大漢和辞典物語
【1】
大漢和辞典を出版しているのは、大修館書店である。
大修館書店の創業は1918(大正7)年と言うから、大した老舗である。現在もそうであるが、創業当初から学習参考書や辞書を中心に商売をしていた。
そんな大修館書店が大躍進を遂げたのは、大正12年のことだった。
1923(大正12)年9月1日。東京を襲った関東大震災。東京中が灰燼に帰したこの時、大修館書店も例外なく倒壊したのだが、この時奇跡的に紙型を持ち出すことに成功したのだった。
紙型の説明が必要だろう。
当時、出版と言えば活版印刷しかなかった。活字を組んだものを組版というのだが、これはいつまでもこのままにしておくことはできない。活字を再利用するためである。そこで特殊な紙粘土で組版の型を取るのである。この雌型に鉛を流しこめば、版を作ることができる。増刷に簡単に対応できる訳である。
地震で軒並み出版社が倒壊した中で、紙型を持ち出せたことは、大修館を震災後の出版界での成功を意味した。当時から出版は東京に集中していた。しばらくもすれば書店から本が消える。そこに大修館の書物が並ぶ。
大修館は大躍進を遂げた。
そしてそこで一つの問題が出てきた。
大修館書店のラインナップである。
もともと英語関係に強い書店であったこともあったのだが、日本語関係、特に漢和辞典が少々弱かった。
見渡してみると、どこの書店でも大した漢和辞典を出していなかった。
社長の鈴木一平は考えた。
「どこの出版社でも出していないような、立派な漢和辞典を出してやろう」
彼は、まだ漢和辞典を出していない漢文学者を捜し始めた。
そして、諸橋轍次に白羽の矢が立ったのである。
【2】
諸橋轍次が生まれたのは、1883(明治16)年のことだった。父・安平は、村の小学校の校長であり、村の名士であり、そして漢文学者だった。この父親、実に人望のある人物だったらしく、学校へいけない貧しい子女にも、自宅で塾を開いて学問を教えていたという。
そんな父に五才のときから漢文を教えられた轍次は、小学校を卒業すると、今度は隣村の塾へ通い、漢文を学んだ。その後1年の代理教員生活の後、新潟師範学校に入学。卒業後、まだ学び足りないとばかりに東京高等師範学校国語漢文科に入学。卒業後、群馬師範学校の教員となるも、1年後、東京高師付属中学の教師兼任で東京高師研究科に入学。本格的に漢文研究に手を染める。
この男がどのくらい優秀であったかと言えば、わずか31才で東京高師の教授になってしまったくらいに優秀だったのである。
彼は三菱財閥のトップ、岩崎小弥太のバックアップを得、中国へ留学し、存分に研究活動に打ちこむ。無尽蔵の財布を得たようなものである。重要な書物や貴重な書物を片っ端から買い漁り、それらは全て岩崎家の私設図書館である静嘉堂文庫に納められた。帰国後、諸橋は静嘉堂文庫の文庫長に就任。図書目録を作ることになった。
それ以前から、諸橋は自分の研究のために、調べた漢字をカードにしていた。そのカード数は数万枚になっていた。
そんなときに、彼のもとに大修館書店社長、鈴木一平が訪れたのであった。
時に1925(大正14)年のことである。
【3】
鈴木一平が諸橋轍次に漢和辞典の編纂を依頼したとき、諸橋はやんわりとその依頼を断わった。
当時彼の仕事は、東京高等師範学校教授、静嘉堂文庫文庫長、国学院大学講師。さらに大東文化学院と駒沢大学でも教えることになっていた。とても編纂を引き受けられる状態ではなかった。
そしてもう一つ、彼のなかで去来するものがあったのだ。
それは、満足の行く漢和辞典を作ってみたい反面、そんなものが商売になる訳がないという諦観である。いくら鈴木が本気であったとしても、希代の漢文学者諸橋が納得の行く漢和辞典を出版するだろうか。
