底の底の記憶
カレ
スコップ
混迷の第五弾
Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、もしかしたらTRONプロジェクトに関り合いがあるようなないようなことが書かれているように見えることがあるかもしれませんが、もちろんそれは全て錯覚です。
当然、坂村健先生及びTRONプロジェクトとはまったく関係がありません。
よって、非論理的な方や妄想癖のある方、事実とフィクションの区別がつかない方、勝手な拡大解釈が得意な方は読まない方が身のためです。
これは、底の底でまだ底で墓穴を掘る、ある歴史学徒の哀しいまでの奮鬪努力の記録であります。
2002年6月27日(木曜日)
 尾を踏むまで、相手が虎か猫かわからん奴がいるらしい。
 困ったものだ。
 え? 私?
 私はもちろん猫ですよん☆

2002年6月25日(火曜日)
 「28日までに辞表を提出せよ」という正式な「通達」を貰ったのだが、こういう物を出す神経というやつが私には理解できん。
 脳の辺りに深刻な問題でもあるんじゃなかろうか?

2002年6月23日(日曜日)
 BTRON.com-BBSでの馬耳東風なる人物の物言いに、腹が立つやら情けないやら。一体何のために前例をわざわざ作ったのかと、溜め息の一つも吐きたくなる。
 これが相手が英語圏で、書類を全部英語でこさえないといけないとか、金銭的な問題が絡むとかいうならともかく、やる気と時間さえ捻出できればなんとかなる程度の問題に、ああいった繰り言を聞かされると、コンクリ打ちの地下室に呼び出して正面から白熱灯を当てて小一時間ほど尋問したくもなる。

 私の悪いところの一つだが、どうも「小熊がやれることなら私もやれる」的な感想を抱かれにくいという所がある。本来なら、「前例があるなら俺だってやれる」と意気込んで欲しいところなのだが、ほわっとさんなんかが「おぐま氏は歴史がご専門のようですが、文字についても、私などには、玄人=プロとしか映りませんがね。」などと書いているのを見ると、なんだかなぁとか思うわな。


2002年6月17日(月曜日)
 なんかBTRON.com-BBSで馬耳東風なる人物が、ウダウダとツマンネェことを言っているのを見て、アース文字の登録って、結局教訓にも前例にもなっていないのか、と嘆く。
2002年6月12日(水曜日)
 表の話題に追補。
 あくまで個人的な意見だが、著作権法に幾つかある権利制限条項に、「供給不全に対する自由複製免責」があっても良いと思う。既に供給が停止してしまっている(あるいは現在不全状態にある)知的財産権に対する、自由複製権を利用者に与えるべきではないかと。もちろん、補償金を払うことを前提として、だが。
 廃刊、絶版、廃盤などによる、「著作権者の意図しない」供給の停止は、著作権者と利用者の両方にとって不利益でしかない。流通体制の見直しによって多少は改善されることが期待はされるが、根本的なところでは経済原則のために解決困難である。
 流通業者を篤く保護する現在の著作権法では無理かもしれないが。

2002年6月11日(火曜日)
 某住基ネット用文字コードの仕様書。印刷すると総頁数が1,000ページいきそう(笑)。っつーか、思ったよりマトモにドキュメンテーションしてるよ、こいつ。
 問題は、ドキュメンテーションされているものがマトモじゃないってことなんだけど(炸裂)。

 そういう意味では、今Nortia実動部隊がひいひい言ってるTADも似たようなものか。


2002年6月9日(日曜日)
 私の後任が決まったそうなんですけど、来るのは7月途中からって、舐めてんのか?
 一月足らずで引き継ぎなんてできると思ってるのか?

