底の底の記憶
カレ
スコップ
迷走の第四弾
Caution!
このページはあくまで小熊善之個人の責任において製作されており、もしかしたらTRONプロジェクトに関り合いがあるようなないようなことが書かれているように見えることがあるかもしれませんが、もちろんそれは全て錯覚です。
当然、坂村健先生及びTRONプロジェクトとはまったく関係がありません。
これは、底の底でまだ底で墓穴を掘る、ある歴史学徒の哀しいまでの奮鬪努力の記録であります。
2001年12月23日(日曜日)
 私のことを「鉄」だと思っている人がいた。
 ひどい誤解だ。
 よりにもよって「鉄」だなどと。「鉄」はないだろう、「鉄」は。
 「鉄」というのは、オタク界の不可蝕賤民といっていい。菊川涼音も「オタクにもいろいろあるが、何が嫌いといって、鉄道オタクほど嫌な連中はいない」と言い切っている。
 連中は、とにかく人生が鉄路を中心に動いている。
 移動・旅行と言えば鉄道を使うことしか考えず、鉄路の続く限り鉄道で移動しようとする。最適ルートを探すために時刻表をくまなく閲覧しダイヤグラムを舐めるように追いかける。なにが面白いのかはさっぱり分からないが、どの列車がどこの路線を走るのかを記憶しまくる。それも現在だけではなく、過去と未来のをだ。
 それだけではない。車輌の型番を覚え、記号で喋り、どの時間にどの編成が走っているかを把握しようとする。
 「鉄」はカメラをもっているが、これはもちろん鉄道写真を撮るためだけに存在している。なんだかよくわからない貴重な写真を撮るために、北は北海道から南は鹿児島まで鉄道で移動する。
 しかも彼らは、現在国際的な広がりを見せているオタク社会の中で、頑なに鎖国を貫いている一派である。いや、正確を期すならば、彼らの趣味は決して日本以外では理解されない。
 秋葉原の中で、決して外国人が訪れない空間・萬世模型に、電気屋そっちのけで集まる連中―
 それが「鉄」なのだ。
 私は断じて「鉄」などではないのだ。
2001年12月16日(日曜日)
 T-Engineの愛称を作らないといけませんね。
 会場では「てぎ」だの「天神」だの「T猿人」だのと言われておりましたが(笑)。

2001年12月12日(水曜日)
 とうとうあの禁断の果実、「動的リンクライブラリ」を搭載したんですね>超漢字4(笑)。
 っつーか、Mozillaを移植するのが現実的じゃないという話をかつてしたのは、DLLをOSとして導入する必要ができるからで、そうするとOSそのものの大改造が必要になり……という話だったのだが、PMCはDLLを導入してしまったようですなっ。
 有効活用はこれからにしても、揺らぎ検索とか、DLL化した方が良い部分ってあるでしょうし。

2001年12月6日(木曜日)
 父がやっていた地域ミニコミ誌は、結果的に編集人(=親父)の負担が大きくなり過ぎた結果として崩壞したらしい。しかしまあ、良く保ったもんだと感心した。蛙の親は蛙やね(爆)。
 しかし歳だけ喰った不良壮年どもの夢は未だ尽きていないようで、何とかして負担を分散させて再刊させようとチャンスを窺っているらしい。
 いい歳こいて……隠居はどうした?(微苦笑)
 それはともかく、親父のルートから入ってきた話。
 地元日刊新聞の論説について調査している最中に、数紙の地方新聞に、ほとんど同じ内容の論説が載っていることに気付いた親父達が調査した結果、共同通信が地方紙各紙に対し、論説原稿を配布していたことが判明したそうだ。
 ジャーナリズムに限らないことではあるのだが、器じゃなくて、中に満たされるモノこそが、重要なのだと思った次第。
 各県に最低1〜2紙はある地方日刊新聞や、1〜2局ある地方TV局などは、要するにがらんどうの器なのだ。

2001年12月3日(月曜日)
 近所の古本屋で、ジョン・ダワー(Jown Dower)の『人種偏見 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』(原題『War Without Mercy: Race and Power in the Pacific War』)が700円で売られているのを見て絶句する。
 私としては、歴史学、こと現代史を志すものにとって必携の書だと思う本のうちの一冊なのだが……。
 700円ですか。流石になんか凹みますな。

