されている。他方で、通称使用が、公的な文書における使用を含めて、更に拡大、拡充してきている。そして、一般論として、この種の法制度の合理性に関わる事情の変化いかんによっては、本件各規定が上記立法裁量の範囲を超えて憲法24条に違反すると評価されるに至ることもあり得るものと考えられる。

      しかしながら、平成27年大法廷判決以降の上記の事情の変化のうち、まず、国民の意識の変化についていえば、婚姻及び家族に関する法制度の構築に当たり、国民の意識は重要な考慮要素の一つとなるものの、国民の意識がいかなる状況にあるかということ自体、国民を代表する選挙された議員で構成される国会において評価、判断されることが原則であると考えられる。そして、法制度をめぐる国民の意識のありようがよほど客観的に明らかといえる状況にある場合にはともかく、選択的夫婦別氏制の導入について、今なおそのような状況にあるとはいえないから、これを上述した女性の有業率の上昇等の社会の変化と併せ考慮しても、本件各規定が憲法24条に違反すると評価されるに至ったとはいい難い。

      また、通称使用の拡大は、これにより夫婦が別氏を称することに対する人々の違和感が減少し、ひいては、戸籍上夫婦が同一の氏を称するとされていることの意義に疑問を生じさせる側面があることは否定できないが、基本的には、平成27年大法廷判決が判示するとおり、婚姻に伴い氏を改める者が受ける不利益を一定程度緩和する側面が大きいものとみられよう。

      以上のほか、全国の地方公共団体の議会から地方自治法99条に基づく意見書が提出されていることや、女子差別撤廃委員会から平成28年にも勧告がされていることを含め、平成27年大法廷判決以降、本件処分時(平成30年3月6日)までの間に生じた諸々の事情を併せ考慮しても、憲法24条適合性に関する平成27年大法廷判決の判断を変更すべきものと認めるには至らないといわざるを得ない。

  2. もっとも、上記の法制度の合理性に関わる国民の意識の変化や社会の変化等の状況は、本来、立法機関である国会において不断に目を配り、これに対応すべき事柄であり、選択的夫婦別氏制の導入に関する最近の議論の高まりについても、まずはこれを国会において受け止めるべきであろう。この点に関しては、平成27年大法廷判決及び本件多数意見も、選択的夫婦別氏制の採否を含む夫婦の氏に関する制度の在り方は、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないと指摘しているところである。

    もとより、本件多数意見がいうように、選択的夫婦別氏制を採るのが立法政策として相当かどうかという問題と、夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題とは、次元を異にするものであって、民法750条ないし本件各規定が憲法24条に違反しないという平成27年大法廷判決及び本件多数意見の判断は、国会において上記立法政策に関する検討を行いその結論を得ることを何ら妨げるものではない。選択的夫婦別氏制の採否を含む夫婦の氏に関する法制度については、子の氏や戸籍の編製等を規律する関連制度を含め、これを国民的議論、すなわち民主主義的なプロセスに委ねることによって合理的な仕組みの在り方を幅広く検討して決めるようにすることこそ、事の性格にふさわしい解決というべきであり(平成27年大法廷判決の寺田逸郎裁判官の補足意見参照)、国会において、この問題をめぐる国民の様々な意見や社会の状況の変化等を十分に踏まえた真摯な議論がされることを期待するものである。

裁判官三浦守の意見は、次のとおりである。

私は、結論において多数意見に賛同するが、本件各規定に係る婚姻の要件について、法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことは、憲法24条に違反すると考えるので、意見を述べる。

  1. 婚姻前の氏の維持に係る利益

    氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成する(最高裁昭和58年(オ)第1311号同63年2月16日第三小法廷判決・民集42巻2号27頁参照)。

    他方、氏は、一般に、名とは別に、婚姻及び家族に関する法制度の一部として、親子関係など一定の身分関係を反映し、また、身分関係の変動に伴って改められることがあり得るものであり、婚姻における氏の在り方も、こうした法制度全体において関連する仕組みが定められる。

    しかし、そのような法律の内容如何によって、氏名について、その人格権の一内容としての意義が失われるものではない。氏は、名とあいまって、個人の識別特定機能を有するとともに、個人として尊重される基礎であって個人の人格の象徴であることを中核としつつ、婚姻及び家族に関する法制度の要素となるという複合的な性格を有するというべきである。

    そして、氏の変更に関わる身分関係の変動が婚姻という自らの意思で選択するものである場合にも、その意思が当然に氏を改めるという意思を伴うものではない。人が出生時に取得した氏は、名とあいまって、年を経るにつれて、個人を他人から識別し特定する機能を強めるとともに、その個人の人格の象徴としての意義を深め ていくものであり、婚姻の際に氏を改めることは、個人の特定、識別の阻害により、その前後を通じた信用や評価を著しく損なうだけでなく、個人の人格の象徴を喪失する感情をもたらすなど、重大な不利益を生じさせ得ることは明らかである。

    したがって、婚姻の際に婚姻前の氏を維持することに係る利益は、それが憲法上の権利として保障されるか否かの点は措くとしても、個人の重要な人格的利益ということができる。

  2. 婚姻の自由

    平成27年大法廷判決は、憲法24条1項について、婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものであるとしている。そして、最高裁平成25年(オ)第1079号同27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2427頁は、それに加えて、婚姻をするについての自由は、同項の規定の趣旨に照らし、十分尊重に値するとしたが、これは、民法の規定が、再婚をする際の要件に関し男女の区別をしていることにつき、憲法の平等原則との関係で考慮すべき点として判示したものであり、この自由の憲法上の位置付けや規範性を限定したものではないと解される。

    そもそも、婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかということは、単に、婚姻という法制度を利用するかどうかの選択ではない。婚姻は、その後の生活と人生を共にすべき伴侶に関する選択であり、個人の幸福の追求について自ら行う意思決定の中で最も重要なものの一つである。婚姻が法制度を前提とするものであるにしても、憲法24条1項に係る上記の趣旨は、個人の尊厳に基礎を置き、当事者の自律的な意思決定に対する不合理な制約を許さないことを中核とするということができる。

    そして、憲法24条1項が、婚姻は両当事者の合意のみに基づいて成立する旨を明記していることを考え併せると、法律が、婚姻の成立について、両当事者の合意以外に、不合理な要件を定めることは、違憲の問題を生じさせるというべきであり、その意味において、婚姻の自由は、同項により保障されるものと解される。

    他方で、婚姻及び家族に関する事項は、社会の種々の要因を踏まえつつ、夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるものであり、その具体的な制度の構築は、第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねられる。しかし、そのことは、他の憲法上の権利の場合と同様に(財産権、選挙権等についても、憲法上、権利や制度の内容は、法律で定めることとされている。)、婚姻の自由の保障を否定する理由となるものではない。

    取り分け、平成27年大法廷判決が述べるように、憲法24条2項は、その立法に当たり、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきものとして、その裁量の限界を画しており、憲法上の権利として保障される人格権を不当に侵害する立法措置等を講ずることは許されない。そして、この要請は、形式的にも内容的にも、同条1項を前提とすることが明らかであり、そこにいう個人の尊厳は、婚姻の自由の保障を基礎付ける意義を含むものとして、立法の限界を画するということができる。

  3. 権利の制約及び合憲性判断の枠組み

    1. 民法750条は、婚姻の効力として夫婦が夫又は妻の氏を称することを規定するが、「婚姻の際に定めるところに従い」と規定し、婚姻の際にその氏を定めることを前提としている。そして、婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生じ(民法739条1項)、婚姻の届書には、夫婦が称する氏を記載して届け出なければならないから(戸籍法74条1号)、婚姻をしようとする者は、夫婦が称する氏を定めて婚姻の届書に記載して届け出なければ、婚姻をすることができない。したがって、本件各規定は、民法739条1項とあいまって、夫婦が称する氏を定めることを婚姻の要件としており、法が他に選択肢を設けていないことは明らかである。

      これにより、婚姻をするためには、二人のうちの一人が氏を変更するほかに選択の余地がない。これは、法の定める婚姻の要件が、個人の自由な意思決定について、意思に反しても氏の変更をして婚姻をするのか、意思に反しても婚姻をしないこととするのかという選択を迫るものである。婚姻の際に氏の変更を望まない当事者にとって、その氏の維持に係る人格的利益を放棄しなければ婚姻をすることができないことは、法制度の内容に意に沿わないところがあるか否かの問題ではなく、重要な法的利益を失うか否かの問題である。これは、婚姻をするかどうかについての自由な意思決定を制約するといわざるを得ない。

      この制約は、法律上の要件により、夫婦が称する氏を定めない婚姻の成立を否定するものであって、夫婦同氏制が意図する直接的な制約といってよいが、ここでの問題は、本件各規定に係る婚姻の要件について、法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことが、婚姻の自由を制約することの合理性である。法律上の要件について、憲法上の権利の制約との関係でその合理性が問題となる以上、当該権利の性質に応じて、合憲性の審査を行う必要がある。

    2. 婚姻の自由は、前記のとおり、個人の尊厳に基礎を置き、当事者の自律的な意思決定に対する不合理な制約を許さないことを中核とする。そして、個人の尊厳は、法制度が立脚すべき基盤として立法の限界を画するものであり、立法裁量の指針や考慮要素にとどまるものではない。

      したがって、この場合、婚姻の自由の制約が正当化されるかという観点から、その合理性を判断する必要がある。その判断は、法制度全体の仕組みを前提とするものであるが、この正当化と関連しない個々の仕組みの当否や立法裁量を問題とするわけではない。例えば、嫡出子の氏の取扱いは、嫡出子に関する仕組みの下で、それが夫婦別氏の選択肢を設けないことを正当化する事情となり得るかなど、その正当化との関連で考慮される。それを超えて、この選択肢を設ける場合の子の氏の取扱いについて、様々な可能性やその当否を検討することは、基本的に、立法裁量の範囲に属する問題であって、上記の判断を左右するものではないと考えられる。

      このような婚姻及び家族に関する法制度は、社会の状況や国民の意識等の種々の要因を踏まえつつ、全体の整合性や現実的妥当性等を考慮して定められるものであり、上記の合理性の判断も、時代の状況に応じた変化と相応の幅があり得るが、それは、憲法上の権利に関する限界を前提としない立法裁量とは異なる。婚姻の自由を制約することの合理性が問題となる以上、その判断は、人格権や法の下の平等と同様に、憲法上の保障に関する法的な問題であり、民主主義的なプロセスに委ねるのがふさわしいというべき問題ではない。

    3. 以上を前提にして、憲法24条1項の保障する婚姻の自由の性質を踏まえるとともに、同条2項が立法に当たっての要請を明示していることに鑑みると、本件各規定に係る婚姻の要件について、婚姻の自由の制約が同条に適合するか否かについては、婚姻及び家族に関する法制度における本件各規定の趣旨、目的、当該自由の性質、内容、その制約の態様、程度等を総合的に衡量し、個人の尊厳と両性の本質的平等の要請を踏まえて、それが合理的なものとして是認できるか否かを判断する必要がある。