2002年6月7日(金曜日)
 追い詰められてるなー、最近。
2002年6月2日(日曜日)
 先月は、「退職までもう3ヵ月♪」なんて思ってたのに、今は「まだ2ヵ月もあんのかよ……」とか思っているあたり、かなり重症。

2002年5月31日(金曜日)
 上長から、「Yさんに差し込み印刷とかのやり方教えておいて」と言われた。が、実は事前に本人に意志を確認しており、「やりたくない」と断られている。理由は、「覚えた方がいいのはわかってるけど、やれるようになったら何やらされるかわかんないから」。
 こういう状況下で、どうやって教育を進行させようというのだろうか。

2002年5月30日(木曜日)
 職場に残るバイトの人に、終業後酒を奢られて、何の話かと思えば慰留だった。

2002年5月22日(水曜日)
 消防車があれば消防士は要らない、という考え方は正しいか?
 ……なんて問いに「正しい」という答える人間がいたら見てみたいものだが、なぜかこれがPCとSEだったりするとまかりとおる世の中の面白さよ。

2002年5月20日(月曜日)
 二人目の派遣さんは、馘という形になったようです。まあ本人も「続けていけない」って言ってたくらいだから……。でも派遣だろうが何だろうが、充分な教育のコストがかけられなければ十全な状態で仕事ができるわけもなく、僕としては教育半ばで教育コストがゼロリターンされるのが大打撃ですよ。投資損じゃん、完全に。
 個人的には、僕がやってる仕事がちゃんと引き継ぎできるのか不安です。
(こんな調子じゃ、引き継いだ相手がすぐに辞めるような事態に陥りかねない。そもそも、引き継ぎ要員を探している素振りもないんですけど……)

2002年5月17日(金曜日)
 あああああ。二人目の派遣さんが「続けていけない」って……(涙)。
 また教えたことが無駄になる〜〜る〜る〜る〜。

2002年5月16日(木曜日)
 昨日に引き続いて、今日も大ダメージを喰らう。
 非常識というより異常識だよ。
 自分が理解してもいないものについて平然と無茶苦茶な指示を出しておいて、望む結果が得られないと癇癪を起こすってのは、どう考えてもイカレてると思うのだが、当人は命ぜられた人間の能力が足りていないからだと思っているらしい。
 だから次々と人が辞めていくんだ、ということには当然気が回らない、と。

2002年5月15日(水曜日)
 員数と戦力の区別がつかない上司に振り回された。イニシャルコストをケチればランニングコストが上がる、なんてことが当たり前でない人と付き合うのは、疲れる。

2002年5月12日(日曜日)
 大量に流れて来る情報を個々人が判断し対処する体制って、不可能じゃないと思うんだけど、どっかで破綻するような気がするなぁ。っつーか、私なんかだと、とりあえずその情報を管理してくれるサポートスタッフ(秘書でもなんでもいいが)を置いて自分は実務に専念したいとか言い出しかねないし、有能な上司がいるんならピラミッドの方がいいとか思うけど。

2002年5月8日(木曜日)
 同情の余地がないわけじゃないと思うんですよ、領事館職員には。
 たとえ自分の行いが正義だと思ってもさ、やったあとの責任取らされるのは自分なわけじゃん。で、この国は自分の正義を守ってくれるであろうかとか考えたら、二の足踏むよな。だって、ユダヤ人を6,000人救った杉原千畝だって馘になったんだよ(笑)。北朝鮮からの亡命者を何人か助けたとして、それで馘になったらシャレになんないじゃん。
 そういう意味では、広義に政治の責任であり、最終的には主権者たる国民の責任なんだよなぁ。
 国の出先代表たる外交官が、自らの正義が国家正義に合致することを信じることができて初めて、一個人の枠を越えた行動ができるようになるんですから。自らの行動が国是・国益に沿っている筈であり、自分を国が支えてくれる、助けてくれるという信頼がなくて、どうして外交官がその職責を全うできようか。
 しかし今や事態は、外交官は国家を信用できずに墮落し、それを見た国民は外務省を信用できなくなっているという悪循環に陥っとりますな。
2002年5月7日(火曜日)
 あんまり不穏当なことは言いたくないんだけど、本当に必要で有用な有事法ってのは、まさに戒厳令だったりするんですが……。より多くの国民の生命財産を守るために、ある程度の犠牲を許容しましょうというとんでもない発想ですが、そういう事態すら想定しなければならないのが有事というものの怖さで……。
 有事になってからでは遅いというのは正解。で、キツい有事法ができたとして、その法律が実効しないように全力を挙げて平和政策に取り組むのも正解。どーにもならなくなったらメ一杯法律を利用して状況打開に努めるのも正解。全部レベルの違う話だからね。