そんな諸橋の心の裡も知らず、鈴木の説得は2年に及んだ。
そしてある夜、とうとう鈴木は諸橋のその領域に踏みこんだ。
諸橋の答えは、鈴木の度肝を抜くものだった。
「1巻一千ページで5、6巻」
せいぜい1、2巻の辞書のつもりだった鈴木は、悩みに悩んだ。
何度も何度も計算をした。
大修館は、躍進したとは言え中小である。
はっきり言って負担であった。
だが一平は決断した。
「失敗したら、震災で無くなったと思えばいいさ」
ここに、史上最大の計画が始まったのであった。
【4】
大漢和辞典の出版契約が結ばれたのは、1928(昭和3)年6月のことである。
諸橋は、さっそく人材を集めて、まず漢字の整理を始めた。整理といっても単純なことではない。カードがあるとは言え、正確な出典を特定し、意味を調べることは、非常な困難を伴った。手当しだいに漢籍を開き、出典を捜すその作業は、あたかも砂漠のなかで一粒の真珠を捜すようなものである。
さらにはその並べ替え作業も、すべて人手である。電子計算機が大漢和を処理できるようになるには、まだ70年近い時間が必要であった。
数年掛かって整理したカードは40万枚。
5年掛かりの原稿は6万枚
そのまま辞書にした場合、20巻以上になるというとんでもない量であった。
さすがの諸橋も、これをそのまま出版する気にはならなかった。鈴木に至っては、更にである。
なんとか原稿を削って、12、3巻にすることにはなったものの、鈴木の苦悩は続いた。
なにしろ親字が約5万字である。当時、どんな印刷所でも1万字以上の活字を持っているところはなかった。しかも正確な漢字を要求するため、既存の漢字は殆ど利用できなかった。もっと言えばそれが6種類の大きさが必要であった。五万字×6サイズ=約30万。大修館書店では、自前の印刷所と活字工房をつくる羽目になった。神田の活字工房『錦美堂整版所』の主人小林康磨が工場長となった。
さらに鈴木はとんでもない決断をした。大漢和はその性格上、逐次的な改定が不可欠である。そのために、版を紙型にとったあとも版を崩さずに保管することにしたのだ。つまり、大漢和に使われた字、一字一字をすべて活字のまま保存することにほかならない。これは正気の沙汰ではない。彼はふっ切れたのだろう。
嵐のような編集作業の最中、日本は泥沼の戦争の中に突入していた。紙や革などの物資はなくなり、活字を作るための鉛や活字の間に入れるインテル板も手に入れにくくなった。諸橋自身、編纂作業で目を酷使し続けたため、右目を失明、左目も殆ど見えないところまで追いこまれた。
編集がすべて終わった1941(昭和16)年。日本は太平洋戦争に突入寸前であり、既に紙は配給制であった……。
【5】
太平洋戦争が始まった1941年(昭和16)年。それ以前からの日中戦争によって日本経済は疲弊し、既に破綻を来たしていた。物資は配給制になり、軍事と直接関わりがない分野の産業は抑制された。
その抑制された産業の中に、出版は含まれていた。
やっとの思いで編纂が終わり、全12巻分の編集も組版も終わった10月から、大修館書店と諸橋の仕事は、軍部に日参し、紙の配給を受けることに終始した。
12巻分の総頁数1万3757頁。収録親文字数、4万8902字。収録熟語数約52万語。
実に13年の月日が過ぎていた。
ここまできて出版できないとなることは、絶対にあってはならないことだった。
紙の配給を得るための活動は、どうにか実りつつあった。鈴木と諸橋が二人で軍部にお百度を踏み、1942(昭和17)年にようやく5巻分までの紙の支給を受けられそうになった。だが、今度は装丁ができない。八方手を尽くして、絹を使った人造皮革で装丁をすることになる。
ようやく、1943(昭和18)年9月に発売日を決定したところに、今度は出版社の合併を命じられる。
鈴木は抵抗した。