  4. 本件各規定についての合憲性

    1. 平成27年大法廷判決は、本件各規定に係る夫婦同氏制の趣旨、目的に関し、複数の点を指摘しているところ(同判決の第4の4ア)、それらについては、婚姻及び家族に関する法制度における相応の合理性があるといえる。しかし、ここで問題となるのは、夫婦同氏制がおよそ例外を許さないことが婚姻の自由の制約との関係で正当化されるかという合理性である。夫婦同氏制の趣旨、目的と、その例外を許さないこととの実質的な関連性ないし均衡の問題といってもよい。このような観点から検討すると、夫婦同氏制の趣旨、目的については、以下のような疑問がある。

      第1に、社会の構成要素である家族の呼称を一つに定め、それを対外的に公示して識別するといっても、現実の社会において、家族として生活を営む集団の身分関係が極めて多様化していることである。

      現行法は、同一の氏を称すべき家族の範囲を、日本国民の夫婦及びその間の未婚の子と養親子に限定し、それ以外の身分関係にある者を除外している。しかし、70年を超える時代の推移とともに、婚姻及び家族をめぐる状況は、大きく変化してきた。少子高齢化が著しく進展する中で、いわゆる晩婚化、非婚化が進んでいる上、離婚及び再婚も増加し、世帯の構成は、夫婦と子どものみの世帯の割合が大きく減少して多様化してきた。日本国民と外国人の婚姻も増加し、その間の子も生まれている。実際に、氏の異同を超えた家族の対応によって生計や子の養育等が支えられる場合もあり、家族の在り方は、著しく多様なものとなっている(最高裁平成24年(ク)第984号、第985号同25年9月4日大法廷決定・民集67巻6号1320頁も、婚姻及び家族の形態が著しく多様化してきたことを指摘する。)。

      婚姻及び家族に関する法制度は、広く社会一般に関わることから、簡明で規格化される必要性が高いといえるが、それだけに、長い年月を経て、ますます多様化する現実社会から離れ、およそ例外を許さないことの合理的な根拠を説明することが難しくなっているといわざるを得ない。

      第2に、同一の氏を称することにより家族の一員であることを実感する意義や家族の一体性を考慮するにしても、このような実感等は、何よりも、種々の困難を伴う日常生活の中で、相互の信頼とそれぞれの努力の積み重ねによって獲得されるところが大きいと考えられる。これらは、各家族の実情に応じ、その構成員の意思に委ねることができ、むしろそれがふさわしい性質のものであって、家族の在り方の多様化を前提に、夫婦同氏制の例外をおよそ許さないことの合理性を説明し得るものではない。

      第3に、婚姻の重要な効果である嫡出子の仕組みを前提として、嫡出子がいずれの親とも氏を同じくすることによる利益を考慮するにしても、そのような利益は、嫡出推定や共同親権等のように子の養育の基礎となる具体的な権利利益とは異なる上(児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)にも、そのような利益に関する規定はない。)、嫡出子であることを示すための仕組みとしての意義を併せて考慮することは、嫡出子と嫡出でない子をめぐる差別的な意識や取扱いを助長しかねない問題を含んでいる。また、婚姻の要件についてその例外を否定することは、子について、嫡出子に認められる上記の具体的権利利益を否定することになる。家族の在り方の多様化を前提にして、上記の利益について、法制度上の例外を許さない形でこれを特に保護することが、憲法上の権利の制約を正当化する合理性を基礎付けるとはいい難い。

      なお、近年、婚姻前の氏を通称として使用する運用が様々な形で広がっており、このような措置によって、夫婦別氏の選択肢を欠くことによる不利益が緩和される面がある。しかし、これらは、任意の便宜的な措置であって、個人の人格に関わる本質的な問題を解消するものではない上、このような通称使用の広がり自体、家族の呼称としての氏の対外的な公示識別機能を始めとして、夫婦同氏制の趣旨等として説明された上記の諸点が、少なくとも例外を許さないという意味で十分な根拠とならないことを、図らずも示す結果となっている。

      1. 他方において、本件各規定に係る婚姻の要件は、婚姻年齢や重婚等のように客観的な事実のみに係る要件ではなく、夫婦の氏を定めるという当事者の意思に関わる内容を要件としている。しかし、婚姻という個人の幸福追求に関し重要な意義を有する意思決定について、二人のうち一人が、重要な人格的利益を放棄することを要件として、その例外を許さないことは、個人の尊厳の要請に照らし、自由な意思決定に対し実質的な制約を課すものといわざるを得ない。現に、そのような不利益を回避するために、やむを得ず法律上の婚姻をしないという選択をする場合も生じている。

      2. また、本件各規定は、その文言上性別に基づく差別的な取扱いを定めているわけではないが、長年にわたり、夫婦になろうとする者の間の個々の協議の結果として、夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めており、現実に、多くの女性が、婚姻の際に氏を改めることによる不利益を受けている。このことは、国民の間に、夫婦の氏の選択について極端な偏りを生じさせる意識や考え方が広く存在することを明らかに示しており、夫婦となろうとする者双方の真に自由な選択の結果ということ自体にも疑問が生ずるところである。

        この点に関連して、平成27年大法廷判決は、旧民法(昭和22年法律第222号による改正前の明治31年法律第9号をいう。)施行以来、夫婦同氏制が我が国社会に定着してきたと評価している。しかし、昭和22年の上記改正までは、氏は家の呼称とされ、妻は婚姻により夫の家に入ることを原則とする家制度が定められていたものであり、それは、法律上妻の行為能力を著しく制限するなど、両性の本質的平等とはおよそ相容れないものであった。

        また、上記改正により、家制度は廃止されたものの、夫婦及び子が同一の氏を称する原則が定められたことから、氏は、一定の親族関係を示す呼称として、男系の氏の維持、継続という意識を払拭するには至らなかったとの指摘には理由がある。さらに、高度経済成長期を通じて、夫は外で働き妻は家庭を守るという、性別による固定的な役割分担(男女共同参画社会基本法4条参照)と、これを是とする意識が広まったが、そのような意識は、近年改善傾向にあるものの、男性の氏の維持に関する根強い意識等とあいまって、夫婦の氏の選択に関する上記傾向を支える要因となっていると考えられる。この問題に関する立法のプロセスについても、これらの事情に伴う影響を否定し難いところであろう。夫婦同氏制の「定着」は、こうして、それぞれの時代に、少なくない個人の痛みの上に成り立ってきたということもできる。

        いずれにせよ、夫婦同氏制は、現実の問題として、明らかに女性に不利益を与える効果を伴っており、両性の実質的平等という点で著しい不均衡が生じている。婚姻の際に氏の変更を望まない女性にとって、婚姻の自由の制約は、より強制に近い負担となっているといわざるを得ない。

      3. さらに、70年以上の歳月を経て、その間の社会経済情勢の著しい変化等に伴い、国民の価値観や意識も大きく変化し、ライフスタイルや家族の生活の在り方も著しく多様化している。取り分け、女性の就業率の上昇とともに、いわゆる共働きの世帯が著しく増加しただけでなく、様々な分野において、継続的に社会と関わる活動等に携わる女性も大きく増加し、婚姻前の氏の維持に係る利益の重要性は、一層切実なものとなっている。

        今日、我が国において、男女が、互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる社会を実現することは、緊要な課題であり、そのためには、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立的なものとすることが求められる(男女共同参画社会基本法前文、4条参照)。

      4. 国際的な動向をみると、昭和54年に採択され、昭和60年に我が国も批准した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(昭和60年条約第7号。以下「女子差別撤廃条約」という。)は、締約国に対し、いわゆる間接差別を含め、女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃を義務付け(1条、2条)、自由かつ完全な合意のみにより婚姻をする同一の権利並びに姓を選択する権利を含む夫及び妻の同一の個人的権利について、女性に対する差別の撤廃を義務付けている(16条1項(b)、(g))。そして、女子差別撤廃委員会は、一般勧告において、各パートナーは、自己の姓を選択する権利を有し、法又は慣習により、婚姻に際して自己の姓の変更を強制される場合には、女性は、その権利を否定されているものとし、さらに、我が国の定期報告に関する最終見解において、繰り返し、女性が婚姻前の姓を使用し続けられるように法律の規定を改正することを勧告している。

        昭和22年当時は、夫婦が同一の姓を称する制度を定める国も少なくなかったが、その後、女子差別撤廃条約の採択及び発効等を経て、現在、同条約に加盟する国で、夫婦に同一の姓を義務付ける制度を採っている国は、我が国のほかには見当たらない。

        婚姻及び家族に関する法制度は、それぞれの国の社会の状況や国民の意識等を踏まえて定められるものであるが、人権の普遍性及び憲法98条2項の趣旨に照らし、以上のような国際的規範に関する状況も考慮する必要がある。

    2. 夫婦別氏の選択肢を設ける場合には、嫡出子に関する仕組みの下における嫡出子の氏の取扱いや、氏を異にする夫婦及びその子の戸籍の編製の在り方などを定める必要があり、これらについては、政策的な検討と判断が必要である。しかし、平成8年に法制審議会が「民法の一部を改正する法律案要綱」の答申をしてからおよそ四半世紀が経過し、その間も様々な場における議論や上記勧告等がなされる中で、国会においては、具体的な検討や議論がほとんど行われてこなかったものとうかがわれ、上記の点が、夫婦別氏の選択肢を設けていないことを正当化する理由となるものではない。

    3. 以上のような事情の下において、本件各規定について、法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことが、婚姻の自由を制約している状況は、個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らし、本件処分の時点で既に合理性を欠くに至っているといわざるを得ない。

      したがって、本件各規定に係る婚姻の要件について、法が夫婦別氏の選択肢を設けていないこと、すなわち、国会がこの選択肢を定めるために所要の措置を執っていないことは、憲法24条の規定に違反する。

  5. 婚姻の届出の受理

    本件各規定について、上記の違憲の問題があるとしても、婚姻の要件として、夫婦別氏の選択肢に関する法の定めがないことに変わりはない。

    婚姻における氏の在り方は、婚姻及び家族に関する法制度全体において関連する仕組みが定められる。本件各規定は、そのような仕組みの一部として、夫婦同氏に係る婚姻の効力及び届書の記載事項を定めるものであり、その内容及び性質に鑑みると、それらが一つの選択肢に限定する部分については違憲無効であるというにしても、それを超えて、他の選択肢に係る婚姻の効力及び届書の記載事項が当然に加えられると解することには無理がある。

    また、婚姻の届出は、婚姻の要件であるとともに(民法739条1項)、戸籍の編製及び記載の根拠となるものであるところ(戸籍法15条、16条)、戸籍は、一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに編製するものとされ(同法6条)、夫婦別氏の選択肢を設けるには、子の氏に関する規律をも踏まえ、戸籍編製の在り方という制度の基本を見直す必要がある。その上で、夫婦の氏に関する当事者の選択を確認して戸籍事務を行うため、届書の記載事項を定めるとともに、その届出に基づいて行うべき戸籍事務(同法13条、14条、16条等参照)等について定める必要がある。国会においては、速やかに、これらを含む法制度全体について必要な立法措置が講じられなければならない。