2001年11月28日(水曜日)
 に連動した話題。
 犯罪捜査のコストパフォーマンスが落ちる一方で、逆に犯人検挙率は下がってきているので、犯罪のコストパフォーマンスは上がっている。
 これは憂慮しなければならない事態だ。
 犯罪は、基本的に犯した方が利益になる。それを看過し続ければ、それでは力こそ正義の社会になってしまい、社会秩序が構築できず、結果として継続した発展が望めなくなる。健全な社会を維持するということは、知識や歴史を共有・継承することだ。力=正義の世界ではこれができない。
 そこで社会では、社会構成員の合意に基づいて権力組織(一般的には国家政府)を構築し法を整備し、統制された暴力組織(警察や軍隊)によって犯罪者を駆り出し、犯罪を犯すことによって得られた利益以上の不利益を権力によって秩序逸脱者に与えることにより、犯罪のコストパフォーマンスを落として、社会秩序を保とうとする。
 権力によって犯罪の費用対効果が一定以下に抑えられていなければ、当然、誰しも犯罪を犯すことを考えるようになる。その閾値は人によって違うだろうが、その閾値を越えてしまえば、犯罪を抑止することができなくなる。
 要因はそれだけではないのだが、犯罪の費用対効果が高くなる事態は、本質的に社会を混乱させる。法の庇護が受けられない可能性が高くなれば、営利団体は自己防衛を図らねばならなくなり、保安費用が増大し、営利団体としての収益率の悪化に繋がる。保険の掛け金は上がるがリスクも増大するので保険業界はより博打に近付く。社会構成員も、疑心暗鬼に駆られるようになる。当然これらは社会全体で同時進行する。社会不安が増大し、人心は惑い、経済活動は停滞する。
 一部の国や地域では、それでも「ケ・セラ・セラ」を合言葉に生きて行けるようだが(笑)、どうも僕の性には合いそうにない。

2001年11月24日(土曜日)
 高等学校情報科の教員免許を取ろうと思っていたのに、今年、うっかり願書を出すのを忘れてしまっていた。来年こそは忘れずにとろう。
 ちなみに実施は2005年から。
 別に教員になりたいわけではないが、ただ、情報学を本気で教えこむなら、頭が柔らかいうちがいいし、高校くらいの若者に、初歩の初歩をきちんと手ほどきするのは悪いことじゃない。後継者を育てたいという意図もある。
 里見くんのように優秀な人材を早期に発掘し、英才教育を施し、気付いたときには撤退不能なまでに尖鋭的な人間としてしまうのは、私の薔薇色の未来・若隠居生活のためには不可欠だろう。

2001年11月17日(土曜日)
 父は地元新聞で「ドクターのひとりごと」という月イチ連載を持っているのだが、確か昔は数人の医師のもちまわりローテーションだったはず。いつの間にやら、彼一人の独擅場になっている。
「はやいとこ後釜見つけて辞めたい」
 と父は言った。
 父よ、それは無理だろう
 彼は若い頃、「50で隠居する」と宣言していたそうであるが、50を4つばかり越えて、未だにあちこちで重責を負わされている。人間、もっと計画的に隠居を進めなければ駄目なのだろう。
 私はもっと頑張って若隠居しよう。

2001年11月4日(日曜日)
 文字コード関係者に女性が少ない理由をふと思い付いた。
 コードブック、重いからねぇ。
 なんだかんだで腕力勝負のこの業界。

2001年10月31日(水曜日)
 主観と客観・間主観の区別がつかない人が存在することが、僕には信じ難いことです。主観は個人の内的なものなので証明も説明も不要ですが(笑)、客観性・間主観性を得ようと思えば、それは自分の主観を何らかの形で説明する必要があります。客観/間主観とは複数の主観の間で合意が形成されている状態ですから、相手(複数であれ)の合意を得ないと成立しないわけです。
 自然科学以外の分野に於いては、完全なる客観性の獲得は不可能だと思います(その自然科学ですら、観測者原理が働く)。変な例になりますが、殺人ですら、「神の敵は殺していい」とか「ポアだポア」とか主張する方々がおられるので(苦笑)。
 よって、客観性・間主観性というものは、限定的にしか存在しないものであり、間主観性を維持できない他人が存在しうるのが常態ということになります。
 間主観が成立しているか、成立しうるかを見極めるのは、対話において重要だと思うのですが、全く頓着しない人がいるのは不思議です。