2002年5月6日(月曜日)
 には書けなかったんですが、実はメモリ増設に失敗して、M/Bをお釈迦にしました。差し込み不良で接点から発火。いやぁ、コンピュータと付き合って20年になりますけど、火を吹くコンピュータってのは初めて見ました(汗)
 メモリモジュールは完全に焼損。M/Bは吽ともすんとも言わず。最悪の場合、CPU、メモリ他全滅か……と思いましたが、手持ちの機材でチェックした限り、M/Bのみの損傷と当たりをつけ、急いで秋葉原へ行って同じM/Bを入手してきました。(しかしIwillは秋葉原での取扱店が少なく、元買った店で「品切れ」だった時にゃどうしようかと思いました)
 M/Bを交換し、BIOSを焼き直して、初期設定を済ませると、無事立ち上がりました。
 ホッ。
 高い勉強代でした。
 で、なんでこの話が表に書けないかというと、例のモリサワのOpenTypeのライセンスなんですな。M/Bを交換した場合は有償で再インストールしなければならないライセンスになっているのですよ、これが。別にチェックしているわけじゃないんですけど(OpenTypeにそんな機能はない)、一応ね。

2002年5月2日(木曜日)
 保育園時代から小学校低学年頃、比較的仲の良かった(後には疎遠になった)幼馴染が刑事事件を起こして逮捕されて社会面に載った。
 そういえば、近所の後輩は警官になったが酔っぱらい運転で事故って懲戒とか聞いた覚えが。
 ああ、私ってば実に平穏な人生を送っているな!
2002年5月1日(水曜日)
 Nortia TAD WGの活動は現在非常に活発で円滑なのだが(その分実動部隊は結構大変なのは当然だが……)、これはもうπちゃんの管理能力に依るところが大。彼には管理職としての能力がありますね。
 もっとも、本人がその能力をどう思っているのかはわかりませんが。
 私が今気持ちよくNortia TAD WGの仕事ができているのは、彼が進行管理を買って出てくれているからです。その分、私は本文やレイアウト他、細かい版面の構成に注力できる。私は元々兵隊が性なので、よい上官こそは必須なものと感じているのですが、πちゃんは非常に良い上官です。はい。

2002年4月29日(月曜日)
 今日は職場に出かけて、普段はできないウィルスの完全チェックなどをやった。
 もちろん、市販のソフトを入れてチェッカを常駐させているのだが、なぜか週一のチェックで常駐チェッカが殺されているのが発見されるPCがあったりして、一体どういうことなのかと叫びたい気分にもなったりする。
 対策ソフトをインストールして常駐させてあっても、勿論人間がわざわざウィルスを実行すりゃ話は別だし、常駐監視ソフトを止めてくれれば無防備と一緒だ。
 幸い、私がある程度目を光らせているので(笑)、過去数度のウィルス騒ぎも無事乗り切れたが、私が居なくなった後のことを考えると頭が痛い。

2002年4月26日(金曜日)
 表の話題について、いささか考えていたのだが、恐らく聖ジョージの日が本の日であることには、次のような意味があるのではなかろうかと結論を出した。
「異端書は燻よ」
 なるほど、それなら意味が通る。
2002年4月24日(水曜日)
 某MS-Accessのクエリ画面はちょとだけグラフィカルな感じで、SQLを知らない人でも手軽にクエリ作成が出来るのだが……。
「小熊さーん」(ヘルプコール)
「ちょっと待った。条件整理して! この画面じゃわけがわからん」
 あっさり理解を諦めSQLを生で表示させて読む。
「よしわかった!」
 そのまま手書きでざくざく書き換えていく私……。
 いや、悪くはないと思うんだよ、MSのツールって。とっつきやすいし。でも条件が複雑になって来ると、見通しが悪いだけで。(ついでに自動生成されるSQLも汚くなる)
2002年4月23日(火曜日)
 今日気づいた阿呆なこと。
 生年月日から今日現在の満年齢を算出する簡単な式を、入社以来3種類こさえていたことを知った。
 っつーか、今日見つけた二つめのが傑作で、条件分岐無しで誕生日の判定をこなしている粋なやつだった。しかしその式を見ながら、もうもっと速い計算ができそうだと思ってしまった。しかし流石に4つめを作る気にもなれず、放置した。