ようやくここまでやってきた事業を台無しにしてたまるものか。
彼はゴネにゴネ、合併を先延ばしにする一方で、第1巻の発売を敢行。そのことは役人達を感嘆に唸らせる一方で、反感をも買った。
1944(昭和19)年、出版は絶望的なところまで追い詰められていた。
そして運命の日がやって来た。
1945(昭和20)年、2月25日。
東京神田に、爆弾の雨が降った。
【6】
1945年2月25日の空襲は、東京神田に焼夷弾の雨を降らせた。既に当時、日本軍の高射砲も迎撃機も、B29の行動を止めることはできなかった。
悠々と空を舞うB29から落とされた焼夷弾は、神田を火の海にした。
考えても見よう。神田には本屋古本屋出版社が集中していた。そこは可燃物の宝庫である。火は止めもなく広がり、火の手は大修館とその倉庫、さらに大漢和のために併設された製版工場をも襲った。
大修館書店の職員一同、必死のバケツリレーで消火にあったが、成す術もなく、大修館に引火。製版工場にも火が移り、倉庫も火に包まれた。
大漢和5巻分を発行するための紙。
13巻分の紙型。
そして13巻全巻の組み置き版。
鉛9万3750キログラムが溶け、流れ落ち、全ては灰燼に帰した。
思えば鈴木がはじめて諸橋を訪ねた1925(大正14)年から21年。荒れ狂う戦争の波は、その努力をあざ笑うかのように舐め尽くしたのであった。
時に諸橋轍次62才の冬であった。
【7】
1945年(昭和20年)8月15日。
敗戦。
それぞれの戦後が始まった。
鈴木一平は大修館の立て直しを始め、一方諸橋轍次は生き残ったスタッフと共に、焼け残ったゲラ刷りの修正に入った。いつか、必ずや大漢和が出版されることを信じつつ。諸橋は、大修館が空襲を受けた後、高さが2メートルにもなるゲラ刷り三部のうち一部を手元に残し、一部を静嘉堂文庫に、そして一部を岩崎家の疎開先へと預けた。万が一のときの用心にである。そして、それがいまや大漢和の全てであった。
大修館は、焼け残った倉庫にあった紙型を元に英和、和英辞典を印刷にまわし、一方で英会話テキストを1946(昭和21)年3月出版、着々と大修館復興の基礎を築いた。
諸橋は63才になり、教職生活に別れを告げた。心置き無く大漢和へ打ちこむ体制が作られた。
1947(昭和22)年。大修館は大漢和辞典の出版業務を再開した。
それに先立ち、鈴木は自分の3人の息子を学業から引き上げさせ、自分の会社へと就職させ、万全の体制を整えた。
1948(昭和23年)年。バラックだった社屋と、焼け落ちたままだった製版工場を立て直した。もう一度、5万字の活字を作ろうというのだ。ところが、戦災によって活字職人は減り、また棟梁的な存在であった小林康磨が没したことにより、活字製作は絶望的となった。
またもや暗礁に乗り上げた形になってしまった大漢和に、だが今度は光明があった。
写真植字である。
日本で実用化された写真植字技術を使えば、大きさに拘らず、原字は1字づつでよい。
1951(昭和26)年、鈴木は写真植字研究所所長、石井茂吉の所を訪れた。
「5万字の原字を作って頂きたい」
当時63才だった石井は当惑した。
5万字を書く。それは余りにも困難な事業であった。
だが鈴木も後に引けなかった。もうこれを除いて大漢和出版の見通しはない。
1年3ヶ月に及ぶ説得の末、石井はライフワークとしてこの事業を引き受けた。
ここに万難は排された。
【8】
ちょっとした想像をしてみよう。
君の目の前に、半透明な紙がある。手元には、各種定規と筆。
書き込む文字は、見たこともないし、ましてや読むことなど到底不可能な漢字。
字は、辞書に使われるから、一点一角たりとも疎かにはできない。究極の正確さが必要とされる。
さあ。
その字を5万字、書いてみよう。