2001年10月29日(月曜日)
 パイオニア10号に積んだメッセージプレートって、考えてみるととてつもない代物だなぁ。
 例えば現代に生きる私が、1万年後の人類に向かって何かメッセージを残そうと考えたとき、その方法はと問われたら途方に暮れる。
 1万年後まで保ちそうなメディアってなんだろうとか考えたら、とりあえず粘土板ですかねぇ。保存状態にもよるけど6000年くらいの実績はある。んでなかったら、洞窟の岩壁とか。
 で、そこに何語で書こうかと考えると、もうNo Ideaです。っつーか、何語で書いても1万年後にゃ読めないだろうなぁと。
 使用言語、記述様式、通信規約などは、その通信文に内的に記述することができないわけで、そうである以上、規約の伝承問題をどうにかしないと二進も三進も先に進まないわけです。
 ま、これが20年後のワードドキュメントでも条件はほとんど同じなんですけどね。

2001年10月26日(金曜日)
 デジタル化ってなんでしょうか、と考えたときに、結局は標本化と量子化だよねという話に行き着く。これはなにも音に限った話じゃなくて、全てに関して。
 文字処理でも、文字を文字集合に対照して同定するのが標本化で、コードにするのが量子化にあたるわけじゃないですか。(標本化は連続量の整数化なので、この場合標本化と言うべきではないのかもしれないが、文字は偏りを持ちながらも連続的な変化を有する情報なので援用させていただく)
 当然、デジタル化にあたっては、過不足なく情報を保存しうる形態を選ぶわけです。当然、サンプリング時に漏れた情報は全く欠落するので、再現できません。CDなら22.05kHz以上の音は歪むわけです。
 まあ、数値情報化ってのは要するに元がどんな情報であろうと数値にしてしまうことによって一元的に扱えるのが特徴なわけなので、当然基礎的な考え方も共通なわけです。字コードの問題とは言いながらも、根のところではデジタル音声の品質問題とかと共通する部分があったりする。
 しかし文字コードの話をするのに情報理論まで出てくるのは、当然といえば当然ながら、部外者には分かりにくいだろうなぁ。

2001年10月18日(木曜日)
 あの程度の被害では、「生物化学兵器としての炭疽菌」なんてちゃんちゃらおかしくて言えないよ。本当に生物兵器としての炭疽菌が使われたんだったら、今頃N.Y.市は隔離されて全住民の除染をしてなきゃいけないって。死者の数も3ケタは下回らんだろうな。
 敵の狙いは、炭疽菌そのもので人を殺すことじゃなくて、炭疽菌が送り付けられるかもしれないという危険性をいきなり発生させることによって、社会の運用コストを跳ね上げ、これまでのような社会運用を困難なかりしめ、人心に混乱と恐怖を植え付けることに過ぎない。
 よくよく考えれば、宝くじに当たるくらいの確率だってのに。

2001年10月16日(火曜日)
 化学兵器というと毒ガス。毒ガスというとアウシュビッツ。
 というわけでホロコーストと毒ガスの話。
 毒ガスって奴も実は結構難儀な兵器で、第一次大戦の頃には風上から流したガスが、風向きが変わって自軍を直撃したなんて話がある。他にも、陣取り合戦の戦争で、ある陣地に毒ガスを流して敵勢力を全滅させたとしても、そこに自軍が侵入できなければ占拠できないワケで、ガスの拡散を待たねばならぬという問題もある。
「ガスマスクすりゃいいんじゃないの?」なんて意見は、毒ガスというものを良く知らない人の意見。VX等は皮膚からも吸収されるので、化学防護服が必要で、あんなものを着て戦鬪行動などそうそうできるものじゃない。ちなみにVXの毒性は約2週間継続すると言われる。
 そんなわけで、無差別大量虐殺にならともかく、限定戦術戦には化学兵器というのは結構使いにくい。少なくとも私が作戦参謀だったら、自分の目の届く戦場では使わない。ICBMでも使って地球の裏にでもぶち込むならともかく。
 さて、この毒ガスだが、アウシュビッツ等のナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人(やその他の収容者)を虐殺するのに使われたとのことで。
 主にチクロンが使われたと言われているが、チクロンは殺虫剤でそれ単体では人を殺すほどの毒性を発生させるのが困難なんですな。ですからチクロンを加熱して青酸ガスを発生させていたのではないか、と。
 でもですよ。少なくとも私がナチの将校なら、チクロンから青酸ガスを生成してユダヤ人を殺すなんてことはしませんな。
 だって効率悪いもん。
 青酸ガスは猛毒は猛毒なんですけど、致死量の個人差も大きくて、最大で10倍以上の開きがあるんです。っつーことは、確実を期すとなると致死量の10倍の濃度が必要ということになりますわな。しかも使い終わった後は中和作業なり換気作業なりの手間隙が必要なわけです。当然、部屋は気密室でないといけません。漏れたら大変ですからね。
 一回に何人入る部屋を作ったのか知りませんけど、そこに処理する人間を入れて密閉して、ガスを流して全員死亡を確認して、中和・換気を行って死体を運び出す……。
 考えただけでうんざりします。それだったら穴掘らせて上から機関銃掃射しますな。いや、そんなことまでしなくても、食料の配給をちっと減らせば、ほっといても餓死なり病死なりで死ぬしね。ドイツだって決して物資が豊かだったわけじゃないんだから、効率は考えたでしょう。
 ユダヤ人他が大量虐殺されたことは確かだし、きっと中には毒ガスで殺された人もいたでしょう。しかし世間様で思われているような殺され方は多くなかったと思いますよ。多くは餓死か栄養失調、それにともなう病死だったと思います。
 そう考えるのが、合理的です。