    こうした措置が講じられていない以上、本件各規定の内容及び性質という点からみても、法制度全体としてみても、法の定めがないまま、解釈によって、夫婦別氏の選択肢に関する規範が存在するということはできない。したがって、夫婦が称する氏を記載していない届書による届出を受理することはできないといわざるを得ない(民法740条)。

    このような届出によって婚姻の効力が生ずると解することは、婚姻及び家族に関する事項について、重要な部分に関する法の欠缺という瑕疵を伴う法制度を設けるに等しく、社会的にも相応の混乱が生ずることとなる。これは、法の想定しない解釈というべきである。

以上のとおりであるから、抗告人らの申立てを却下すべきものとした原審の判断は、結論において是認することができる。

裁判官宮崎裕子、同宇賀克也の反対意見は、次のとおりである。

私たちは、多数意見と異なり、本件各規定は憲法24条に違反するものであるから、原決定を破棄し、抗告人らの婚姻の届出を受理するよう命ずるべきであると考える。その理由は、以下のとおりである。

  1. 憲法24条1項について

    1. 憲法24条1項の法意、趣旨

      1. 憲法24条1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と定めている。これは、婚姻においても憲法13条及び14条1項の趣旨が妥当することを前提とした上で、婚姻の成立と婚姻の維持についてかかる趣旨を具体的に定める規定と解される。最高裁平成25年(オ)第1079号同27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2427頁(以下「再婚禁止期間大法廷判決」という。)は、憲法24条1項は、婚姻をするについての当事者の意思決定は、当該当事者の「自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」であると判示しており、平成27年大法廷判決にも同文の判示がある。婚姻をするについての当事者の意思決定が自由かつ平等なものでなければならないことは、憲法13条及び14条1項の趣旨から導かれると解されるから、憲法24条1項の規定は、憲法13条の権利の場合と同様に、かかる意思決定に対する不当な国家介入を禁ずる趣旨を含み、国家介入が不当か否かは公共の福祉による制約として正当とされるか否かにより決せられる。

        そして、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という憲法24条2項の規定は、同条1項も前提としつつ、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請、指針を示すことによって、婚姻及び家族に関する事項に係る法律の制定改廃における立法裁量の限界を画したものである(平成27年大法廷判決参照)。この「立法裁量の限界」は、かかる法律が憲法13条、14条1項に反するものであってはならないだけでなく、婚姻については憲法24条1項の趣旨に反するものであってもならず、また、これらの憲法の条項に反するとまではいえない場合であってもいずれの部分においても個人の尊厳と両性の本質的平等の原則を侵す内容であってはならないことを意味すると解される。

      2. 最高裁昭和34年(オ)第1193号同36年9月6日大法廷判決・民集15巻8号2047頁(以下「昭和36年大法廷判決」という。)は、憲法24条の法意は、「民主主義の基本原理である個人の尊厳と両性の本質的平等の原則を婚姻および家族の関係について定めたものであり、男女両性は本質的に平等であるから、夫と妻との間に、夫たり妻たるの故をもって権利の享有に不平等な扱いをすることを禁じたもの」であると判示しており、上記アで述べた同条1項の解釈は、昭和36年大法廷判決にも沿うものである。

      3. 上記の法意も踏まえて、更に具体的に検討すると、法律によって婚姻の成立に何らかの制約を課すことが憲法24条1項の趣旨に照らして、婚姻をすることについての当事者の自由かつ平等であるべき意思決定に対する不当な国家介入に当たらないといえるためには、その制約が、夫婦になろうとする個人のそれぞれの人格が尊重されることを否定するものであってはならず、自由かつ平等であるべき本人の意思決定を抑圧するものでないことが必要である。

      4. 婚姻は両当事者が相互に個人として尊重される関係であるべきことを踏まえるならば、憲法24条1項の「夫婦が同等の権利を有することを基本として」との規定部分における「権利」には、昭和36年大法廷判決が判断の対象とした財産権だけではなく、人格権(人格的利益を含む。)も当然含まれるといってよい。そして、かかる「権利」が憲法上の権利に限定されると解すべき根拠は文理上見当たらない。そもそも、憲法上の権利については、国民は、婚姻しているか否かにかかわらず、すべからく個人として性別による差別なく憲法13条の権利を享受できるのであるから、わざわざ夫となり妻となった者のみを捉えて平等原則を規定することが憲法24条1項のこの部分の規定の趣旨であるとは解し難い。むしろ、この「権利」には、憲法の他の条項に基づく憲法上の権利に当たるか否かにかかわらず、婚姻の基礎にあるべき個人の尊重あるいは個人の尊厳という観点からみて重要な人格権が含まれ、かかる「権利」について、当該個人が夫であり妻であるがゆえに、その一方のみが享有し他方が享有しないという不平等な扱いを禁じたものと解するのが、婚姻について特にこの規定が設けられた趣旨に沿う。

      5. 昭和36年大法廷判決は、財産権についての判断において、憲法24条1項の「夫婦が同等の権利を有することを基本として」との規定部分は、「継続的な夫婦関係を全体として観察した上で、婚姻関係における夫と妻とが実質上同等の権利を享有することを期待した趣旨」であると判示している。しかし、この判示を踏まえても、人格権については分割を観念することができないことを考えると、夫と妻の双方がそれぞれ人格権を享有することが第三者の権利を不当に侵害するとか、公共の福祉に反することになるなどの正当な理由がないにもかかわらず、婚姻のみを理由として夫と妻とがそれぞれの人格権を同等に享有することが期待できない結果をもたらすことになるような法律の規定は、憲法24条1項の趣旨に反すると解されよう。

      6. 婚姻自体は、国家が提供するサービスではなく、両当事者の終生的共同生活を目的とする結合として社会で自生的に成立し一定の方式を伴って社会的に認められた人間の営みであり、私たちは、原則として、憲法24条1項の婚姻はその意味と解すべきであると考える。もし様々な理由から、婚姻の成立や効力、内容について法令によって制約を定める必要があるのであれば、かかる制約が合理性を欠き上記の意味における婚姻の成立についての自由かつ平等な意思決定を憲法24条1項の趣旨に反して不当に妨げるものではないことを、一つひとつの制約について各別に検討すべきである。民法733条1項の再婚禁止期間の制約についてなされた再婚禁止期間大法廷判決の違憲判断は、正にその検討の結果であったが、その検討を経た上で、かかる制約に合理性があると認められる場合には、法律によって婚姻にかかる制約を課すことは憲法24条1項の趣旨に反するものではない。

      7. 例えば、婚姻の成立に市町村長への届出を要件とする手続制度自体は、婚姻に伴う権利義務を定め、国家としてもその権利義務の実現に係る責務を履行する上で必要といえるから、届出義務を課すことは婚姻に対する合理的制約であって憲法24条1項の趣旨に反しないと考えることができるし、それ以外にも、重婚の禁止や近親血族間の婚姻禁止等公共の福祉の見地からの制約も合理的な制約といえることについては私たちも異論はない。

      8. しかし、民法における婚姻制度において定められた特定の制約が、婚姻をするについての当事者の自由かつ平等な意思決定を憲法24条1項の趣旨に反して不当に侵害すると認められる場合には、かかる制約はかかる侵害を生じさせる限度で違憲無効とされるべきである。民法が定める制約の中にそのような違憲無効な制約が含まれている場合に、違憲無効な制約に服することを所与の前提としてされる婚姻の意思決定は、憲法24条1項の趣旨に沿う婚姻をするについての自由かつ平等な意思決定とはいえない。また、婚姻及び家族に関する事項については法制度の制度設計が重要な意味を持つことに異議はないが、そのことゆえに違憲無効な制約が合憲とされるべき理由はない。
      9. 以上から、憲法24条1項の婚姻は、民法によって定められた婚姻制度上の婚姻から、同項を含む憲法適合性を欠く制約を除外した内容でなければならないと考える。
    2. 夫婦同氏を婚姻届の受理要件とすることは、婚姻をするについての直接の制約と解されること

      1. 戸籍法74条1号は、婚姻届には「夫婦が称する氏」として夫又は妻の氏のいずれか一つを記載しなければならない旨規定し、この記載(以下「単一の氏の記載」という。)を、婚姻届の必要的記載事項の一つと定めている。本件では、抗告人らが、単一の氏の記載をせず、代わりに双方が生来の氏を称することを希望する旨記載した婚姻届(以下「本件婚姻届」という。)を提出したのに対し、市町村長が、本件婚姻届には単一の氏の記載が欠けていることを理由としてこれを不受理とする本件処分をしたため、本件婚姻届による婚姻は成立していない。平成27年大法廷判決では、夫婦同氏は婚姻の効力の一つであって婚姻をするについての直接の制約には当たらない旨判断されていたが、抗告人らは、本件婚姻届の不受理に係る上記の経緯を踏まえた上で、抗告人らについて単一の氏の記載(すなわち、夫婦同氏)を婚姻成立の要件とすることは婚姻をするについての直接の制約に当たると主張している。

      2. そこで検討すると、まず、婚姻届に「夫婦が称する氏」の記載を義務付ける戸籍法74条1号を、「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる」と規定する民法739条1項と併せてみれば、単一の氏の記載が婚姻届の受理要件とされていること、婚姻届が受理されることによって婚姻の法的な効力が発生する、すなわち婚姻が成立するとされていることは、文理上明らかである。

      3. しかるに、この受理要件が婚姻をするについての直接の制約であるかという問題は、婚姻の成立について定める憲法24条1項適合性の問題であるから、かかる「婚姻」を上記ケで述べた同項の「婚姻」と同じ意味に解した上で、この受理要件の意味を検討する必要がある。そうすると、本件において、抗告人らに対して単一の氏の記載(夫婦同氏)を婚姻届の受理要件とするという制約を課すことは、下記(4)で詳しく述べるように、抗告人らの婚姻をするについての意思決定を抑圧し、自由かつ平等な意思決定を妨げるものといわざるを得ない。そうである以上、本件においては、そのような制約は、婚姻をするについての直接の制約に当たると解することができる。

    3. 本件で抗告人らが主張している人格的利益の由来と性質について

      1. 抗告人らは、夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることにより抗告人らが有する生来の氏名に関する人格的利益が侵害されることを挙げて上記の受理要件が婚姻をするについての直接の制約であると主張しているので、ここで、この人格的利益の由来と性質を検討する。平成27年大法廷判決の中でこの点に関する考え方を表していると思われる判示は、婚姻の際に「氏の変更を強制されない自由」が憲法13条で保障される権利に当たるかの判断の中の、氏は名とは切り離された存在としての意義があり、氏に関する人格権の内容は法制度をまって初めて具体的に捉えられるものという部分であると思われる。