私だったら、間違いなく逃げ出すだろう。
石井茂吉はそれをやり抜いた。
一日20字書いたとしても、7年近い時間が掛かる計算になる。言っておくが、日曜休日の別なく書いたとして、である。
しかも、ただ書く訳ではない。見たことも聞いたこともない漢字を、諸橋やその弟子に教わりながらであるから、一日本当に20字書けるかどうかと言ったところだ。夜は10時11時まで、一心不乱に石井は書き続けたのだという。
一方の大修館の方もただ事ではなかった。
字を作るメドは付いたものの、それを扱う器材を揃え、人材を育てねばならない。
製版工場はそのまま写植工場へと早変わりした。5万字の漢字を扱える、特注の写植印刷機が運び込まれ、運用のための社員への教育も順次行われた。そしてそれらを包み込む建物のほうも、万一を考え、鉄筋コンクリート3階建の頑丈極まりない建造物となった。
着々と印刷の準備が整う前で、石井の作業の進行は捗捗しくなかった。頑固な石井が、品質や正確さに拘る余り、期限を過ぎても原字は揃わなかった。だが、一方で出版のほうは止められない。
1955(昭和30)年。約半分の原字が出来上がり、3巻分の文字盤が揃ったところで、大漢和新1巻の刊行が発表された。
【9】
1955(昭和30)年4月。大々的なセレモニーと共に、大漢和辞典の刊行発表会が開かれた。同時に各新聞に大々的に広告が打たれ、人々はついにこの世紀の出版と向かい合うことになった。
内容見本の裏にあるキャッチフレーズを読んでみよう。
「三十年間の血闘的著作と時価六億の巨費とによる世紀の大出版遂に成る」
「空前の文字道標」
ここまで私の拙文を読んできた皆様方には、この言葉が嘘でも偽りでも誇大広告でもないことがよくおわかりだと思う。
その年の文化の日。第1巻が刊行された。
新1巻の刊行に当たっては、内容が修正されていることもあり、1943年出版の旧1巻を回収したのだが、一方では逆に1巻しかないわけだからと手放さなかった人も多いという。
刊行が始まってからも、石井の文字作成は続いた。彼の作業の遅れを反映するように、大漢和の刊行も遅れに遅れた。1958(昭和33)年、契約期限が過ぎても、作業は終わっていなかったうえに、根を詰めすぎた石井が病気に倒れてしまう。だがそんな状況においても、石井はこの業務を頑として他人にゆずらず、とうとう翌59年、4万8902字を書き上げた。
彼の仕事の完了を待つようにして、1960(昭和35)年大漢和辞典第1版の刊行が終了したのであった。
大漢和辞典、全13巻。字母4万8902字。熟語52万6500語。携わった人の数、延べ25万8347人。
正に空前絶後。圧巻である。
諸橋轍次、このとき77才。右目の光を失い、左目も手術によってようやく見えているといった彼の胸に去来するものは、一体どのようなものであったろうか。流石に推し量ることもできない。
【10】
第1版の出版が終わった後も、大漢和の仕事は続いた。
いやむしろ、このあとの事業こそが、もっとも大切な事だとも言えた。何しろ、辞書の編纂とは余り関係がないところで、ここまで出版が遅れていた訳だから、これからが本当の辞書業務なのだ。
大漢和辞典が世に出たことにより、多くの人がこれを利用することとなった。そして多くの人が目を通せば通すほど、誤字脱字や出典の間違い、その他あらゆる誤謬が浮かび上がってくるのである。
諸橋轍次とその弟子達が集まる遠人村舎は、連日のように研究機関から送られてくる指摘を逐一確認し、訂正し、また時には反証した。一方で、次なる修定を目指し、すべての字母、熟語の出典を検めるという難行にも挑んでいた。
大修館書店のほうにも、様々な要望が舞いこんできていた。
