第1章の註釈

戦国期に来日した
ユダヤ人
1552(天文21)年に渡来したポルトガル人、ルイス・ド・アルメイダ(1525?〜1583)がユダヤ人であったと言う(『ユダヤ人と日本人』P.187)。アルメイダは1555(弘治元)年頃周防でイエズス会に入会し、宣教師となり、以後関西・九州で布教活動を行い、天草で没した。
お雇い外国人の
なかのユダヤ人
1887〜1902年まで東京帝国大学で教鞭を取ったルードヴィッヒ・リース(1861〜1928)など。
ポグロムポグロム(欧文つづり:Pogrom):ユダヤ人に対する組織的な掠奪や虐殺を意味するロシア語。最初にこの語が世界的に有名になったのは,1903年4月のウクライナのキシニョフにおけるポグロムからである。すでに皇帝アレクサンドル3世治下のロシアでは宗務院長K.P.ポベドノスツェフによって,また皇帝ニコライ2世時代には内相V.K.プレーベによって極端な反ユダヤ人政策がとられ,国内の不満をそらせる目的から政府の奨励,黙認のもとに大規模なポグロムがしばしば行われた。さらに日露戦争に敗北してからは反動的な黒百人組などによって「愛国的ポグロム」もなされた。その後この言葉はナチス・ドイツのユダヤ人虐殺にも用いられるようになった。(ブリタニカ小項目事典電子ブック版より)
ロシア軍のユダヤ人1904年の終わり、約50万のロシア陸軍の中に、ユダヤ人は約3万3千だったという。(『ユダヤ人と日本人』P.215)
ジェイコブ・シッフJacob Henry Schiff(1847〜1902)。ドイツ生まれのアメリカ人。
支那「支那」という単語については色々な意見があると思うが、「清」「中国」ともに時代的政治的背景を抜きにして使うことができない用語であるため、次善として「支那」を用いることにする。
シオンの議定書(欧文つづり:Protocols of the Learned Elders of Zion):反ユダヤ主義が利用している文書。ユダヤ人がフリーメーソンと協同してキリスト教の廃絶と世界征服を陰謀している証拠とされている。1897年バーゼルで行われた第1回シオニスト世界会議の報告書という形式をとっているが,内容はジョリの反ナポレオン3世文書の模倣であり,帝政ロシアの秘密警察が捏造したものといわれている。(ブリタニカ小項目事典電子ブック版より)
ロシア革命の
ユダヤ人
他にもカーメネフ(1883〜1936)、ジノヴィエフ(1883〜1936)、ヨッフェ(1883〜1927)など。更に、軍にもユダヤ人は少なくなかったようである。ただし、先にも説明したとおり、同様にして革命によって放逐された資産家の中にもユダヤ人はいたのである。
日本で出版された
反ユダヤ的書物
『日本におけるユダヤ・イスラエル論議文献目録1877→1988』によると、1877年から1917年までにわずか45件であったユダヤ人関係文書類は、1918年に8件、1919年3件、1920年9件、1921年13件、1922年13件、1923年22件、1924年17件と暫時増加傾向をとるようになる。もちろんその全てが反ユダヤではないが、シベリア出兵による「反ユダヤ主義」との接触の影響は大きい。
シオニズム(欧文つづり:Zionism):ユダヤ人の民族国家をパレスチナに樹立することを目指した運動。近代シオニズムは,19世紀のヨーロッパ民族主義の高まり,反セム主義の存続と強化および現地社会への完全な同化の不可能なことへの失望から出てきた。シオニズムの父祖と呼ばれる人たちにM.ヘス,L.ピンスカーおよびT.ヘルツルなどがいる。ヘルツルは,フランスで起きたドレフュス事件と反セム主義の擡頭に直面して,1896年『ユダヤ人国家』Der Judenstaatを著わした。彼は97年第1回シオニスト会議を招集し,ユダヤ人のパレスチナ入植促進,各国の法律を守りつつ全ユダヤ人を組織する,などの綱領を採択した。しかし,現地社会への同化を望むユダヤ人や,社会主義によってユダヤ人問題を解決しようとするロシアのブンド派に属するユダヤ人から激しい批判を受けた。ヘルツルは1904年に死亡するまで,オスマン・トルコからパレスチナにユダヤ人国家をつくる許可を取付ける努力を重ねると同時に,他方においてパレスチナ以外でユダヤ人が国をつくる場所を捜しウガンダをその候補地として検討した。10年以来,シオニストはパレスチナへの本格的な移民の斡旋に乗出した(「実践的」シオニズム)。第1次世界大戦に際しては,バルフォア宣言を発表したイギリスを支持した。22年に国際連盟理事会でイギリスのパレスチナ委任統治が承認されると,その前文にパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することが組入れられた。しかし,民族的郷土が何を意味するかをめぐってシオニストの間で論争が起き,ユダヤ国家を建設するとする立場と,ユダヤ文化の中心地をつくればよいとする立場に分れた。42年にはパレスチナにユダヤ人自治区をつくるという主張が有力となった(ビルトモア計画)。これは,ユダヤ人国家の建設がパレスチナを分割することになってしまうことを,シオニストが恐れたからであった。激しい議論の末,37年までにはパレスチナの分割はいたしかたのないことと考えるようになった。しかし,V. E.ヤボチンスキーやM.ベギンらの修正シオニストは,トランス・ヨルダンを含めた大パレスチナにユダヤ人国家を建設すると主張し,シオニスト主流派に抵抗した。30年代にシオニズム運動は自立可能な国家のための基礎を築き,その結果48年5月14日イスラエル共和国が樹立され,シオニズムの目標は達成された。しかし,先住民族のパレスチナ人への十分な配慮を欠いたユダヤ民族国家の成立は,パレスチナ問題という難問をもたらすことになった。(ブリタニカ小項目事典電子ブック版より)
極東ユダヤと
関東軍
第1回極東ユダヤ民族会議には、陸軍から、特務機関長樋口少将、安江仙弘大佐(陸軍中央から特派)、憲兵隊特高課長河村少佐らが出席していた。やや後になるが1938年1月21日付けで関東軍指令部は「現下ニ於ケル對猶太民族施策要領」を策定し、その中にはユダヤ人庇護による満洲への資金誘導や、在ニューヨークユダヤ人などへの工作などが盛りこまれている。(『外務省外交資料 民族問題関係雑件 猶太人問題』第四巻収録)
宣言文「極東猶太人民会議代表会議第一回会議詳報」(『外務省外交資料 民族問題関係雑件 猶太人問題』第三巻収録)より。

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参考文献一覧