        しかし、私たちは、氏を名から切り離して論ずる点についても、氏に関する人格権は法制度をまって初めて具体的に捉えられるものであるとする点についても、次の理由で平成27年大法廷判決とは見解を異にする。

      2. 今日では、氏と名によって構成される氏名が個人の名前であると認識されているところ、①氏名には氏だけよりもはるかに高度の個人識別機能及び自己同定機能があること、②名前を構成する要素が一般に氏と名のみとされたのは明治時代であり、それ以前は名前の構成には様々なバリエーションがあったといわれているが、構成要素のいかんにかかわらず名前を個人識別に使用することは、社会において自然発生的に行なわれていた習俗ともいうべきことであるから、氏名(名前)の個人識別機能や自己同定機能は法制度がなければ認められない性質のものとはいえないこと、③本件において抗告人らが主張している氏名に関する人格的利益とは、下記ウで述べるように、氏名(名前)が高度の個人識別機能及び自己同定機能を持つことに由来するものであること、④婚姻による氏の変更は自動的に婚姻前の氏名と婚姻後の氏名の同一性を失わせる結果、他人からの個人識別についても自分自身の自己同定(人格認識)についても重大な影響や混乱をもたらすことが避けられないことを考えるならば、夫婦同氏を婚姻成立要件とすることが婚姻をするについての直接の制約かについて判断するに当たっては、氏名に関する人格的利益の由来や性質をこそ考慮すべきであって、氏を名から切り離して論ずるだけではこの争点に含まれる問題の本質を的確に捉えることはできない。

      3. 本件で主張されている氏名に関する人格的利益は、氏を構成要素の一つとする氏名(名前)が有する高度の個人識別機能に由来するものであり、氏名が、かかる個人識別機能の一側面として、当該個人自身においても、その者の人間としての人格的、自律的な営みによって確立される人格の同定機能を果たす結果、アイデンティティの象徴となり人格の一部になっていることを指すものである。これは、上記において述べた人格権に含まれるものであり、個人の尊重、個人の尊厳の基盤を成す個人の人格の一内容に関わる権利であるから、憲法13条により保障されるものと考えられる。したがって、この権利を本人の自由な意思による同意なく法律によって喪失させることは、公共の福祉による制限として正当性があるといえない限り、この権利に対する不当な侵害に当たる。このように、この人格的利益は、法律によって創設された権利でも、法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく、人間としての人格的、自律的な営みによって生ずるものであるから、氏が法制度上自由に選択できず、出生時に法制度上のルールによって決められることは、この人格的利益を否定する理由にはなり得ない。

      4. 平成27年大法廷判決は、氏に関する人格権について、その内容は法制度をまって初めて具体的に捉えられると判示しているが、法制度がこの人格的利益の内容を定めているのではなく、この人格的利益の内容は、上記ウで述べたとおり、個人の尊重、個人の尊厳の基礎である人格の一内容と理解することができるのである。したがって、法制度によって具体的に捉えられるのは、この人格的利益の内容ではなく、この人格的利益に対して法制度が課している制約の内容にすぎない。以上の考え方を踏まえると、本件では、法律によって氏あるいは氏名に課されている制約が上記のような性質、内容を持つ人格的利益に対する不当な侵害に当たるか否かの検討が求められているということになる。そして、そうであるからこそ、本件では、氏名に関する人格的利益の由来、性質を明らかにした上で、夫婦同氏を婚姻成立の要件とするという本件各規定によって課されている制約に合理性があるか、公共の福祉による制限として正当性があるかが問われなければならないのである。

    4. 民法750条を含む本件各規定によって課される制約の意味について
      1. 夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは、婚姻をするについての意思決定と同時に人格的利益の喪失を受け入れる意思決定を求めることを意味すること

        1. 本件において抗告人らが単一の氏の記載をせず、双方が生来の氏を称することを希望する旨記載して本件婚姻届を提出した理由は、婚姻に伴って一方当事者が氏を変更することになると、当該当事者はその変更により、それまで有していた戸籍簿上公的に確認できる氏名が消滅させられ、その結果、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容であった生来の氏名が失われ、アイデンティティを喪失するなど氏名に紐付いていた人格的利益を失うこととなり、かつ、婚姻による氏の変更によって生ずる氏名(名前)の変更の事実は、社会においては、当然には認識・周知されないため、社会における個人の同一性の認識阻害という結果をもたらし、変更前の氏名に紐付けられていた当該個人に対する評価が損なわれるなどの形で人格的利益の侵害が生ずるからというものである。

        2. 抗告人らのように婚姻後もそれぞれの人格の象徴であった生来の氏名を維持することを希望する者にとっては、夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは、婚姻をするについての意思決定は、上記のような人格的利益の喪失を受け入れるという(本人の希望に反する)意思決定と同時にしない限り、婚姻の意思決定として法的に認められないことを意味することになる。

      2. 夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは、婚姻後、夫婦が同等の権利を享有できず、一方のみが負担を負い続ける状況を作出させること

        1. 本件では、抗告人らは、夫婦同氏制の下では、一方の当事者が生来の氏名に関する人格権の侵害を受け入れ、アイデンティティの喪失を受け入れなければ婚姻をすることができないのに対して、他方の当事者は生来の氏名に関する人格権を全く制約されることなく享受できるという点を捉えて、夫と妻とがそれぞれの人格権を同等に享有できないことも夫婦同氏制の問題として指摘している。
        2. 平成27年大法廷判決にはこの問題について言及する判示は見当たらないが、確かに、婚姻届への単一の氏の記載という要件を婚姻の成立要件として課すことは、婚姻により当事者の一方のみが生来の氏名に関する人格的利益を享受し続けるのに対し、他方は自分自身についてのかかる人格的利益を享受できず、かつ、かかる人格的利益の喪失による負担を負い続ける状況になることを意味し、婚姻が継続する限りその一方的な不平等状態は変わらないし変えられないことは自明である。言い換えると、夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることによって、婚姻により氏を変更することとなる当事者は、婚姻が継続する限り、かかる人格的利益を他方当事者と同等に享有することを期待することすらできないという状況、すなわち、夫婦同氏制のゆえに、婚姻によって夫となり妻となったがゆえにかかる人格的利益を同等に共有することができない状況が必ず作出されることになる。

      3. 本件においては、夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることによって婚姻をするについての自由かつ平等な意思決定が抑圧されること

        1. 氏名に関する人格的利益の性質についての私たちの考え方は、上記で述べたとおりであるが、その考え方に立つと、抗告人らのように、生来の氏名が失われることによるアイデンティティの喪失を受け入れることができず双方が生来の氏を使用することを希望する者に対して、単一の氏の記載(夫婦同氏)を婚姻成立の要件とするという制約を課すことは、①自身が氏を変更する側となる当事者にとっては、生来の氏名に関する人格的利益が侵害されることを前提として受け入れた上で、婚姻の意思決定をせよというに等しく、②当事者双方にとっては、自身が氏を変更する側になるか変更しない側になるかにかかわらず、自分又は相手の人格の一部を否定し、かつ婚姻が維持される限り夫と妻とがかかる人格的利益を同等に享有することができないこととなることを前提とした上で婚姻の意思決定をせよというに等しい。これは、当事者がする婚姻をするについての意思決定は、上記①及び②の前提を本人の意思に反して受け入れるという意思決定と同時にしない限り、婚姻の意思決定として法的に認められないことを意味する。しかし、かかる人格的利益の性質は上記 で述べたように、個人の尊重、個人の尊厳の基盤を成す個人の人格の一内容に関わる人格権に当たるのであるから、その権利に対する制約を当事者の自由な意思に反して受け入れることに同意しない限り婚姻をするについての意思決定が法的に認められないというのでは、婚姻をするについての意思決定が自由かつ平等な意思決定であるとは到底いえない。

        2. もし、氏の変更(上記の①及び②はその効果)について当事者の自由意思による同意があるならば、婚姻の意思決定は自由かつ平等な意思決定であると認めることができるという点については私たちも異議はないが、抗告人らは、氏の変更について自由意思による同意はしていないし、同意する意思はないことを本件婚姻届において明らかにしている。したがって、抗告人らのように双方が生来の氏を希望する者に対して、夫婦同氏を婚姻成立の要件とする制約を課すことは、抗告人らの婚姻をするについての意思決定を抑圧して自由かつ平等な意思決定を妨げるものであるから、憲法24条1項の趣旨に反する侵害に当たるというほかない。

          なお、夫婦同氏制は夫婦になろうとする者の対等な協議によって氏を選ぶと定めるものであることは、上記の結論に影響を及ぼさない。なぜならば、その協議は、夫婦同氏が婚姻成立の要件であることを所与のものとして認めなければならないという条件付きの協議でしかなく、双方がそれぞれの生来の氏を選ぶという選択肢は最初からないこととされているのであるから、双方が生来の氏を選ぶことを希望する者にとっては、その協議の結果が自由かつ平等な意思決定によるものとはいえないからである。

    5. 上記の侵害の不当性

      1. 婚姻の成立にこのように憲法24条1項の趣旨に反する結果をもたらすような夫婦同氏を婚姻成立の要件とするという制約を課し、もって婚姻をするについての当事者の意思決定を抑圧して自由かつ平等な意思決定を妨げることになったとしても、もしその制約を正当化するような公共の福祉の観点からの合理性があるならば、夫婦同氏を婚姻成立の要件とするという制約は同項の趣旨に反するほどの不当な国家介入とはいえないと考えることができる。そこでこの点について次に検討する。

      2. 本件において問題とされている単一の氏の記載(夫婦同氏)という婚姻成立の要件は、民法750条が定める夫婦同氏制に基づいて課されている制約である。そこで、夫婦同氏制が合理性を有する理由として平成27年大法廷判決が挙げる、氏が家族の呼称としての意義を有することが、公共の福祉の観点からこの制約の合理性を基礎付けることができるかを検討すると、そもそも氏が家族の呼称としての意義を有するとする考え方は、憲法上の根拠を有するものではない。(振り返ると、我が国でもかつては夫婦別氏制であった時代があったが、その制度が、明治31年施行の旧民法によるいわゆる「家」制度の採用に伴って夫婦同氏制に改められ、その後「家」制度は現行憲法の制定とともに廃止されたものの、夫婦同氏制は維持されたという歴史をたどったことは一般的に知られている。旧民法においては、氏は「家」の呼称であり、その結果として夫婦同氏となったのであるが、「家」制度を前提としない現行憲法の制定過程において夫婦同氏制の憲法適合性について十分な議論がなされたことはうかがわれない。)