そのもっとも大きなものは「重い、デカい、嵩張る」というところであった。大漢和辞典の組版はA4版である。一冊当たりの厚みは広辞苑と肩を並べる。それが13冊。取り揃える方には金と根性が必要だが、利用者には根性ともう一つ体力が必要になる。若いうちはそれでもよい。しかし痩せ枯れた老教授には体力を求めるのは酷であろう。
ここに縮刷版の出版が決定された。
諸橋達はこれを改定の機会にしようと考えた。だが、その思惑とは裏腹に、縮刷版発行のための時間は短かった。涙を飲んで、諸橋達は修正を最小限に押さえ込まざるを得なかった。親字の発音などの修正は行ったものの、それは諸橋の考える「究極の辞典」への改定ではなかった。
1966(昭和41)年、縮刷版の刊行が始まった。
【11】
1968(昭和43)年、大漢和辞典縮刷版の刊行が終了したあとも、諸橋の不満は残った。いや逆に、縮刷版が流布するにしたがって、寄せられる疑問や指摘に、諸橋は全面改定の必要性をより一層感じるようになっていった。
だが、諸橋の体力はもはや限界であった。諸橋轍次85才。いまだ矍鑠としてはいたものの、激務に耐える状態ではなかった。
大漢和辞典縮刷版完成を待って、諸橋は版元である大修館書店と協議に入った。今の体制では、到底大漢和の修正発行はおぼつかない。自らの弟子の中から米山寅太郎と鎌田正を後任として選定する一方で、大漢和を修正し、発行し続けるための基盤造りを大修館に依頼した。
大修館はこれを快諾した。
だが、一方で悲しい出来事もあった。
大漢和発行のために尽力してきた大修館社長鈴木一平が没したのである。戦争による物資不足にも、爆撃による消失にも負けず、ありとあらゆる障碍を乗り越え、しまいには息子をすべて退学させるといった鬼のような所業をもって大漢和を発刊へもってきた男は、さぞ満ち足りていたことだろう。鈴木一平、1971(昭和46)年、没。享年83才であった。
跡を継いだ息子も、嫌というほど大漢和への情熱を受け継いでいた。
1974(昭和49)年4月、大修館書店の肝煎りで東洋学術研究所が設立された。
所長には、諸橋轍次の高弟、鎌田正が就任した。
もう後顧の憂いはなくなった。
大修館書店のあるかぎり、大漢和を修正発行し続ける体制が出来上がった。
【12】
東洋学術研究所は、簡単に言ってしまえば大漢和を随時修正、改定するための組織である。その所員も、諸橋轍次の弟子や教え子を筆頭に、孫弟子や高名な漢学者によって構成されている。非常に贅沢な研究所であった。
その東洋学術研究所の最初の仕事は、大漢和修訂のためのデータベース作りであった。データベースと言っても、コンピュータはまだ一般化していない時期の話で、例によって人力によるカード作成であった。
全巻に記載されている全漢字・全語彙に対して、出典・用例を丹念に記載したカードを作る。文字で書けばたったこれだけのことに、20人以上の人間の、2年以上の時間を必要とした。さらにこのカードを人力で類別したのだから、その労力は計り知れない。
整理されたカードの枚数、その数60万枚以上。
そしてそのカードの記載内容全てについて、原典を当たり、再確認・再調査を行う作業を始めようとした。ところが残念なことに、それらの書物の中には、現在では容易に入手・閲覧が困難なものが少なくなく、調査は学術上利用度が高く、かつ比較的求めやすい典籍に限定されることになった。とはいえ、再調査されたカードは30万枚以上というから呆れるほかはない。この作業が4年あまりの期間で完成したことは、殆ど奇跡と呼んでもいいのではないだろうか。
そしてこの作業は、大漢和だけではなく、もう一つの漢和辞典のためにも利用された。
それが大漢和辞典の短縮版とも言える漢和辞典、廣漢和辞典である。
【13】
大漢和辞典発刊直後、大修館と諸橋轍次は会談を持ち、いくつかの取り決めを行っていた。