2002年4月21日(日曜日)
 弟が痛み止めを取り出したのを見て、兄弟の会話。
兄「ジクロフェナクナトリウム?」
弟「ボルタレン」
兄「俺はシーコンやけど」
弟「みんな一緒やけどね」
 つまり、全部ジクロフェナクナトリウム系鎮痛剤です。

2002年4月16日(火曜日)
 仕事で「青少年有害社会環境対策基本法案」関連の情報をざっと見たんですが……。正気の人間が作ったとは思いにくいところがありますね。おいおい冗談じゃないぜ、って感じの法案です。
 青少年の周囲から、過激な暴力描写や性描写を排除したとして、そして青少年は「健全」に育つと本気で考えてるんでしょうか。本気じゃないとすればとんでもない法律だし、本気だとすれば少々オツムのデキを疑った方がいいですね。
 その昔、人間を悪に墮落させる元凶として酒を禁止した国がありましたが、私の知る限り悪がより蔓延っただけだったようですが。

2002年4月15日(月曜日)
「流し込めば簡単でしょ?」
 そりゃ流し込むデータを作るところまでの行程を全く無視してますな。
 データを事前に作ってなければ、どれほど差し込み印刷をしたくてもできないし、差し込み印刷をするためにデータを作り始めたんじゃ、効率が悪いどころの騒ぎじゃない。全工程に対し必要な情報をデータベースという形で整理蓄積してこそ、全体の作業効率化を実現できる。そのための設計・入力・運用コストでしょ。そーゆーの一切合財捨て置いて結果だけ得ようなんて、そりゃ「種を撒かなきゃ実はならない」ってもんでしょー。

2002年4月10日(水曜日)
 私がやれば2分で終わる調べものに二人がかりで30分近くかけているのを横目で見ながら、ひたすら単純作業に従事する。自慢じゃないけど、私こういう単純作業の効率低いです。以前、心理学の実験で単純な足し算を延々続けるってのをやったときも、物凄く数値悪かったです。
 こういうのを、人的資源の無駄遣いってゆーんじゃない?(笑)
2002年4月8日(月曜日)
 氷山の一角、なんて言葉が頭を過った一日だった。
「小熊さんがいるうちに教わっておかないと」
 ってセリフは確かに正論なんだけど、それはね、僕がそれだけの教育コストを負担できる状態のときにして欲しかったな。MS-Wordに差し込み印刷の機能があって、「差し込み」なんてボタンをマウスでクリック一発でそりゃできますわな。しかしその背景にはExcelやAccesとの連係があって、どちらにしろ「データの作り方と蓄え方」なんてという話があって、設計・構築・運用の三位一体を無視して最後の結果だけは出てこないわけですよ。差し込めるデータが事前に揃ってなければできないんだから。
 その辺を理解して貰えなかったから僕はこの職場を去る訳で、だから上のような理解されてない発言がされても驚くには価しないわけです……。

 あー。俺って預言者か


2002年4月7日(日曜日)
 教育コストのことを、最近よく考えるようになった。
 以前の自分なら、考えもしなかったことだ。これも会社勤めの功といったところか。
 組織という系の要素は人間で、人間が組み合わさって系になっている。で、人間は色々な理由で欠けることが想定されるので、系としては冗長性を持って系を構築しないと、要素が一つ欠けただけで系の機能不全を起こすことになる。
 この冗長性というものの中に、教育が含まれる。
 最近、中途採用で実務経験者優先などという求人を見るが、これは要するに教育コストを圧縮しようという発想だ。教育コストは系の活動の中では冗長な部分と看做されるので、圧縮を考えているわけだ。
 しかし…。
 まがりなりにも会社組織で2年を過ごして思ったのだが、これは、極めて緊急にある特定のスペシャリストが欲しい場合は有効だが、会社組織全体としてみたときは緊急避難的対処でなければならない。会社として教育コストが負担できないという状況は、控え目に言ってもまともな状態ではない。
 会社は系であり組織であり、組織は存続したとして人は入れ代わる。後藤新平的に言えば、それは人体の細胞が日々作られ、入れ代わるように、生物・生理的である、ということだ。しかし入れ代わるにしても人間が系の要素として動くためには教育を施さねばならず、そのコストは当然のように系が負担しなければならない。それができて初めて、系は世代交代への耐性を身につける。
 会社組織と言う系が時間に耐える、ということは、生物で言えば生存するということだ。構成人員の交代は代謝であり、であれば教育とは体質を伝える遺伝の伝達に他ならない。
 教育が負担できない、あるいはそのコストが正しく反映されないというのでは、会社としての存続が怪しいということだ。
2002年4月3日(火曜日)
 ある程度予想はしていたが、1減1増で員数の帳尻はあったが、コンピュータ周りの負担はかなり増した。差し込み印刷程度は全部お願いできたものが、その人がいなくなったから、あとは全部俺の仕事ってわけか。
 そりゃ「差し込み」ボタンを押すだけならサルでもできるけど、それができるところまで持っていくのは結構な労力なんだよね。データ設計なんか事象の地平線の彼方にあるとしか思えないMS-Excelのデータを綺麗な形に直すまで、関数噛ませたり手作業で整形したり……。どうせ分かってもらえないし、わかってもらうための努力をする気もなくなったから、ただ黙々と作業をこなす。
 しかし、なんでこうワープロ的なファイルをわざわざExcelで作るかなー。