      3. 次に、家族という概念は、憲法でも民法でも定義されておらず、その外延は明確ではない。社会通念上は、その概念は多義的である。戸籍法は、夫婦及び父母の氏を称する未婚子を単位として戸籍を編成しているが、その単位のみが家族として社会的に認知されているわけではなく、社会通念上は、婚姻後においても、自分の両親、祖父母や兄弟姉妹を含み得る概念として自然に用いられているといえよう。そして、今日においてもなお、氏が家系という意味での「家」の呼称として用いられる場合すらある。また、夫婦とその未婚子から成る世帯は、ますます減少しており、世帯の実態は多様化している。そのような中にあって、夫婦とその未婚子から成る世帯のみを家族と捉え、そのことをもって、氏はかかる家族の呼称としての意義があることが、氏名に関する人格権を否定する合理的根拠になるとは考え難い。

      4. 他方で、憲法24条1項は婚姻の自由だけでなく、その反面において離婚の自由、再婚の自由も保障する趣旨の規定であると解され、民法も、本人の合意による離婚や再婚を制限する規定を何ら設けていない。そして、民法が定める家族制度においては、法律婚をしている父母の嫡出子の氏は父母の氏とするというルールが設けられている一方で、子を持つ両親が離婚し、さらにそれぞれが別の相手と再婚し、それを繰り返すことは何ら制限されておらず、その結果として子自身の意思によることなく、親の離婚、再婚により、実の両親と、さらには同居の家族とみられる者とも、子の氏が異なる状況に置かれることが民法の制度上も当然想定され、容認されている。このことは、民法が、子の氏とその両親の氏は同じでなければならないことを常に要求しているわけではないことを示している。この点を勘案すると、子の氏とその両親の氏が同じである家族というのは、民法制度上、多様な形態をとることが容認されている様々な家族の在り方の一つのプロトタイプ(法的強制力のないモデル)にすぎないと考えられる。そして、現実にも、夫婦とその未婚子から成る世帯は、時代を追うごとにますます減少しており、世帯や家族の実態は極めて多様化し、子の氏とその子が家族として暮らす者の氏が異なることもまれでなくなっている。したがって、そのプロトタイプたる家族形態において氏が家族の呼称としての意義を有するというだけで人格的利益の侵害を正当化することはできないと考える。他の家族形態においてはそもそも氏が家族の呼称という実態自体があるとはいえないからである。

      5. 私たちは、氏には家族の呼称という側面があることまで否定するものではないが、既に述べたように、それを憲法上の要請と位置付ける根拠はなく、平成27年大法廷判決が夫婦同氏制に合理性があるとして挙げている「氏は、家族の呼称としての意義がある」という説明に氏名に関する人格権を否定する合理的根拠があるとは考えにくい。加えて、それ以外に同判決で夫婦同氏制の合理性の説明として挙げられている内容(氏は夫婦であることを対外的に公示し識別する機能を有すること、嫡出子であることを示すこと、家族の一員であることを実感すること、子がいずれの親とも氏を同じくすることによる利益を享受しやすくすること)は、いずれも民法が想定している夫婦や親子の姿の一部を捉えているとはいえても、上記で述べた家族形態の多様化という現実と、家族の形が多様であることを想定し容認する民法の寛容な基本姿勢に照らすと、夫婦同氏制の合理的根拠とはいい難い。

      6. したがって、私たちは、抗告人らのように生来の氏名に関する人格的利益の喪失を回避し、夫婦が同等の人格的利益を享受することを希望する者に対して夫婦同氏を婚姻成立の要件として当事者の婚姻をするについての意思決定を抑圧し、もって婚姻をするについての自由かつ平等な意思決定を侵害することについて、公共の福祉の観点から合理性があるということはできないと考える。 そうすると、本件各規定は、抗告人らのように婚姻しようとする当事者双方が生来の氏を称することを希望する者に対して、夫婦に同氏を強制し婚姻届に単一の氏の記載を義務付ける点で、憲法24条1項の趣旨に反するというべきである。

      7. 付言するに、そもそも、婚姻は私的な事柄であり、プライバシーに属する情報である。当事者がそれを公表することは自由であるが、当事者が公表したくないにもかかわらず、それを公示することは、プライバシー侵害となり得る。嫡出子であることを「氏」をもって対外的に公示することは、逆に、非嫡出子や離婚した母子家庭の子供に対する差別を助長するというマイナス面があるともいえる。嫡出子であることによる法律上の利益は、実の両親の共同親権に服することを含めて幾つかあるが、それらは、両親が法律婚をしていることの公的な証明手段があれば享受することができるのであって、両親の氏が同一であるから享受できるというものではない。夫婦同氏制が違憲と判断されれば、両親が法律婚をしていることの公的な証明手段を諸外国と同様に法定することが困難であるとは考え難い。

      8. なお、夫婦同氏の強制を人格権侵害と感ずるかについて個人差があることは事実であるが、そのことは、本件において、夫婦同氏を婚姻成立の要件とするという制約が生来の氏名に関する人格的利益や婚姻をするについての自由かつ平等な意思決定に対する憲法24条1項の趣旨に反する侵害であることを否定する理由にはならない。このことは、プライバシー権を考えてみれば明らかと思われる。何をプライバシー侵害と感ずるかについては、個人差があり、例えば、自分が難病にかかったことを公表する人も少なくないが、他方、それを他人に知られたくないと思う人も少なからず存在すると考えられる。後者の人にとって、難病にり患していることを他人に知られない利益はプライバシー権として憲法上保障されるべきであって、そのような事実を他人に知られないことを望まない人がある程度存在するからといって、それを他人に知られることを望まない人の利益をプライバシー権として保障することを否定することにはならない。

  2. 憲法24条2項について

    1. 判断枠組みを異にし、結論を異にすること

      1. 憲法24条2項は、婚姻及び家族に関する事項に関しては、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。しかるに、平成27年大法廷判決は、夫婦同氏制を定める法律の規定が憲法13条、14条1項に違反しない場合に、更に憲法24条にも適合するものとして是認されるか否かは、当該法制度の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し、当該規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から総合判断すべきであるという判断枠組みを示している。

      2. しかしながら、私たちは、上記1で述べた理由で、抗告人らのように婚姻届において夫婦同氏に同意しないことを明らかにしている者に対して夫婦同氏を婚姻成立要件として課すことは、婚姻をするについての当事者の意思決定を抑圧し、もって婚姻をするについての自由かつ平等な意思決定を妨げる不当な国家介入に当たり、憲法24条1項の趣旨に反するので、本件については、平成27年大法廷判決が示した上記の判断枠組みの適用の前提を欠くから、その判断枠組みによって判断することはできず、法律が同項の趣旨に反する場合には、そのことのみをもって、かつその限度では、同条2項の個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した法律とはいえず、立法裁量を逸脱していると考える。

      3. すなわち、夫婦同氏制を定める民法750条を含む本件各規定を、当事者双方が生来の氏を変更しないことを希望する場合に適用して単一の氏の記載(夫婦同氏)があることを婚姻届の受理要件とし、もって夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは、当事者の婚姻をするについての意思決定に対する不当な国家介入に当たるから、本件各規定はその限度で憲法24条1項の趣旨に反する。したがって、本件各規定は、その限度で、憲法24条2項の個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した法律とはいえず、立法裁量を逸脱しており、違憲といわざるを得ない。私たちの意見は、もとより、夫婦別氏を一律に義務付けるべきとするものではなく、夫婦同氏制に例外を設けていないことを違憲とするものであり、この点については平成27年大法廷判決における木内道祥裁判官の意見と趣旨を同じくする。

    2. 平成27年大法廷判決の判断枠組みによったとしても、その後の事情の変化をも考慮して、憲法24条違反と判断すべきこと

      仮に、生来の氏名に関する人格的利益は憲法上の権利に当たらず、本件各規定が憲法24条1項の趣旨に反する婚姻成立の要件を定めるものとは直ちにはいえないという見解に立ち、平成27年大法廷判決が判示する判断枠組みによって夫婦同氏制の憲法24条適合性を総合判断することとしたとしても、私たちは、本件における夫婦同氏制の同条適合性判断においては、以下に述べる3点(ア、イ及びウ)を、平成27年大法廷判決では考慮されなかった事情として追加的に考慮すべきであり、それらを適切に考慮すれば、夫婦同氏制を定めた本件各規定は、遅くとも本件処分の時点においては、個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないから、同条に違反するとの結論に至るものと考える。

      1. 夫婦同氏制は個人の尊厳と両性の本質的平等に適合しない状態を作出する制度であること

        1. 夫婦同氏制は、氏名に関する人格的利益を夫と妻とが同等に享有することができない状況を作出する制度であることについては、上記1(4)イで指摘したが、たとえ本件において抗告人らが主張している氏名に関する人格的利益が憲法13条で保障された権利に当たらないという見解に立つとしても、この氏名に関する人格的利益は、最高裁昭和58年(オ)第1311号同63年2月16日第三小法廷判決・民集42巻2号27頁が人格権の一内容であると判示した権利・利益と少なくとも同質・同等の権利・利益である。そうである以上、この人格的利益が個人の人格の中枢に関わるものであること(そうでなければアイデンティティの喪失感などを抱くことはない。)を否定することはできないから、上記1(4)イの指摘はそのまま当てはまる。したがって、夫婦同氏制は、この点において個人の尊厳と両性の本質的平等に反する結果をもたらす制度であるといわざるを得ない。

        2. 平成27年大法廷判決の憲法24条適合性の判断では、夫婦同氏制にこのような問題があることについては全く触れられていないので、この点は、同判決では考慮されていない事情として本件において考慮する必要があるというべきである。この点を、妻側が氏を変更する夫婦の割合が約96%に上るという実態と併せてみると、結局のところ、約96%の夫婦において、夫婦同氏制によって生来の氏名に関する人格的利益を失い、夫との不平等状態に置かれるのは妻側であるという、性別による不平等が存在しているというのが実態であることになる。

        3. しかるに、憲法24条2項は、婚姻及び家族に関する事項を法律事項とするとのみ定めているわけではなく、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して法律が制定されなければならないと明記している。それにもかかわらず、上記のとおり個人の尊厳と両性の本質的平等のいずれの趣旨にも反する結果をもたらす夫婦同氏制が、憲法24条2項が明記する個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度であると解することは困難である。

      2. 平成27年大法廷判決後の旧姓使用の拡大は、夫婦同氏制の合理性の実態を失わせていること

        1. そもそも、氏が家族の呼称としての意義を有することが夫婦同氏制の合理性の理由であったとしても、夫婦・家族の実態についてみると、日本国民の夫婦及びその未婚の子から成る世帯は、もはや典型的な世帯ではない。平成30年の統計によれば、夫婦及びその未婚の子から成る世帯は、3割を切っており、夫婦のみの世帯も4分の1に満たない。未婚率の上昇、初婚年齢の上昇、離婚及び再婚の増加、国際結婚の増加という近年の動向は、今後も継続し、日本国民の夫婦及びその未婚の子から成る世帯の割合は、一層低下していくと予想される。また、子が両親と同一の氏を称することにより家族の一員であることを実感する意義については、夫婦同氏制を廃止した諸外国において、家族の一体感が弱まったとする実証的根拠は何もなく、また、旧姓の通称使用により、実質的に夫婦別氏となっている家族の絆が弱くなっているという実証的根拠も何ら存在しない。夫婦のみならず子の福祉を考えることは重要であるが、婚姻をしようとする者のいずれも自らの氏を変えることによって生来の氏名に関する人格的利益を失うことに耐えられず事実婚を選択するケースだけでなく、婚姻している夫婦が婚姻によって氏を変更した当事者の氏を生 来の氏に戻すことだけを目的として婚姻の実態を変更する意思はないのに離婚届を 出して形式的には離婚するケースも散見されるようになっており、その結果、子が受ける不利益の深刻さ(前者の場合は、嫡出子とは扱われないために、嫡出子が法律上受ける利益を受けることができない。後者の場合は、両親が離婚すると、共同親権に服さないこととなり、一方の親のみが親権者となる。)を考えると、夫婦同氏を強制する法制度が、かかる不利益を受ける子を生み出し、子の福祉を損なっている面も看過できない。