2001年10月13日(土曜日)
 勿論それが机上の空論、あるいはだだ甘の理想論だということを自覚した上で言うのだが、アフガニスタンへの米英軍による空爆についての報道と、それに対する世論の動きは、実に間拔けだ。
 既に何が起きているか、あるいは起こっているか、そして何が起こるかについて、予想外のできごとは今のところないと言っても過言ではない。
 有り体に言えば、戦争を始める決定を下す時点で、これらのことは既に予想可能であり想定していなければならない。その上で決断を下したのでなければ、それは「甘い」の一言に尽きる。
 マスメディアは、そういう予測される未来図をきちんと伝えるために存在するんじゃないの?(笑)
 どういうわけか、戦争という奴は、自国民に対して敵を憎ませ、過小評価させ、楽観的なお祭ムードを作り出し、自国軍こそが正義の使者であるかのように思い込ませようとする。実際の戦場では、当然のように敵味方中立関係なく、戦鬪員も非戦鬪員も死んでいって、しかもその死に方ときたら大抵救いようがない上に尊厳もクソもへったくれもない。「お前は正義のために死んだ」と死体になったあとに聞かされたら嬉しいのだろうか? それとも「正義のために(確率的に)死ね」と言われる方が嬉しいのだろうか?
 正義の戦争だから非戦鬪員は一人も死にませんなんて戦争はあるわけなくて、大体、戦鬪員と非戦鬪員の区別なんて、マクロにはともかく現場レベルではわかりっこないし、自分の命が大事だったら「疑わしきは殺す」方式を採るのが当然だ。
 結果、戦争に於いては、人が死ぬ。とにかく死ぬ。
 戦争とは国力を軍事力に転化してぶつけ合う行為である以上、相手に勝利するということは、相手の国力を戦鬪不能レベルにまで叩き落とすということ。国力が国土と国民の生産能力である以上、畑に対人地雷をディスペンサーでばらまき、道路や鉄道や空港にクラスター爆弾を撒き散らし、橋梁を爆破し、発電所や変電所を爆撃し、港湾に機雷を敷設し、工場という工場を操業停止に追い込むこと。生産者である国民をざくざく減らすこと。
 綺麗な戦争だかなんだか知らないけど、陣取り合戦をするわけでない以上、やるべきことは昔から大差ないわけで、そういうことをすればどういう結果が生まれるかなど、やるまえから分かっている。
 そうして初めて得られるものが勝利であり、それが全てなのだ。
 私なんかは「それでも戦争やンの?」と考えるわけで、やるというなら「しょーがないねぇ。じゃ、せめて勝ちましょ」ということになる。国連施設で職員が死のうが、病院で患者が死のうが、無関係の難民が何万人飢え死にしようが凍死しようが、そんなものは「織り込み済み」だ。
「うるせぇ、ンなゴタクは始める前に言えや!」
2001年10月7日(日曜日)
 表に書くと何かと問題になりそうなので。
 児童ポルノ禁止法、正式名称「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」ですが、森山法相が改正に意欲を見せているようで、嫌な気分ですね。元々この法律って、定義が曖昧な用語をいい加減に使ってるので、行政裁量で拡大解釈されまくる危険性が高いシロモノなんですが、より規制を強化しようって言うんですから凄まじい限りです。
 別に児童売買春を規制することに異議を唱えてるんじゃないんですよ。ただ、私は最初から人間の精神の健全性なんぞこれっぽっちも信じていない現実主義者なので、まるで正常と異常を法で定めようとしているかのようなこの法律のありかたに疑問を抱いているだけなんです。
 どうしてあの法律が、あの文言のまま国会を通過したのか、凄く不思議ですよ。
 実のところ、刑法の猥褻物陳列罪や猥褻物販売目的所持(175条)ですら最近じゃ拡大解釈されて、データとはなにか、情報とは何かという根源的な問いに答えないまま、サーバ上のハードディスクが「図画」として猥褻物として認定されている世の中なんです。
 もちろん、言論の自由だって常に責任がつきまとうし、公共の福祉が優先されることは言うまでもないことです。でもそれはそれでちゃんと法律で規制すりゃ済むことなんですよ。禁止するんじゃなくて。
 この辺が、どうもスレ違ってる気がします。
 たとえば売春ですが、日本では基本的に禁止されています。しかし実際には「風俗産業」は花盛りなわけで、もちろんそのような風俗産業にも規制はありますが、一方で合法売春としての側面は野放しに近いものになっています。また、素人売春(いわゆる援助交際)の横行による性病の蔓延という冗談みたいな現象を引き起こしています。さらに言えばそういったお金がどこへ向かっているかという問題もありますわな。
 私だったら、出入りを制限した区画をきちんと用意して、性病予防や対策を施した合法売春を法で規制として保証しますね。ついでに税率を高めておくとか。これだけで素人売春を減らせますし、合法売春婦と顧客の間の衛生問題も管理できますし、最後に資金の流れもある程度監視できます。問題が残るとしたら、モラル的なところですが、その辺については私には理解不能な部分なので問題にはできません。
 児童ポルノに話を戻すと、条文が曖昧なもんだから、真に処罰されるべき対象から、単なるロリコンまで、幅広くカバーできてしまう。当然、法律を読んだだけではどこに境界線があるかわからないので、灰色は黒と看做す「自主規制」が働くんです。
 飲酒は害だといって規制した挙げ句がどうなったか、1920年代のアメリカを例に出して説明するまでもありません。「犯罪」は地下に潜り、社会の健全性を目指したはずの法律は、逆に社会構造そのものを非合法化してしまうんです。
 法律ってのは罪を作るものですんで、何を守るために何を罪にするのか、よく考えてから作らないとロクでもないことになるんですよ。
 この程度、歴史を勉強すりゃわかりそうなもんなんだけどね。