2002年4月1日(日曜日)
 書記局長に、正式に辞意を伝えた。勿論、四月馬鹿ではない。

2002年3月29日(金曜日)
 に書いたことってのは、要するに「ウチの職場って人間の教育コストってものを全然考えへんや。そのくせ頭数もないし」というハナシだったり。

2002年3月22日(金曜日)
 キーボードを破壞してしまう。
 げんなり。

2002年3月20日(水曜日)
 時々思うのだが、どうして遺産総額が大きい人に限って、相続に問題が発生するのであろうか。これは大きすぎる遺産が相続問題を発生させるのか、あるいは相続に問題を発生させるような私生活を送らないと、莫大な遺産をこさえられないと言うことなのか。
 どちらでもあるような、ないような。

2002年3月19日(火曜日)
 十二指腸に潰瘍痕が見つかりました。ストレスですね。
 尿酸値も高めでした。ストレスですね。

 しかし……BMIでは肥満判定が出たのに、体脂肪率ではさほど高い値が出ていませんでした。あいかわらず、なぜか筋肉だけはたくさんついているようです。


2002年3月18日(月曜日)
 土曜日に先輩と会って立ち話をしたときに、やっぱりBTRON2という話になった。まあ、色々と古くなっている部分もあるのでBTRON2+か、あるいはBTRON4かということになると思うが。
 何しろ、BTRON2が一応曲がりなりにも存在した時代から見ても、プロセッサパワーは単純クロック比で30倍以上、実性能は100倍を超える時代である(G Micro 500でも66MHzで130MIPSだったもんねぇ……)。「どうやってもパフォーマンスが出ない」などというセリフは「じゃあCPUクロックを上げましょう」とか言って笑って済まされる時代である。BTRON2を真面目に作ったら要求スペックが「Pentium III 1.0GHz以上、主記憶256MB以上」になったとしても、誰も「無茶だ!」とは言わない時代だ(笑)
 BTRON3は妥協の産物(BTRON1/32bit)で、あまり綺麗な仕様とは言えない……ことはBTRON関係者の共通認識だと思うが、果たして「次」をやる体力がTRONやPMCに存在するかは神のみぞ知ると言ったところか。

2002年3月14日(木曜日)
 7月で、就職して丸2年になることに気づいた。
 いい区切りだと思った。
 こういうことを考えるようになったら、駄目でしょ。進むか止まるか、迷ったなら進むものですから。

2002年3月12日(火曜日)
 人月の神話じゃないけど、人間の教育コストって結構馬鹿になんないなぁと思うこの頃。人間一人と戦力一名にはかなり大きな差があるね。とりわけうちみたいな小さい職場だと。戦力が一減って員数が一増えただけじゃ、戦力は減少するわけだ。
 さらに言えば、職責に応じた仕事をさせるってのもきっと間違いなんだろうな。能力に応じた職責と仕事を与えるのが、本当なんだろう……。