        2. 夫婦同氏制の合理性の根拠とされた点に関する社会の実態が上記のように変化している中で、平成27年大法廷判決以降、女性による旧姓の通称使用を容易にするための方策が相次いで採られてきた。なかんずく、旧姓の通称使用が国の機関における公的な文書の作成においてすら認められるようになったことは、平成27年大法廷判決で認められた夫婦同氏制の合理性の根拠を質的に希薄化させる重大な事情の変化であると考える。

        3. そもそも旧姓の通称使用は、婚姻によって氏を変更した当事者が有する生来の氏名に関する人格的利益の喪失とそれによる不利益を一定程度のみ解消させるものでしかなく、旧姓の通称使用が拡大したとしても公的な証明を必要とする場合は残るから、旧姓の通称使用ができることは決して夫婦同氏制の合理性の根拠になるものではない。むしろ、旧姓の通称使用を認めるということは、夫婦同氏制自体に不合理性があることを認めることにほかならない。そして、旧姓の通称使用の拡大は、夫婦同氏制による氏の変更後の戸籍に記載されている氏名が、社会での使用に耐えない場合があること、言い方を変えると、夫婦同氏制による氏ではなく、生来の氏による氏名を使用しなければ、その個人が、氏を変更せずに婚姻した者であれば決して置かれることのない不合理で理不尽な状況に置かれ得ることについての社会における認知の拡大を意味している点は極めて重要である。

        4. 特に、国家機関において公的文書を作成する者が、その作成の責任の所在を明らかにするべき作成者の氏名として旧姓を使用することが認められたことは、夫婦同氏制の下で決められた氏が実社会において使用されない氏(つまり原則として非公開とされている戸籍に記載されているだけの氏)になっても問題はなく、旧姓の方が夫婦同氏制の下で決められた氏よりも実質的な価値があり、国民との関係でも公的文書作成の責任者の個人識別に法的な問題を生じないことを国の機関が認めるに至ったという意味がある。そのことは、夫婦同氏制による変更後の氏が対外的公示という点では実質的価値が乏しいことが社会的にも認知されたことを示しているといえる。平成27年大法廷判決において夫婦同氏制の合理性の根拠とされた点は、主として氏が対外的に公示されることに合理的な意味を見いだすというものであったことからすると、旧姓使用の拡大の事実は、夫婦同氏制の合理性の説明を空疎化し、夫婦同氏制自体の不合理性を浮き彫りにするものといえる。

        5. また、旧姓使用が拡大するということは、表札にも郵便物にも旧姓が使用され、夫婦親子の間でも社会的には氏が統一されていない状態が広がることを意味するが、特に公的機関における旧姓使用が認められたことは、それにより、女性の社会進出が進むにつれて、民間においても企業や組織が旧姓使用を認めることを促す効果があり、かつ、夫婦同氏制の不利益を幾らかでも回避したいと考える女性による旧姓使用を促す効果があるといってよい。その結果、社会的には氏を異にする外観を有する夫婦が増えて、外観上は事実婚の夫婦との差異がなくなるので見分けがつかなくなり、夫婦同氏制によって決定された氏(戸籍上の氏)によって夫婦であることの公示や家族であることの公示がなされず、対外的には、氏が夫婦であること、家族であることの識別には使われないという実態が拡大する。他方で、夫婦同氏制によって決定された氏が戸籍に記載されているとしても、戸籍に記載された個人情報はプライバシー情報であり、戸籍の閲覧は認められず、第三者の戸籍の謄抄本を請求することも原則として認められないから、戸籍が夫婦同氏制で決定された氏の対外的公示手段となるという説明は現実的に無理である。このように、旧姓使用の拡大によって、夫婦同氏制の合理性の説明とは合致しない実態の広がりがもたらされ、夫婦同氏制の合理性が質的に薄弱化されていることは否定できなくなっている。

        6. 加えて、旧姓の通称使用とは、実態としては婚姻した女性にダブルネームを認めるのと同じであるところ、旧姓を使用する本人にとっては、ダブルネームである限り人格的利益の喪失がなかったことになるわけではないから、氏の変更によって生じた本質的な問題が解決されるわけではなく、かつダブルネームを使い分ける負担の増加という問題が新たに生ずる。また、男女の別を問わず、ダブルネームを使う個人の増加は、社会的なダブルネーム管理コスト(例えば、企業や組織においては、一人の社員のために二つの名前を管理しなければならないが、これにはコストがかかる。)や、個人識別の誤りのリスクやコストを増大させるという不合理な結果も生じさせる。

        7. 以上のとおりであるから、旧姓使用の広がりは、婚姻しているが旧姓を使用する者からみても、夫婦別氏を希望する当事者からみても、夫婦同氏制の合理性の根拠の基盤を既に空疎なものにしているとすらいってよい。この事実を、夫婦同氏制は、上記1(4)イで指摘した、氏名に関する人格的利益を夫と妻とが同等に享有することができない状況を作出する制度であるという問題を抱える制度であることと重ね合わせると、夫婦同氏制という法制度には、個人の尊厳と両性の本質的平等という観点からみて、合理性があるとはいえないと考えられる。

      3. 我が国が女子差別撤廃条約に基づいて夫婦同氏制の法改正を要請する3度目の正式勧告を平成28年に受けたという事実は夫婦同氏制が国会の立法裁量を超えるものであることを強く推認させること

        1. 女子差別撤廃条約は1981年(昭和56年)に発効しており、我が国は1980年(昭和55年)にこれを締結し、1985年(昭和60年)には国会で批准され、公布もされている。我が国においては、憲法98条2項により、条約は公布とともに国内的効力を有すると解されており、条約が締約国に対して法的拘束力がある文言で締約国の義務を定めている場合には、かかる義務には、国家機関たる行政府、立法府及び司法府を拘束する効力があると解される。したがって、立法府は、女子差別撤廃条約についても、法的拘束力がある文言で規定されている限り、同条約が定める義務に違反する法律を改廃し、義務に反する新規立法を回避し、もって同条約を誠実に遵守する義務がある。

        2. 女子差別撤廃条約2条、16条1項は、「締約国は、・・・合意し( agree to)・・・約束する( undertake)」、「締約国は、・・・適当な措置をとるものとし(shall)・・・確保する( ensure)」と規定し、締約国自身が所要の措置をとること(国内法の整備)を通じて定められた権利を確保する義務を負うことを定めている。因みに、条約において、「 agree to~(~に合意する)」、「 shall ~(~ものとする)」、「 undertake ~(約束する)」、「 ensure~(~を確保する)」という用語が使われる場合、法的拘束力があることを示すことに疑問の余地はない。女子差別撤廃条約はアラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語及びスペイン語を等しく正文とする(つまり日本語版は仮訳にすぎない)ところ、英語では、同条約2条は「agree to」、16条1項は「shall」をもって規定されているから、法的拘束力を持たせる趣旨であることは明確といえる。

        3. なお、これらの条項は、我が国の国民に対して直接何らかの権利を付与するものではないので、国民に対する直接適用可能性はないと解されるが、そのことは、これらの条項が国内的効力を有することを否定する理由にはならない。今日の国際法学においては、直接適用可能性は国内的効力の前提ではなく、逆に、国内的効力が直接適用可能性の前提と一般に解されているからである。

        4. 女子差別撤廃条約1条においては、「女子に対する差別」とは、性に基づく区別、排除又は制限であって、「女子・・・が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果・・・を有するものをいう」と定義されており、社会慣行・習慣によって差別の効果を生んでいる制度(差別を温存、助長する効果のある制度)は、同条約1条にいう「女子に対する差別」に当たる。同条約2条は、「締約国は、・・・女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求することに合意し」(柱書き)、そのために「女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること」を約束すると定めている(同条 (f))。そして、同条約1条の上記の定義を踏まえて、同条約16条1項は、「婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし、特に、男女の平等を基礎として次のことを確保する」(柱書き)として、同項 (g)において「夫及び妻の同一の個人的権利」を挙げ、その例示として「姓・・・を選択する権利」を明記している。

        5. 女子差別撤廃委員会は、日本政府に対して、2003年(平成15年)7月に、夫婦同氏制を定める我が国の民法の関連規定が、夫婦同氏を強制するものであって、夫と妻に同一の個人的権利として「姓を選択する権利」を与えていないことは、女子差別撤廃条約上の「女子に対する差別を温存、助長する効果のある制度」に当たる旨指摘し、それ以来繰り返し同条約に従ったこの制度の是正を要請してきた。日本政府は、女子差別撤廃委員会のこの解釈を争うことなく、指摘された問題に対応するための法改正(民法750条の法改正)を行う方針であると説明してきていながら、立法機関である国会がその法改正措置を実施しない状態が長年にわたって継続している。

        6. 既に上記1(4)イで指摘したとおり、夫婦同氏制は、婚姻によって夫と妻とがそれぞれの個人的権利である生来の氏名に関する人格的利益を同等に享受することができない状況を作り出す法制度であって、夫と妻がそれぞれ姓を選択する権利を同等に有する制度ではないことは明白である。他方、女子差別撤廃条約は、我が国において国内的効力を有しており、同条約16条1項は法的拘束力を有する文言で締約国の義務を規定し、同項 (g)は、締約国は夫及び妻が同一の個人的権利を確保するためのすべての適当な措置をとる義務を定め、かかる個人的権利には「姓を選択する権利」を含むことまで明記しているのである。同項 (g)が求めている夫と妻が姓を選択する個人的権利を有しない法制度、言い換えると、婚姻に当たり夫婦が同氏となることを義務付ける我が国の夫婦同氏制のような法制度は、外国には見当たらず、そのことについては、本件処分時点でも既に締約国数が180箇国を超えている同条約が大きく貢献していたと考えられるところである。このように夫と妻に個人的権利として姓を選択する権利を与えることが世界の趨勢となっているのは、同項 (g)がかかる権利を求める理由として規定している夫婦の平等と同一の個人的権利(としての姓を選択する権利)の確保が、我が国の憲法13条、14条1項、24条2項においても基礎とされている、人権尊重と平等原則という国際的に普遍性のある理念に基礎を置くものであるからにほかならない。