2001年10月5日(金曜日)
 立ち上げるだけでレジストリを書き換えるアプリなんか作るんじゃねぇ!
 後始末に余計時間がかかるだろーが!
2001年9月28日(金曜日)
「それの何が問題なんですか?」
 って質問にきちんと答えられないようなら、そりゃ問題じゃないんでしょうが。あるいはそれが説明できないっていうんなら、問題を把握してないってことですな。訴える側が把握もできていない問題を解決することは本質的には不可能だよね。
 俺、超能力者じゃないし。

2001年9月26日(水曜日)
 MODEMを修理に出している某社からFAX。「現象が再現しませんでした」。
 んー。シリアルポートからノイズぶちこんでそれが電話線から出なかったってことかしらね? そりゃまた不思議なことだ。こちらではどうやっても電話線にノイズが漏出したが……。
 まあ、どう考えても設計レベルの問題を「故障」と行ってメーカーに送り付けた私にも問題があるわけで、FAXで再回答を送りつつ、最後の「最終的に再現しなかった場合」の欄に「処分して下さい」と書いておく。
 だって使い物になんないんだもん、そんなキカイ。

2001年9月22日(土曜日)
 朝、痛みで目覚める。
 血尿が出る。
 あー。
 まただね。
 とりあえず医者を捜して薬だけ貰ってくる。慣れたもんです。

2001年9月20日(木曜日)
 結局ラベルの件は私がミスを犯したことになった。原因も分からないまま。
「外字を内字に変更したことを発送業者に通達しなかった」ことがミスであることになった。すべてそのように説明された。
 私にもし手落ちがあったとしたら、それは発送業者側の出力環境を確認せずにデータを流したことだろうが、原因の追求や因果関係の究明はなされなかった。

2001年9月19日(水曜日)
 発送業者が出力するラベルの一部が文字化けして「?」マークになっていたことがわかった。こちらから渡しているデータを確認したが、そのような事実は認められなかった。ただ、その字はこれまで外字を作って対処していたものを、私が調査した結果外字を作らなくてもUnicode & MS明朝で出力可能な字であるので外字使用を止めた字だった。当然、当方内部での問題は発生していない。データの受け渡しは問題なく行われていたので、発送業者の出力環境の問題であることは間違いがない。
 考えられる原因は、要素が十程度、組み合わせは数十パターン以上なのだが、どれかと確定できるだけの情報はこちらにはない。
 つまり、原因は究明不能。当然有効な対処もわからない。
 にも拘らず、上長はこう言った。
「Unicodeの問題でしょう」
 ……。
「それは『火事の原因は火だ』って言っているのと同じです」
 そう言い返しといた。