2002年3月6日(水曜日)
 バージョンアップしてみて……あれ、基本文書エディタのメニューのバグ直ってへんわ。
 って報告してないだろ>オレ
2002年3月5日(火曜日)
 某JCS委員会の今年度最後の委員会を傍聴。例のレビューの結果を見定めに行ったわけだ。要約すると、「レビューしました。コメント集まりました。コメントに対する説明はかくの通りです。それでは原案通りに……」って感じですか。
 やっぱ盤面をひっくり返すつもりなら、それなりの力を行使しないと駄目ですねー。有り体に言うと、ヒトとモノとカネを出さないと駄目でしょうね。
 でなけりゃ、もっと巨大な力で叩き潰すか。
 しかし……しぶとい>S野。まぁだ諦めてないんか>X 0213
2002年3月1日(金曜日)
 某IBMのeコマースのTV-CMで、システムトラブル対策のために緊急に開かれた会議の中で、社長(と思しき)女性がひとしきりの被害報告を受けた後に「プロジェクトの総責任者は誰!?」とか叫んで、「……。それは、あなたです」と言われるというのがあったが、今や笑えない自分がいることがイヤですね。

 肝臓を疑った医者、腕いいね。
 僕が普段から沈痛解熱剤として服用しているのはシーコレンで、主成分はジクロフェナクナトリウム。肝臓機能に問題がある人には使ってはいけないクスリ。これを一日二錠ペースで服用……ってのは、殆ど目一杯使ってたってこと。
 当然まっとうな処方箋による処方ではないので医者には言わなかった。なのに肝臓を疑ってきたというのは、それなりに腕のある医者だ、ということだわな。


2002年2月26日(火曜日)
 先のJIS文字コード改訂の方針案レビューに対して提出されたコメントは全19件。まだ全部は読んでないのだが、豊島先生のコメントに目を通して、にやりとした。
 豊島先生とは、立場上(残念なことに)対立することも多いのだが、私自身は豊島先生を嫌ってはいない。それどころか、学問的にはまともな人だと思っている。こんなこと(文字コード)にさえ関らなければ、それこそ後ろ指指されることもなかったろうにと思うと、多少申し訳ない気分にすらなる。
 豊島先生のコメントには、恐らく私くらいしか気づかないだろうと思っていた「議論の枠組みへの疑問」が提示されていた。ベクトルは逆方向だが(笑)、きちんとその点に言及していた点において、やはり学問的にまともな研究者なんだな、と思った。
 残念ながらベクトルが逆方向なので決して共鬪できる相手ではないのだが、やはり敵でも味方でも、優秀かつ有能な人が相手だといいな、と思うのであった。
 しっかし……某協会と某協会の出したコメント、なんというか、裏で繋がりがあったんじゃないかって程似ているってのはどういうことだろうか……。

2002年2月22日(金曜日)
 朝っぱらから、キレてしまった。
 上長の指示で作った項目分け、増やすからソーティングオーダーを指定してもらうために一覧を出して見せたら、なんでこんな分類があるの?なんて言われて、思わず「あんたが指示したんだ!」と言ってしまった。
 朝令暮改を自覚していない人って、本当に困る。
 こんどから仕様書を作ってもらおうか。

2002年2月15日(金曜日)
 やっとこさJIS文字コードの公開レビュー期間が終わってくれて、ほっと一息。
 立場上、他所様のレビューコメントなんてものにも目を通すわけなんだけど、感じるのは知的独占の弊害かね。
 知識もノウハウも政治力も、ある特定小集団(面子は10人弱)に集中しているがために、その他の組織においては、問題を理解することすら困難な状況に陥っており、結果的にそのキャスティングボードを握った寡頭集団の制御下に置かれてしまっている。用意された議論の枠組みそのものへの考察は、殆どできていない。
 なぜこのような知の寡占が起きてしまっているのかと考えると、一つにはやはり「これは簡単な問題である」という思い込みがあるのだと思う。
 文字を読み書きすることが、生身の人間にあまりにも自然にできるために、それがどれほど高度に抽象的な概念処理であるか、普段実感することはない。ところがコンピュータを持ち出すと、途端にその本質と向かい合わねばならなくなる。そこである種の断絶が起きている。
 中心核でこの問題に関っている連中は、その山の高きを、その峰の険しきを、その頂の遙かなるを良く知っている。だから、できれば早急な問題解決より、じっくり時間をかけた根源的な解決を望んでいる。しかしだというのに、周囲の理解は全くといっていいほど、ない。
 これは悲劇の種だな。
 なにしろ、末端の文字使用者の文字感と、中心核において文字処理を考えている人間の文字感の間には、ニュートン力学と量子力学くらいの隔たりがある。にも拘らず、両者の距離は絶望的なまでに近い。
 文字概念と字体と字形の区別がつかなくても文字は読み書きできる。しかしそれでは文字処理系を構想することはできない。かといって、かような抽象的な概念設計に基づく規格は、こんどはそれの利用者(メーカーやベンター)を混乱させる。彼らは具体的なモノを作るのが仕事であって、抽象論を理解する必要もなければ解釈する気もない。ましてや末端利用者をや。
 末端からの要求は、単純ではあるが実現が極めて困難、時には論理的な破綻すら来してる。そんな要求を突きつけられた寡頭集団は嫌気だって差すだろうさ。その気持ちは能く分かる。