        7. このような背景の中で、日本国が女子差別撤廃委員会による夫婦同氏制についての最初の指摘を受けた2003年(平成15年)から本件処分時まで約15年の長きにわたり、立法機関である国会が民法750条の改正をしておらず、平成27年大法廷判決後である2016年(平成28年)には女子差別撤廃委員会から日本国に対してこの義務の履行を要請する(2003年(平成15年)の勧告以来)3度目の正式勧告がされたことは、夫及び妻に同一の個人的権利として姓を選択する権利を認める制度となるよう同条を法改正するという明確に特定されている措置に係る女子差別撤廃条約上の義務について、かかる措置をとるために必要と考えられる社会通念上相当な期間が経過したことを示しているというほかなく、本件処分の時点では、締約国である我が国の枢要な国家機関である国会において、同条約2条の合意にもかかわらず、もはやかかる措置の実施を、遅滞なく追求しているとはいえない状態に至っていたことを示していると解される。

        8. 以上のこと、すなわち、日本国が、女子差別撤廃条約16条1項 (g)に基づいて、夫と妻に同等に姓を選択する権利を認めるよう夫婦同氏制の法改正という措置をとることを、遅滞なく追求すると合意(同条約2条 (f))していながら、国の立法機関である国会がその措置を遅滞なく追求しているとはいえない状態に至っていたという事実は、夫婦同氏制が憲法24条2項にいう個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度ではないことを強く推認させる。その理由は、①同条約16条1項によって我が国に夫婦同氏制の法改正という措置をとることが求められたのは、夫婦同氏制が、婚姻における夫婦の平等に反し夫婦それぞれの個人的権利の確保に欠ける制度であることを理由とするものであることは、同項の文理から明らかであるところ、②同項にいう夫婦の平等や夫婦それぞれの個人的権利の確保と憲法24条2項において立法裁量の限界を画する要請、指針として示されている個人の 尊厳と両性の本質的平等という理念とは、上記(カ)で述べたようにその基礎にある人権尊重や平等原則という本質においては趣旨を同じくすると解することができるからである。換言すると、もし、夫婦同氏制が憲法24条2項にいう個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度であったとすれば、日本政府としては、夫婦同氏制が夫婦の平等と夫婦それぞれの個人的権利の確保に欠けるとされることはないと反論できてしかるべきであるから、上記①の理由が夫婦同氏制に当てはまることは考え難い。ところが、実際には、公表された資料からうかがわれる限り日本政府が女子差別撤廃委員会に対してそのような反論をしたことはうかがわれない上、平成28年になってもなお、女子差別撤廃委員会から、我が国が夫婦同氏制の法改正という措置を未だに実施していない状態であることについて、夫婦同氏制には依然として上記①の理由が当てはまることを理由とする3度目の正式勧告を受けている。そうすると、その事実は、上記②を踏まえると、同勧告の時点において、夫婦同氏制には上記①の理由が当てはまるだけでなく、夫婦同氏制が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請を充たす制度でもなかったことを強く推認させると考えられるのである。

        9. 女子差別撤廃条約16条1項 (g)にいう夫婦の平等と夫婦それぞれの個人的権利の確保は、憲法24条2項にいう個人の尊厳と両性の本質的平等という理念と趣旨を同じくすると解されるという上記の②で述べたことは、条約(国際法)と憲法(国内法)という次元の違いはあっても、基礎とされている理念自体には相互に共通する普遍性があることが認められるということにほかならないが、我が国の憲法は人権の尊重と平等原則という国際的にも普遍性がある理念を取り入れたものであったことも考慮すると、そのことを疑うべき理由はない。そうすると、平成28年にされた同条約16条1項 (g)に係る3度目の正式勧告は、同条約上夫婦同氏制がかかる理念に反することの指摘にとどまるものではあったとしても、同勧告の時点において、夫婦同氏制が国会の立法裁量の限界を画するとされる個人の尊厳と両性の本質的平等という憲法24条2項の理念にも反していたことを映し出す鏡でもあったといえる。そうである以上、平成28年に3度目の正式勧告を受けたという事実は、それ以降本件処分時までに何らかかる法改正がされなかったという事実に照らすと、本件処分時において、それのみで、夫婦同氏制が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものであることを基礎付ける有力な根拠の一つとなり、憲法24条2項違反とする理由の一つとなると考えられる。裁判所においては、女子差別撤廃条約に締約国に対する法的拘束力があることを踏まえて、この事実を本件の判断において考慮すべきである。

  3. 本件婚姻届の受理を命ずべきことについて
    1. 本件は、本件処分を不服として本件婚姻届の受理を命ずる審判を求める申立てに対して原々審で却下審判がされ、原審で即時抗告棄却決定がされ、これに対して特別抗告がされた事案である。婚姻届不受理処分に対する不服申立てを認容する場合、裁判所は、不受理処分を取り消すという審判をするのではなく、「届出の日付で受理せよ」という審判をすることになる。上記1、2で述べたところにより、本件各規定のうち夫婦に同氏を強制し婚姻届に単一の氏の記載を義務付ける部分が違憲無効であるということになれば、本件処分は根拠規定を欠く違法な処分となり、婚姻の他の要件は満たされている以上、市町村長に本件処分をそのままにしておく裁量の余地はなく、本件婚姻届についても、婚姻届不受理処分が違法である場合の一般の審判と同様、届出の日付での受理を命ずる審判をすべきことになると考えられる。なお、戸籍法34条2項は、「市町村長は、特に重要であると認める事項を記載しない届書を受理することができない。」と定めているが、夫婦に同氏を強制し婚姻届に単一の氏の記載を義務付ける規定が違憲無効である以上、抗告人らが夫婦が称する単一の氏を定めて本件婚姻届に記載していないことが、同項による不受理事由となるものでもない。

    2. そして、婚姻届の受理による婚姻の成立とその後の戸籍の記載等の取扱いは、概念的に区別し得る。婚姻が成立すれば、夫婦としての同居・扶助義務や相続などの様々な法的効果が発生するし、別れる場合には離婚の手続をとる必要が生ずることになる。夫婦別氏とする婚姻届が受理されても、戸籍の編製及び記載をどうするのか(同一戸籍になるのか、その場合、戸籍の筆頭者は誰になるのかなど)は、法改正がなされるまではペンディングにならざるを得ないかもしれず、そのため、当事者が婚姻の事実を証明するために戸籍謄本の交付を請求することができないことが考えられるが、その場合には、戸籍法48条1項の規定により、婚姻届受理証明書を請求することができると考えられる。

    3. また、法改正がされそれが施行されるまでの間は、婚姻の際に別氏を称することとした夫婦の間に生まれた子の氏が法的には定まらないという問題が生ずるが、その問題については、子の出生を証明する必要がある場合には、戸籍法48条1項の規定により、出生届受理証明書を請求することができると考えられる。子が生まれた場合に、子の氏が法的には定まらないという問題があるからといって、そのことを理由として、その点を解決するような法改正を迅速に行うことをしないまま、婚姻届を受理しないことができるとはいえない。

    4. いうまでもなく、当審の違憲判断を受けて国会が本件各規定の法改正をすべき義務を負うこととなる場合には、夫婦が別氏を称する婚姻を認めるだけでなく、子の氏や戸籍の取扱いなどの関連事項の改正も含めて立法作業を速やかに行う必要があるが、既に述べたように、外国においては夫婦同氏を義務付ける制度を採用している国は見当たらないのであるから、夫婦同氏に加えて夫婦別氏も認める法制度は世界中に多数存在するはずであること、平成8年には法務省において必要な外国の制度調査を行い、法制審議会の検討も終えて、夫婦同氏制の改正の方向を示す法律案の要綱も答申されたことを勘案すると、国会が夫婦別氏を希望する者の婚姻を認める改正を行うに際して、子の氏の決定方法を含めて関連する事項の法改正を速やかに実施することが不可能であるとは考え難い。国会においては、全ての国民が婚姻をするについて自由かつ平等な意思決定をすることができるよう確保し、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した法律の規定とすべく、本件各規定を改正するとともに、別氏を希望する夫婦についても、子の利益を確保し、適切な公証機能を確保するために、関連規定の改正を速やかに行うことが求められよう。

裁判官草野耕一の反対意見は、次のとおりである。

私は、多数意見とは異なり、本件各規定は憲法24条に違反するといわざるを得ないがゆえに、原決定はこれを破棄し、抗告人らの婚姻届の受理を命ずるべきであると考える。その理由は、以下のとおりである。

  1. 婚姻及び家族に関する法制度を定めた法律の規定が憲法13条、14条1項に違反しない場合に、更に憲法24条に適合するものとして是認されるか否かは、当該法制度の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し、当該規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から判断すべきものとするのが相当である(平成27年大法廷判決)。

    そして、夫婦同氏制を定めた本件各規定が、上記のとおり国会の立法裁量の範囲を超えるほど合理性を欠くといえるか否かを判断するに当たっては、現行の夫婦同氏制に代わるものとして最も有力に唱えられている法制度である選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民各位の福利とそれによって減少する国民各位の福利を比較衡量することが有用であると考える(ここでいう「福利」とは、国民各位が個人として享受する利益を意味するものであって、個人を離れた「社会全体の利益」や「特定の共同体又は組織の利益」は含まれない。)。憲法24条2項が、婚姻及び家族に関する制度について「個人の尊厳」に立脚したものであることを要請していることに照らすと、国民各位の福利に還元し得ない価値を考察の対象から排除して検討することは、同条適合性の判断に適していると考えられるし、また、このような観点からの検討は、(最終的には一定の価値判断を下すことが避けられないものの)論理則や経験則を用いて議論の妥当性を検証する余地を大きくすると考えられるからである。

    もっとも、比較衡量する福利が同種のものであるか、あるいは、関係する当事者間で取引の対象となり得るものである場合は格別、そうでない場合の福利に大小の順序付けを行うためには一定の価値判断が必要であるから、福利の比較衡量に関しても国民の代表者である国会の立法裁量は尊重されてしかるべきである。しかしながら、選択的夫婦別氏制の導入によって向上する福利が同制度の導入によって減少する福利よりもはるかに大きいことが明白であり、かつ、減少するいかなる福利も人権又はこれに準ずる利益とはいえないとすれば、当該制度を導入しないことは、余りにも個人の尊厳をないがしろにする所為であり、もはや上記立法裁量の範囲を超えるほどに合理性を欠いているといわざるを得ず、本件各規定は憲法24条に違反すると断ずべきである。