2001年9月18日(火曜日)
 外付け56kモデムが叩き売りをしていたので、ものは試しと買ってきてみた。
 箱から取り出した時に、その異様な軽さに、胸騒ぎがした。
 ダイヤルするときに、全くといっていいほど音がしない。変だ。
 回線を切って、Telに繋いだ電話機の受話器を持ち上げてみる。
 ノイズの嵐。
 やっぱりリレースイッチを使ってない!
 PCのシリアルから出てるノイズ(多分電源由来)が、繋いである電話線に全部だだ漏れ……。
 誰だよ、これ設計した奴? PCなんてノイズの塊みたいなもんなんだから、最低限の対策くらいしろよな。
 とりあえずメーカーに送ってはみたが、「仕様です」だろうなぁ。
(現象も原因も対策不能も理解していて「修理」に出す奴>私……)
2001年9月13日(木曜日)
 現状把握能力が欠けている人間には、未来をデザインすることもできない。
 絶対にどこかで線引きをせにゃならんのに、それはできない、外字を作って対処せよだなんて、その後のことを考えたら、とてもまともな神経で言っているとは思えない。
 最近はすっかり「沈黙は金」。
 確かにこれまでマシンごとにバラバラだった外字ファイルを、リファレンスマシンを中心に共有するようにしたのは私ですが、その結果みんながてんでばらばらに使っていた外字が化けたとしても、そんなの私の責任の管轄外だし、対処も不可能。だって外字ってそういうものだもの。
 そういう事態を招来した原因も考えずに、またまた外字を作れ、使えと指示をする。最近じゃデータのままで名簿等を外に出す機会も増えているというのに、一体どれほどの障害が発生しているかわかっていないのか。
 交戦規定のない軍隊みたいだ。

2001年9月12日(水曜日)
 それが常に正しいというつもりはないのだよ。
 ただ、その判断を必要とされるときに、「まだ見ぬ数千人の犠牲者を救うために、目の前の200人を犠牲にする」決断を必要とされる場合があるというだけの話。
2001年9月9日(日曜日)
 自分の家のコンセントやら壁のスイッチやら取り替えるのに、電気工事士の資格が必要ってのも変な話だよな。まあ、危険っちゃぁ危険なんだけどさ。
 知っててやる私も私だが(笑)、そういう部品が東急ハンズあたりで平然と買えてしまうのも問題あるんじゃないのか?

2001年9月7日(金曜日)
 に連動した話題。
 目的は手段を正当化しないが、それ以外に手段を正当化するものが一つだけ存在する。
 それは「結果」である。
 その最たるものが戦争なのだが、世間様一般にも大体当てはまる。
 私は実のところこの考え方が非常に嫌いで、できることならこの世から失われてほしいと思っている。しかし残念ながら当面このドグマが変わることはないことも能く承知しているので、せいぜい利用させてもらっている。
 歴史学を学んだものの悲劇は、自らの行いが愚行であることを知りながら行動しなければならないことだろう。

2001年9月4日(火曜日)
 私と上司の言葉は同じ日本語なのに、本当に通じ合わない。
 理由は多分、私は不自然であっても論理的整合性を優先させて言葉を理解しようとし、上長は自分の言語の非論理性に気付いていないからだろう。多分気付いたとしても、今更何が変わるとは思わないが。

2001年9月1日(土曜日)
 私たちによるアースの登録申請を見て、なにやらあれもこれもと言っている連中がいるみたいだけど、自分でやりゃぁいいんだよ、そんなの。
 そのために、前例作ってるんだから。

 昨日一晩保冷剤で足首を冷やした。今日は消炎鎮痛剤を塗り、その上から湿布し、テーピング&繃帯どめ。
 とりあえずこれで歩くのに支障はないはず。痛みはあるが。
 まあ、どっちかというと、昨日捻挫をした後に平然と歩いて帰ってきたのが悪いじゃないかという気がするね。いや、今日も平然と歩いてたけどさ。
 安全装置関係がイカレてると怪我をしてもその部位を平気で動かせるのはいいんだけど、怪我が悪化しちゃうのが問題だよ。