2002年2月5日(火曜日)
 H-IIA射ち上げにまつわる記者どものイカレた質疑応答や、その後の記事を見ていて思うのだが、こいつらまとめて全員魔法の国の住人なんじゃないか?
 少なくとも現実主義者じゃないな。
 よりにもよって、マスコミがそれじゃ駄目だろうに。
 自分が何を伝えているのか分からないで記事書いてるような連中じゃあ、信用もできなきゃ信頼もできん。

2002年2月2日(土曜日)
 悪しき結果論主義について。
 よく「結果こそ全てである」という意見を耳にすることがあるが、これは実に危うい論法だ。
 妥当な目標と、正統かつ正確な手法、そして適当な結果、というのがあるべき姿であって、良い結果さえ得られれば目標設定や手段手法は問わないというのは、安定した結果を残すことができない。
 なぜかといえば、目標や前提が間違っていて、かつ手段や手法が間違っていても、結果を残すことができるからである。
 これは科学史・技術史を学ぶと自ずから分かることであるが、現代の我々が中学・高校で習う化学の各種法則の中には、発見当時、明らかに現代の常識とはかけ離れた前提と理解によって確立されたものが非常に多い(特に古典物理)。結果は正しかったが、前提も理解も間違っていることは、よくあることなのだ。
 これは日常社会にも勿論言えることであって、結果が正しいことは、必ずしも前提や過程が正しいことを保証しない。間違っていないことですら、保証してくれない。
2002年1月25日(土曜日)
 xpなるものを触ってみて思う訳なんですけど、なんでまたこんな意味不明な変更を施すかな、と。
 継承性とか教育コストとか色々な問題を次々と発生させて何か楽しいんですかね?

2002年1月21日(月曜日)
 文字コードの会議に参加していて、今日ほどTRONの良さが分かった日はなかった。
 ISOのスケジュールや国の会計年度といった外的圧力や、既存規格や国際規格との整合性などに頭を悩ませる必要が(ほとんど)ないというのは、幸せ以外の何物でもない。
 全部ぶちこわしにしろよ、と言いたい訳なんですが>JIS。
2002年1月14日(月曜日)
 システムは、難しい。
 大体、システム(=系)は実体ではない。物質的な意味では、例えば生命体と死体は基本的に違いはない。つまり、システムとは動態であり、物質的な要素とその活動が一体となったもののことだ。動いていないと意味のないものである以上、定量化して計測することが困難だ。システムが健常に動いていることを証明しようとすると、そのためにシステムのパワーが食われる。外部から観測しようとすると、そのために他所のシステムパワーを投入するしかなくなる。徹底的に分析しようとすると、システムを止めねばならず、それは即ち系の死を意味する。動いていない系は役に立たない。
 しかし、系は決して理解不能なものではない。

2002年1月5日(土曜日)
 システムは人間の悪意に弱い、と書いたが、よく考えてみると別に悪意ではなくても、善意にも弱い。
 人間の意志という奴に対して、社会システムは本質的防禦手段を持たないということなのだろう。ま、作ったのも人間なら、破壞するの人間だからね。