一つは大漢和辞典継続発行のためのもの。
そしてもう一つは、中・小漢和辞典の刊行についてである。
大漢和辞典は、その質・量共に従来の漢和辞典を大きく凌駕し、他に並ぶものがないものである。だがしかし、であるがゆえに一般的には向かないものである。
想像してみればわかろうというものだ。やっと漢字を習い始めた小学生に大漢和を買い与える親は、単なる気違いである。文系の高校生でも扱いかねるだろう。一家に一揃えというわけにはいかないのが、大漢和である。
そこでまず、学習参考書としての機能を大きく見た小辞典が編纂された。これが大修館新漢和辞典である。1963(昭和38)年にこれが完成すると、続いて中漢和辞典の編集に入った。
そして編纂に二十余年。1982(昭和57)年に完成したのが、廣漢和辞典全3巻(+索引1巻)である。このとき諸橋轍次99才。
廣漢和辞典が正確に一体どのような層をターゲットにしていたのかは定かではないが、私から見ると、あくまで実用レベルにこだわった辞書だということができそうである。とは言うものの、大漢和を下敷きにしているだけあって、その収録字数は2万769文字となり、熟語数も12万語。専門の研究用途にはやや貧弱であると感じられるかも知れないが、通常の学生が使う分には十分すぎるほどである。
また、廣漢和が大漢和と大きく違う点は、廣漢和は、常用漢字など字体に新字体を用い、大漢和には収録されていない国字(日本で造られた漢字)なども収録しているところである。また、文章字体が口語体で書かれているところも大きい。
これらは、実は大漢和の問題点として指摘されていたところでもあり、大漢和から蓄積されてきたノウハウの一つの完成形とされたところがある。
廣漢和が持つ他の辞書との大きな違いは、熟語を音で引く、字訓索引があったことであろう。そしてこれは次なる大漢和でも採用されて行くのである……。
【14】
1982(昭和57)年12月8日。諸橋轍次、死去。享年99才。その半生を大漢和に費やし、前人未到の偉業を為し遂げた鉄人であった。
彼が亡き後も、事業は着々と進められた。
諸橋生前の悲願であった、大漢和辞典修訂版の刊行が終了したのは1984(昭和59)年のことであった。
大漢和辞典誕生以来、はじめての大改訂。だが、それも決して完璧なものではない。組版の関係上から、訂正が必ずその頁内に納まるようにならざるを得なかったことは、彼らの責任ではないとは言え、大いに不満が残るものであったという。
諸橋は生前、大漢和の増補を指示しており、現在もその作業は続いている。
また一方で、このころより、大漢和において熟語が捜し出せないという問題があらわれ始めた。それは常用漢字と口語仮名遣いの浸透によって、旧漢字文語表記の大漢和を自在に操れない研究者の増加と共に発生した新問題であった。
大漢和の全面改稿は、事実上不可能である。また、旧仮名遣いは、それなりに意味があり、おいそれと口語表記に直してよいものでもない。文語表記は、本来の漢語発音と日本語発音の間を埋めるものであるからだ。
大漢和辞典修訂版の普及版を作るに当たり、諸橋の弟子達は、新たに廣漢和で用いた熟語索引をもうけ、その並びを口語表記順とすることにその解決を見出だした。それが普及版にある「字訓索引」の巻である。
これが作られるに当たって、編者達は大漢和を何度も何度も読み返し、全ての熟語について口語読みを設定した。しかしそれが従来の数分の一の労力で済んだのは、他でもない、電算写植機による並べ替えであった。ここにきて、とうとう大漢和もコンピュータの恩恵を受けられるようになったのだ(もっとも、大漢和全てが電子化されたわけではないし、ましてや情報符号の互換などありもしない)。
普及版の刊行は平成2年。
大漢和の戦いは、まだ終わってはいない。
《おわり》