    なお、婚姻制度の中には、社会の倫理の根幹を形成している規定が含まれており(例えば重婚の禁止や近親婚の禁止を定めた規定がこれに当たる。)、そのような規定については、国民各位の福利に及ぼす影響を微視的・分析的に考察するだけでは当該規定が国民にもたらしている利益の全体を把握することが困難であるかもしれない。しかしながら、戦前の「家」制度の下であれば格別、これを否定した現行の憲法と家族制度の下で、夫婦同氏制を定めた本件各規定が社会の倫理の根幹を形成している規定であるとみることが不適切であることは明らかであろう(さらにいえば、もし、夫婦同氏制に、人々の行動や意識の相互依存的関係を通じて、社会の構成員全般の福利を向上させる働きがあるとすれば、福利の比較衡量を行うことに対して上記と同様の方法論上の懸念が生じ得るが、そのような働きの存在が検証可能なほどの具体性をもって主張されたことはない。)。

  2. 以上の観点に立ち、選択的夫婦別氏制の導入によって向上する国民の福利と、それによって減少する国民の福利とを分析し、衡量する。

    1. 選択的夫婦別氏制の導入によって向上する国民の福利について

      氏は名とあいまって人を同定する上での重要な要素の一つであり、それまでの人生において慣れ親しんできた氏に対して強い愛着を抱く者は社会に多数いるものと思われる。これらの者にとっては、たとえ婚姻のためといえども氏の変更を強制されることは少なからぬ福利の減少となるであろう。さらに、氏の継続的使用を阻まれることが社会生活を営む上で福利の減少をもたらすことは明白であり、この点は共働き化や晩婚化が進む今日において一層深刻な問題となっている。婚姻に伴い戸籍上の氏を改めても社会生活上は旧姓の継続使用が可能である場面が拡大してきているものの、旧姓を使用し得る機会にはおのずから限度がある以上、二つの氏の使い分け又は併用を余儀なくされることになり、そのこと自体の煩わしさや自己の氏名に対するアイデンティティの希薄化がもたらす福利の減少は避け難い。

      以上を要するに、夫婦同氏制は、婚姻によって氏を変更する婚姻当事者に少なからぬ福利の減少をもたらすものであり、この点を払拭し得る点において、選択的夫婦別氏制は、確実かつ顕著に国民の福利を向上させるものである。

      なお、夫婦同氏制の下で氏を変更する婚姻当事者が被る福利の減少の一つとして「婚姻の事実を秘匿する利益」を確保することが困難となるという点が挙げられるので、この点について敷衍する。婚姻しているか否かという事実は、年齢、出身地、学歴などと並ぶ重要な個人情報であり、そうである以上、婚姻していることを秘匿したいと望む者がいるとすれば、その要求は尊重に値する。もっとも、婚姻の事実を秘匿したいと願う者たちの婚姻関係についても、その事実を知ることに福利の向上を見いだす他者がいることも事実である(例えば、企業の経営者にとって従業員が既婚者であるか否かを知ることは人事管理等の観点から有益であろう。)。しかしながら、婚姻の事実を秘匿することが尊重に値する利益であると認める以上、他者の婚姻に関する情報に需要を抱く者は当該他者に対して一定の誘因(インセンティブ)を与えることと引換えに婚姻に関する情報の開示を求めるべきである(さすれば、婚姻の事実を開示する不利益よりも提示された誘因の価値の方が大きいと思う婚姻当事者は情報を開示するであろうし、考え得る誘因よりも婚姻に関する事実を知ることの価値の方が大きいと思う情報需要者は当該誘因を現実に提示するであろう。)。情報の開示をめぐる交渉には一定の取引コストが発生するが、その点を考慮したとしても、情報の開示を当事者の交渉に委ねる方が(選択的夫婦別氏制はこれを可能とする。)、婚姻当事者の意思に反して婚姻の事実を無償で開示することにつながり得る制度(夫婦同氏制がこれに当たる。)よりも関係当事者の福利の総和が増大することは明白であると思われる。

    2. 選択的夫婦別氏制の導入によって減少する国民の福利について

      1. 婚姻当事者の福利に及ぼす影響

        婚姻当事者にとって、夫婦で同一の氏を称することにより家族の一体感を共有することは福利の向上をもたらす可能性が高い。したがって、選択的夫婦別氏制を導入したとしても夫婦同氏を選択する夫婦も少なからず輩出されるはずであり、夫婦別氏を選択するのは、氏を同じくすることによってもたらされる福利の向上よりも 上記(1)で指摘したところの福利の減少の方が大きいと考える夫婦だけであろう。これを要するに、選択的夫婦別氏制を採用することによって婚姻両当事者の福利の総和が増大することはあっても減少することはあり得ないはずである(なお、婚姻両当事者は多種多様な福利を分配し合える関係にあるのだから、両者の福利の総和が増大すればいずれの婚姻当事者の福利も増大する可能性が高い。)。

      2. 子の福利に及ぼす影響

        むしろ問題となるのは、夫婦別氏を選択した夫婦の間に生まれる子の福利である。なぜならば、子は、親とは別の人格を有する法主体であるにもかかわらず、親が別氏とすることを選択したことによって生ずる帰結を自らの同意なく受け入れなければならない存在だからである。そして、親の一方が氏を異にすることが、子にとって家族の一体感の減少など一定の福利の減少をもたらすことは否定し難い事実であろう。

        しかしながら、夫婦別氏とすることが子にもたらす福利の減少の多くは、夫婦同氏が社会のスタンダード(標準)となっていることを前提とするものである。したがって、選択的夫婦別氏制が導入され氏を異にする夫婦が世に多数輩出されるようになれば、夫婦別氏とすることが子の福利に及ぼす影響はかなりの程度減少するに違いない。また、現行法上、親は、子の福利に影響を与え得る諸事項(養育・監護、教育等)に関して大幅な裁量権を有しており、親が自己の正当な福利を追求するためにやむを得ず子の福利の最大化を達し得ないことがあるとしても、実現を断念される子の福利が子の人権又はこれに準ずる利益とはいえない限り、当該親の所為が裁量権の逸脱に当たるとは一般に考えられてはいないであろう。このこととの整合性(インテグリティ)という点から考えても、夫婦となる者が夫婦別氏を選択するか否かを決定するに当たり夫婦自身の福利と子の福利をいかに斟酌するかについては、これを親(夫婦)の裁量に委ねることが相当であり、夫婦別氏とすることが子の福利の最大化を妨げることがあるとしても、それは、夫婦が自らの福利を追求することを阻む事由とはならないというべきである。

      3. 親族の福利に及ぼす影響

        夫婦が同氏となれば、氏を変えない婚姻当事者の親族は、相手方婚姻当事者と新たに氏を共有することによって同人との間の一体感を強化することができる。しかしながら、夫婦同氏とすることは、氏を変更する婚姻当事者がその者の親族との間に育んできた一体感を減少させる機能も有しており、そうである以上、選択的夫婦別氏制の導入が婚姻両当事者の親族の福利の総和を減少させるとは到底いえない。

        もっとも、婚姻当事者の親族の中には、相手方婚姻当事者に対して生活上の支援を与える者がいることは現代社会においても変わらぬ事実であり(以下、そのような親族のことを「支援者的親族」と呼ぶ。)、支援者的親族は、自己と相手方婚姻当事者との間の一体感を高めるべく同人が氏を改めることを強く望み、同時に、支援者的親族が一方の婚姻当事者の側にだけいる場合においては、相手方婚姻当事者の側の親族は、相手方婚姻当事者が氏を変えることを致し方ないことであると感ずる可能性が高いように思える。したがって、その場合に限っていえば、夫婦別氏とするよりも支援者的親族の氏を用いて夫婦同氏とする方が婚姻両当事者の親族の福利の総和は向上する可能性が高いといえるであろう。

        しかしながら、支援者的親族は、自分が与える用意のある支援の内容を詳らかにしつつ氏を変えてもらいたいという自己の願いを相手方婚姻当事者に対して伝えることができる立場にあるところ、そのようにしてもなお同人が氏の変更に応じないとすれば、それは、同人が、氏を変えてもらいたいと願う支援者的親族の思いを十分に理解し、かつ、当該親族が与えてくれる支援を十分斟酌してもなお、氏を改めることによって自身が被る福利の減少が余りにも大きいと考えるからであろう。婚姻は当事者たる二人が互いの人生を賭して行う営みである以上、氏を改めるか否かという問題に関する婚姻当事者の福利は親族の福利よりも優先的に考えられてしかるべきであり、上記の場合において選択的夫婦別氏制の導入によって減少する支援者的親族の福利は、婚姻当事者の福利の実現を阻むに値するものとはいい難い。

      4. 慣習としての夫婦同氏制

        上記アからウまでに論じた者以外で婚姻当事者が夫婦別氏とすることによって福利の減少が生ずる者が存在するとすれば、夫婦同氏制が長きにわたって維持されてきた制度であることから、夫婦同氏を我が国の「麗しき慣習」として残したいと感じている人々かもしれない。

        しかしながら、選択的夫婦別氏制を導入したからといって夫婦を同氏とする伝統が廃れるとは限らない。もし多くの国民が夫婦を同氏とすることが我が国の麗しき慣習であると考えるのであれば、今後ともその伝統は存続する可能性が高い。また、人々が残したいと考える(「正の外部性が強い」といってもよいであろう)伝統的文化は我が国にたくさんあるところ(里山の景観、御国訛りのある言葉遣い、下町の人情味溢れる生活習慣、鎮守の森、季節を彩る諸行事など)、これらの伝統的文化が今後どのような消長を来すのかは最終的には社会のダイナミズムがもたらす帰結に委ねられるべきであり(そのダイナミズムの中にはもちろんそのような伝統的文化を守ろうとする運動も含まれる。)、その存続を法の力で強制することは、我が国の憲法秩序にかなう営みとはいい難い。夫婦同氏制もそのような伝統的文化の一つといえるのではなかろうか(さらにいえば、関係当事者以外の者に対して生み出す正の外部性という点においては、夫婦同氏制は上記に例示した伝統的文化よりもその効用が不明確であるように思える。)。したがって、選択的夫婦別氏制を導入した結果、夫婦同氏が廃れる可能性が絶対にないとはいえないとしても、それが現実のものとなった際に一部の人々に精神的福利の減少が生ずる可能性をもって、婚姻当事者の福利の実現を阻むに値する事由とみることはできない。

      5. 戸籍制度に及ぼす影響

        選択的夫婦別氏制の実施を円滑に行うためには戸籍法の規定に改正を加えることが必要であり、その内容については法技術的に詰めるべき部分が残されている。しかしながら、選択的夫婦別氏制の導入に伴い上記改正がされたとしても、戸籍制度が国民の福利のために果たしている諸機能(親族的身分関係の登録・公証機能、日本国民であることの登録・公証機能等)に支障が生ずることはないであろう。

  3. 以上によれば、選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利は、同制度を導入することによって減少する国民の福利よりもはるかに大きいことが明白であり、かつ、減少するいかなる福利も人権又はこれに準ずる利益とはいえない。そうである以上、選択的夫婦別氏制を導入しないことは、余りにも個人の尊厳をないがしろにする所為であり、もはや国会の立法裁量の範囲を超えるほどに合理性を欠いているといわざるを得ず、本件各規定は、憲法24条に違反していると断ずるほかはない。