2001年8月30日(木曜日)
 テレパシーとかさ、未来予知とかさ、透視能力とかさ、そーゆー私に備わっていない能力を前提とした成果を求められても、応えようがないと思うんですがね。私ゃせいぜい数値的、統計的に予測可能な未来の状況に対し、自分の能力と権限と費用対効果が許す限りでの対処をするくらいしかできませんし、破綻してしまった現在状況における立て直しを最前線でやってたのに、その先のことを考えて布石を打っとけなんて言われても、そんな余裕あるわけないじゃんとしか言いようがない。そもそもそういう状況を大局から指揮するために上官っつーのは存在するんだろう?
2001年8月25日(土曜日)
 に連動した話題
 本来公選制度であるべき組織が任命制度になっていることにより、問題を引き起こしている組織が、教育委員会の他にもう一つある。
 公安委員会だ。
 都道府県公安委員会は、自治体警察の上位に存在し、これらの適切な指導や監視・監査を行う組織である。ところがこれはいつの間にやら行政任命による委員会となり、手足となるべき事務組織もなく、警察を監督する任務を果たせなくなっている。
 その結果がどのような事態を招いたかは、説明するまでもない。
 勿論、公安委員会がきちんと公選制であったからといって涜職がなくなるわけではない。しかし、事が起きたときの責任の所在と対処が明確になる。
 警察と軍は民主国家が内在する非民主的暴力組織である。それ故に、監視機構については慎重を期さねばならない。
 もちろん、暴力組織としての意味をスポイルしないことも考えつつ、バランスを取って、だが。

2001年8月21日(火曜日)
 新しい、統合された宇宙組織には、強力な広報部門をおいて、CI戦略から練り倒し、カッコイイ組織名と略称、そしてロゴマークを策定してもらいたいものだ。それこそ、ロゴ入りジャケットを若者が着て歩くくらいのね。
 無駄と思われるかもしれないけど、そういう広報が、色々な意味で種蒔きになるんですから。

 そしてふと私の居る組織を鑑みるに……ま、いっか。
 「会員証をeTRONカードにしよう!」とか言い出されも困るし。
 私が。


2001年8月13日(月曜日)
 私の知る限り、日本はもっとも政教分離が進んだ国の一つだ。
 米国の大統領就任式を見て、「一体キリスト教徒以外の奴が大統領になったらどうするんだろう」とか思わないだろうか? あるいは裁判における宣誓を見て。
 米国のアーリントン国立戦没者墓地は可能な限り宗教色を廃してはいるが、それでもユダヤ教とプロテスタント/カソリックの様式が中心である。あそこに日蓮宗の丸い墓石が立っていたら相当無気味だ。
 人間が何かの祭祀を行おうと思えば、そこに宗教色が入ることを阻止することはできない。なぜなら、宗教は正に祀るために存在するからだ。もちろん度合というものはあって、宗教国家であれば国教の形式とするだろうし、多宗教国家ならそれなりの対応をしなければいけない。しかし、無宗教ではできない。
 無宗教で個人が誰かを悼むことはできる。しかし、集団で人を悼むのに無宗教ではまずできない。様式が必要なのだ。
 それがたまたま神道の形をしているからといって、取り立てて目くじらを立てるほどでもない。
 あと、これは宗教的常識なのであるが、死者を悼む形式については、互いに文句は付けないことになっている。色々な理由はあるが、究極的にはこうなる。
「人間は死ぬ時と場所を選べない」
 つまり、どんな状況においても人は死ぬので、必ずしも死んだ人間の信条に沿った弔いができるとは限らない。よって、その人間がいかように弔われようとも、その弔いたいという心を尊重し、あえて形式を問わない、というのが宗教間における暗黙の了解である。
 嘘だと思うなら、司祭様や和尚様に聞いてみるといい。「信教不明な死者がでたら、どう弔いますか、と」
 各自の方法で弔うという答えが返ってくる。そして、もし自分がそのように弔われても、相手に文句を言わないようにと言われるだろう。
 弔う意志こそが重要なのであって、敢えて形式は問うてはいけないのだ。
 私もそう思う。
 私は無宗教無信教だが、時に祈る方法が欲しくなる。柏手を打つことも十字を切ることもできないのは、結構形式が必要な場所では辛いのだよ。

2001年8月1日(水曜日)
 テレパシーとか、なんだか存在すら怪しいものを前提としているとしか思えないコミュニケーション方法はとらないで欲しい。人間が何のために言語を持っているのかわからなくなる。
 あと、できれば言いたいことは簡潔・明確に述べて欲しい。現状への不満だけを述べられても対処できない。どう変えればいいのか、どう変えて欲しいのか、きちんと提示してもらえないと実現可能性の検討すらできない。