2002年1月3日(木曜日)
 涸井戸4で話題にした共同通信社の社説配信問題は、意外なほど飛び火しているらしい。
 最初、共同通信に事情を聞かせて欲しいと申し込んだときはけんもほろろに扱われたそうで、親父たちは共同通信社の「報道と読者委員会」(委員:内橋克人氏、土本武司氏、紙谷雅子氏)なる外部有識者に事情を話して、間接的に話を聞いたそうである。流石に共同通信社も会談に応じ、件の社説原稿を「論説資料」という名目で配信していることを認めたそうだ。この「論説資料」は面白いことに、共同通信社から配信はされているが、利用は受信各社の自由で、改稿も自由。しかし、責任は各社が持つというものらしい。問題の地元新聞の場合、てにをはを僅かに変更しただけの、ほぼ原稿通りの掲載であった。これでも、責任は地元新聞社にある、ということになるらしい。地元新聞社でも、共同から配信された「論説資料」が社の方針と合致していたので掲載した、と主張しているらしい。
 一応のスジは通っている。
 しかし、大穴も空いている。言うまでもないが、検証能力の欠如が問題になる。社の方針と共同の方針が合致していたとして、ではその論説に誤謬があった場合、誰が責任をとるのであろうか? それよりまず、それがわかるくらいなら自分達で原稿を起こせばいいことであって、何も配信原稿を丸ごと転載しなくてもいいという話になる。
 自分達で社説を書く能力がなかったからこそ共同配信の記事を流用したのであり、その状況で検証能力に関してかなりの疑問をもたれても仕方がないだろう。
 それはともかく、これについて地元新聞社はそうとう慌てたらしく、Webサイト上に公開されていた社説から、共同配信のものが消し去られた。
 挙げ句、お笑い草だが、親父がその新聞に10年連載していたコラムが、唐突に打ちきりとなった。親父自身はやめたがっていたようなので、タイミングは良かったろうが、狭量なことだと思う。
 別に私は共同通信などの通信社による記事配信システムが悪いというつもりはない。ただ、どのようなシステムもそうだが、運用において全てを台無しにすることはあまりにも簡単なのだ。こういうことを平然とされては、システムそのものへの信用が揺らぐ。
(もともと、システム=系というものは、人間の悪意に対して脆弱なものなのだ)

2002年1月2日(水曜日)
 個人的感情を一般論に假託しないと喋れない人が世の中には存在するが、そういう人は定義不能な言葉を濫用する傾向にあるように思う。もちろん、別に定義不能な用語を用いることが問題なのではない。この世の全ての用語が定義可能だと信じているわけでもない。しかし、少なくとも他人を言葉で納得させようというときにそういう定義不能な言葉を用いるのはどうかと思う。
 自戒も含めて。

 弟と話しているときに事故工学の話になった。
 私にとってみれば、さしておかしなことを言っているつもりはなかったのだが、弟はかなりカルチャーショックを受けたようだった。
 本来的に、さして難しいことではない。
 日常的に我々が行っている「安全」「危険」の判断を、論理的に、定量的にやろうというだけの話だ。当然、閾値があり線引きがあるので、「許容される危険性」という奴を直視しなければならない。
 許容される危険性とは、具体的に言えば“横断歩道を青信号で渡っている最中に、信号無視をして交差点に突っ込んできた車に轢かれる可能性”のようなものだ。その可能性が僅かながら存在することは誰もが知っているが、だからといって歩道橋や地下道を設置しろとは言わない。つまり、この危険性は許容されている。
 沈没しない船を造ることはできないが、沈没しにくい船を造ることは可能だ。しかし、どの程度沈没しにくい船を造るかについては、費用対効果の問題になってくる。つまり、ここにも危険性の許容の問題が出てくる。風速40m以上の暴風雨の太平洋上で航行できる船を造ることは不可能ではない。しかし意味はない。そういう時は停泊してしまえばいい。それでももし状況によって回避不能となり、沈んでしまったら?
「それは仕方なかった」(許容範囲内である)
 そう答える。もちろん、ただ単に諦めているわけではなくて、せめて乗員乗客に犠牲者が出ないように安全係数を見込んだ救命ボートを用意しておくだろうし、救難体制への連絡等を密にするなどの方策を採ることは言うまでもない。
 事故を防ぐことと、事故による犠牲を最小限に押さえることが事故工学の柱だが、その二つの柱を的確に運用するためには、ドライだろうがなんだろうが、現実主義者にならないといけない。許容される危険とのつきあい方を考えるのが事故工学であるといってもいいだろう。
 ともすれば、事故を防ぐことばかりに目をやりがちだが、これは日常的に我々が危険性を許容して生きているということを、認識していないからではないだろうか?