2001年7月29日(日曜日)
 表の話の補足。
 「民主主義国家を構成しうる国民としての最低限の教養」という考えのどこに問題があるかというと、「じゃあそれすら満たさなかった人間は民主主義国家を構成する国民たり得ない」というとんでもない論法に結び付きかねないからだ。
 この手の理解は、現在でも少なくない。
 小学校、中学校にも行かずに成長すると、人間として最低限の教養が身に付かない、という意見だ。
 僕は幸い、フリースクールで「そんなことはない」という事実を見知っているが、恐らく授業内容が精選されたという理解が広まれば、上記のような誤解は更に強まるだろう。
 どういうわけか、「最低限の基礎教養」を身に着けた人に多いんだ、そういう発想って。

2001年7月14日(土曜日)
 実は表の話には続きがある。
 大久保利通の件が終わった直後だった。頭痛を抱えながら仕事をしていた私は、ふと会員からの献本のタイトルに興味を覚えた。『フェノロサと魔女の町』。アーネスト・フェノロサの出身地は、米国で唯一、魔女裁判が行われた町で、仏教に帰依して帰国したフェノロサにとっては住みにくい町だった……というのが大体の趣旨のノンフィクション。
「へえ。フェノロサか……」
 そしてそのバイトの娘はかく宣った。
「ふぇのろさってなんですか?」
2001年7月10日(火曜日)
 我はより精緻な欺瞞にのみ魅力を覚える
 TRONプロジェクトによる行頭移動指定付箋問題についての公式見解に潜む幼稚な嘘は、「仕様書内で改行と改段落の意味的相違については言及していない」というところに尽きる。
 つまり現象的相違については仕様書内の記述に従うことで実現可能であるが、意味的違いに関しては誰も何も確乎としたことが言えないのである。正に坂村健の独擅場である。

2001年7月8日(日曜日)
 学生時代、経済学の試験で、問題に不備があって解答不能だったことがあった。もっとも、授業に真面目に出ていれば、その不備の部分を補って解答することは可能だったのだが。
 勿論私は解答用紙に問題の不備を指摘し、これが解答不能であることを明記しておいた。
 結果は不合格だった。
 その授業を再履修しなかったことは言うまでもない。
 言うまでもないことだが、試験問題に不備を用意し、授業を受けたものだけが解答できるような細工をしているのであれば、それは科学知識に対する冒涜である。自然科学か人文科学であるかを問わず、科学とは同じ前提に立ち、同じ理論展開に基づくとき、同じ結論に到達しえなければならない。それを意図的に阻害しようというのは科学的見地ではない。
 また、単に出題ミスであったのであれば、そのミスを看過しなかったの不合格は即ち教官を含めての結果である。よって二度と履修する必要がない。
 私の学部時代を通じて僅か二つの落第の一つは、このようにして得られたのである。

2001年7月5日(水曜日)
 私が嫌いなもの。
 因習や慣習に基づく非論理的な判断を、合理的で論理的な判断に優先させること。
 合理的で論理的に導かれた最善の判断に対して、因習や慣習に基づいた非論理的な判断が優先されるとき、吐きたいほど感情が昂ぶる。
 私は至極常識的な人間だが、合理的で論理的な最適解があるならば、それが非常識だろうが非一般的だろうが反慣習的だろうが実行する。なぜならそれが、私が見出しうる最善の解だからだ。
 合理的でもなく論理的でもなく、ただ常識的で一般的で慣習的であるというだけで、最善でもなんでもない判断が優先されることは、間違っている。
 世界が不変であるかのような前提に立った判断や、基準も定義も閾値も実在しない架空の線引きや、他人を隷従させるためだけの価値観の押し付けは、全部無用に願いたいものだ。

2001年7月3日(火曜日)
 千鳥ヶ淵の戦没者公園と靖国神社には、決定的な違いがある。
 私は国家神道を是認するものではないが、敗戦記念日に首相が参るなら千鳥ヶ淵だろうと思う。逆に、建国記念日にこそ靖国神社に参拝すべきだろう。靖国神社に奉られているのは、戊辰戦争の時より国の礎として命を失った者である。中には日清・日露戦争は言うに及ばず、台湾征伐や、朝鮮・台湾出身の者も含まれている。我々は間違っても彼らに対する感謝の念を忘れるべきではない。
 戦前の日本を全否定するのも結構だが、靖国の霊前で「あんた達は全員犬死にだった」と言ってみろ。

 戦中の朝鮮人・台湾人軍属について、補償を行うならば、それは謝罪ではなく感謝であるべきだと思う。
 彼らは帝国軍人・軍属としてその職務を全うしたのであり、国家として彼らに感謝の念を示すことは当然である。
 もっとも、感謝の念を受け取るかどうかは、彼らの自由ではあるのだが。